第3話 ゴ挨拶シ〼


「マスター!」


烏が鳴き喚いている気がした。

だが自分を呼ぶ声の主は、よく知る友人で、瓶底メガネの新聞記者。


「兎耳山…?」


メガネの彼にゆり起こされた穂積はしぱしぱと瞬く。白い朝日が白い店の中に反射してまばゆい。

反射光の憎らしさよ、と穂積は目に手を当てた。


「大丈夫ッスか?路地の角で倒れてたんスよ!何があったんスか!?」


「あぁ…」


そうか、と穂積は漠然と思い出した。

昨晩、目の赤い黒蛇に噛まれて悶え苦しんでいた所を、猫耳と白蛇を生やした娘が現れて、毒を吸い出して…

毒を吸い出した?

違うなと穂積は頭の中で横に振った。

毒ではなく、痛みだ。殴られる記憶の体の痛みと虐げられる記憶の胃の痛み。それらをあの娘が、どこからどう見ても珍奇で異形な風体のあの娘が食べてしまったのだ。

おかげで死を覚悟した痛みから救われた。

だが、あの娘は何者だ?

赤の他人の記憶が流れ、体に受けたあの痛みは?

黒蛇は?白蛇は?


「まったく、わからん」


穂積はそれだけを兎耳山に伝えた。


兎耳山はというと、朝の珈琲を飲みにカフェーに立ち寄ろうとした折に路地で倒れている穂積を見つけて店に連れてきたらしい。

気を失ってからずっと眠りこけていたであろう穂積の髪は簪が取れて乱れ放題。銭湯に入ったとは思えないほど泥にまみれた体と着物。しかし、蛇に噛まれた痕も、刻まれたはずの名前も、何一つ残っていなかった。


「とりあえず無事で良かったッスよ…」


綿密に怪我などないか兎耳山に調べられ、穂積はようやく手ぬぐいで泥を落とした。手早く着替えを済まし、赤毛に櫛を通した。


「近頃は物騒ッスから…子どもの失踪騒ぎとか」


思わず髪をすく手を止める穂積は兎耳山に尋ねた。


「…どこの子どもが失踪したんだ?この界隈か?」


「隣町ッス。蒲田長屋の子どもがひとり、一昨日から行方不明って届けがあって。けれどそいつァワケありの子どもで、母親の愛人の博打狂いから殴る蹴るの毎日を送ってたそうッス」


穂積の全身に何度も殴られる痛みがぶり返した気がした。


「あーあと、先月から柴咲村一の米農家から住み込みの娘が失踪してるッス。それもまだ見つかってなくって。何でも親の借金の肩代わりに売られた娘らしいッス」


今度は胃が痛むような…穂積は眉をひそめ険しい顔つきになっていった。


「家や仕事がつらくなった子どもの家出なんてよくある話なのに、編集長と来たらへびねこの噂に絡めて記事を作れだなんて無茶言い出して…真実はどうした?でっちあげなんてジャーナリストの腕が泣くってもんッスよ。オイラぁそんな記事ごめんだね」


よくある話。

よくある話?


穂積の腸が煮えくり返ってきた。


子どもを殴る大の男が、自分をかばいもしない母がいる家がつらくて家出する事がよくある話?

学校を辞めさせられ、親に売られ、こき使われ、慰みものになる仕事がつらくて家出する事がよくある話?


穂積は櫛を荒々しく片付けると、着替えたばかりのベストを脱ぎ、きっちり閉めたシャツのボタンを開き、首元をのぞかせた。

急に態度が変わった穂積に、兎耳山はうろたえた。


「マスター?どうしたんスか?」


「本日は臨時休業だ」


「え?何でまた急に!?」


「悪い。この礼はまた今度」


兎耳山が面くらっているうちに、穂積はあっという間に普段着の藍染の作務衣を着て、完全に休日の装いになった。だが、決してくつろぐ為ではない。顔には出ないが、気が今までになく立っている。鬼のごとく圧倒的な穂積に気圧され、睨まれ、肝を縮めた兎耳山は背中を丸めた。


「う…なんか、すいませんッス…お邪魔したッス…」


頭をぺこぺこ下げて兎耳山は帰って行った。

兎耳山が全て悪いわけではなかったが、子どもの家出話をよくある話だと割り切る彼も、子どもの痛みを知らずに怪異じみた噂に絡めて世間に流すジャーナリズムも、大人のあるべき姿とは言い難い。子どもを殴り、こき使う連中と何ら変わりない。

けれども、何より自分自身に腹が立った。自分もまた、例外なく、ご多分にもれず、痛みを知らなければ何もできない大人だということを。

あのふたつの痛みは、忘れるはずがない。記憶の中で見た自分を殴る男の酒でふくれた赤ら顔も、命令する人々の卑しい顔も、忘れられるわけがない。

穂積が痛みを感じた子ども達は、あれが日常だったのだ。

そしてその痛みを吸い出して食べたのは、異形の体とはいえ、同じ子ども。


激しい怒りとやるせなさで、穂積はとても店を開く状態では無かった。こんな調子で客に珈琲なぞ入れられなかった。珈琲は入れる人間に素直だ。今の自分は客に珈琲を出せる資格がない。昨日の銭湯帰りの桶さえ片づけていない。

さらに汚れた桶の中身を見て、はっと気づく。

風呂上がりには必ず使う星座の簪が、ない。

穂積は探したが見当たらなかった。黒蛇に襲われた時に落としたのか、と思いつく。探さねば、今すぐにでも。


「荒れてるよ、マスター」


また聞き覚えのある声が、店に通る。

穂積が振り向くと、音もなく昨日の少女が土間に立っていた。だが、モガでも黒猫姿でもなかった。

孔雀の羽がゆれるツツジ色のベレー帽。白い肌に映える紅。耳にはゆらゆら孔雀の羽。菱文様の白い半衿に黒のフリルの伊達襟。流行りの色の虹縞の紬に銀糸で織ったレースショール。銀の帯締め。黒地に豪奢な孔雀の羽が刺繍された名古屋帯に巡らせた銀のバックルの黒い細革ベルト。黒の孔雀レースの裾からのぞくギラギラ輝くパンプス。まるで成金のじゃじゃ馬娘の出で立ちで、そこにいた。

口元に不敵な笑みさえ浮かばせて、何も映さない黒い瞳で穂積を見ていた。


「あんがい、態度に出やすいのね」


最初から穂積を見ていたかのような口ぶりで、彼女は紬をつまむと、パンプスを脱ぎ、綺麗な所作でパンプスを揃え、ひらりと店に上がった。白く静かなカフェーに、虹色の孔雀が舞い降りたようだった。


「あなたの探し物を見つけたの。ずいぶんシャレたものを使ってるのね」


懐に手を入れると、しゃらりと穂積がなくした星座の簪を取り出す。泥もなく、飴色の簪を黒いレース手袋の両手に添えて穂積に差し出した。

またしても理解が追いつかない穂積は促されたように簪を手にした。紛れもない自身の簪だ。


「射手座ね。あなたの星座かしら」


彼女は簪にゆれる星座の名称を当てた。


「いや」と、穂積は短く答えた。


「奥さんの星座?」


ずばり当てに来たというように彼女は尋ねる。穂積は独身だが、彼女くらいの歳からすれば妻帯者に見えるのだろう。あまり子どもが尋ねるような質問ではないが。


「…ああ」


何か気まずいようなひっかかるような気持ちになりながらも穂積は答えた。

妻は、かゑは、射手座だった…はず。


「ふーん。じゃあ、さようなら」


興味無さそうに食い気味に返す彼女は、用件はそれだけと踵を返した。


「待ってくれ」


穂積は呼び止めた。片方のパンプスに入れる足を彼女は止める。


「昨夜の事は…礼を言う。簪の事も。ついでに教えてくれないか。あの黒蛇と、記憶の事…君の…白蛇と猫の姿の事を」


最後まで口にして、穂積はようやく気づいた。彼女の正体の事。これまでに何度か耳にしてきた噂の名前。


「あんがい、鈍いのね、あなた」


抑揚のない声で、唇だけで微笑み、彼女は見返り美人のように振り返る。

艶やかな黒髪からぴょこりと猫耳。

左目からは、白蛇が生えてコンニチワと舌を出す。


「ボクは黒川望。『黒い川で月の王が亡くなって』黒川望。ボクが噂の『へびねこ』。もう知ってる、でしょ?」

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