第4話 オ答エシ〼


黒川望は、へびねこはブランコに腰をかけた。


「じゃあ、とりあえず何から言おうかな。そうね。歳は、天の川の形は両面凸レンズと同じなら、ボク達は今、凸レンズのどの辺で動いているのかしらと普段から考えてる十四歳」


普段から何を考えているんだこの十四歳。

穂積の喉元までその言葉が出そうになった。


「それからご承知の通り、ボクは噂の通り、記憶を食べる『へびねこ』。人々がボクに忘れたい記憶を差し出せば、ボクがいただいて、その人からきれいさっぱり記憶が抜けて忘れ去られる。ね?単純、でしょ?」


望は指先を猫耳でさしたり、くるくるふりふりしながら説明し、ぴっと、指を三本立てる。


「それじゃあ質問をどうぞ、マスター。三つまでね」


「なぜ、三つだけなんだ?」


思わず穂積が聞き返すと、望は立てた三本指のうち薬指を閉じた。


「この後3人前食べなきゃいけないから。はい、あとふたつ」


今のも数えられてしまうのかと望に呆れながらも慎重に疑問を選んだ。

なぜ3人前?食べる記憶の事か。この際、3人前だから三つの質問に答える関連性には目を閉じよう。

今、知りたいことは…


「私に噛み付いたあの黒い蛇は一体何だ?」


「あれは忘れたい記憶の権化。あれらはボクに差し出されたボクへの糧だから、餌蛇って呼んでる。でもたまに逃げ出して、他の人に噛み付いて、忘れたい記憶を他の人に移す。毒を流すのと同じ。噛まれた人は誰かが受けた記憶をずっと受け続けて、さいなまれて、やがて自分がその記憶の持ち主になって自分を忘れてしまうの」


淡々とした口調を変えることなく恐ろしい事を告げた。

だから、と望は続ける。


「あのままだとあなた、ふたり分の記憶に乗っ取られて彼にも彼女にもなって、あなたが消えて、危険だったの。自己消滅願望があるなら別だけど」


口の端で微笑む望に居心地の悪さを感じ、穂積は口を出す。


「冗談じゃない…!勝手に他人の記憶で自分を消されてたまるか」


語気を荒らげて穂積は詰め寄る。だが、自分で言っておきながら、穂積はハッとする。

大人に迫害され、苗字すらなかった『太一』という少年。親に売られて体の隅々まで使われる『田無ヨシエ』。全くの赤の他人である子ども達の苦痛を、手放したくなるほどの痛みをその身に受けたではないか。だからこそ、「よくある話」と片付ける兎耳山にも、彼らの苦悩を利用するジャーナリズムにも、無知で何もできない自分にも腹を立てたのではないか。

子ども達の為なら、あの痛みを肩代わりに自分なぞ捨ててやってもいいほどに怒りを覚えたのにも関わらず、子ども達の苦痛を他人の記憶と足蹴し自分を守る発言をした。

どの口が言っているんだと穂積は自分で自分をなじった。


「声を荒らげてすまない。君は私を救った恩人なのにな」


「恩人?誰が?ボクは取り逃した食事をしただけ。あなたは勝手に助かっただけ、でしょ?」


まるで意に介さないように望は中指を閉じ、人差し指を唇の下に当てた。


「最後のひとつは何じゃろな?」


穂積は冷静になって、より慎重に疑問を選んだ。

記憶を食べるという『へびねこ』は実在した。人々は忘れたい記憶を彼女に差し出すという噂も正しかった。残る気になる噂といえば。


「『蛇猫軒』はどこにあるんだい?」


その質問に、望はまるで駆け引きに勝った商人のような笑顔で答えた。


「あなたはボクを見つけた。それだけでここは『蛇猫軒』の中、でしょ? 」


望の左目から白い蛇が次々にゅるにゅると出てくる。9頭の細い白蛇が赤い目で穂積を見つめる。物欲しそうに舌をチロチロさせながら。

穂積は自分が蛇に睨まれたカエルの気分になった。動けない。冷や汗ばかりがあふれてくる。

このへびねこは、見つけてはならないと身体が叫ぶ。

記憶を全て、食われて、自分を忘れると叫んでいる。食われまいと他者に噛み付いて記憶の毒で他者を忘れさせるあの黒い餌蛇と変わらない。


見つけてはならなかった。

見るべきではなかった。

見たら終わりだった。


「ねえ、その珈琲、あまいの?」


甘く誘うように望は穂積の手元を指さした。穂積が目を下ろすと、手にはなぜか藍色の珈琲カップが置かれていた。夜空の闇色の珈琲が熱い湯気を立てている。優しく香ばしい、野花に似た懐かしい香り。その中に小さな光が簪の星座のように揺れる。

いつの間に。これは、なんだ?

珈琲を入れた覚えのない穂積は頭の中で狼狽えるが、おかまいなしに望は滑るように穂積の手に自分の手を添えた。その手は冷たくも暖かくも無い。まったく体温がなかった。


「ねえ、その記憶、ちょうだいませ」


珈琲よりも深く見えない、暗い目の望はいたずらっけたっぷりに微笑む。白蛇は穂積に絡みつき、望は珈琲カップを掲げた。望の手からふわりと浮かび上がる珈琲に9頭の白蛇は食らいついた。

穂積は、やめろと叫びたかったが口も体も動けなかった。

穂積の頭の中で、何かが消えた。けれども何が消えたのか、全く分からなかった。


「安心して、マスター。いただいたのはちょこっとした記憶だから」


淡々な望の声が聞こえると、風がどうと吹いた。

髪を振り乱されたが、一瞬で止んで、昨日と同じく何も変わらない、何も動いてない店の中に穂積はいた。望はもういなかった。脱いだ銀のパンプスもなく、跡形もなく、また彼女は消えた。

唖然とするしかない穂積だが、すぐに頭を抱えて記憶を遡った。

昨日の出来事。自分の名前。妻の名前。生まれた日。生い立ちや妻との出会い。本との出会い。芸人との苦労の連続。貧困の日々。婚約。珈琲との出会い。この店を開店した日。妻を失った日。この辺りの地理や抜け道。近所の面々や兎耳山。

自分が今まで生きてきて大事だと思うものはすべて覚えていたが大丈夫のようだった。日常に必要なものも忘れてはいなかった。

カウンターに手を付くと、しゃら、と星座の簪に触れた。

手に取って、思い返す。珈琲の中に映った星。ゆらゆらゆらめく、簪の星座にも似た光。

思えばこの簪は穂積に贈られたものだった。

でも誰に?

妻か?


『射手座ね。あなたの星座かしら?』


違う。


『奥さんの星座?』


それも違うと、穂積は今なら反射的に返した。

射手座は自分の星座でも妻の星座でもない。

誰から贈り物か、誰の星座か、分からないものをずっと手にして、普段使いに、けれども愛用のコーヒーミルよりもずっと大事に使っていた。

この簪をくれたものは誰だったのか、忘れてしまっている。大事に使うほど大切な誰かからの贈り物。


珈琲の水面にゆれる星。

あの記憶の珈琲は、簪の贈り主との記憶だろうか。


それが、ちょこっとした記憶?


ふざけるな。


人の記憶を勝手に食べておいて、何がちょこっとした記憶だ。


「取り返せねば」


穂積は呟いた。怒りを吐き出すように。


「食われたままにしておけるか…!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る