第2話 イタダキ〼


こんな噂を知ってるかい?

しんどいきついつらい記憶も

かなしいさびしいむなしい記憶も

みーんな食べて忘れさせてくれる

『へびねこ』がいるんだって

それは人か、妖怪かって?

さあ知らないね

でも

そいつは蛇猫軒ってカフェーにいて

忘れたい記憶がある客を待っているんだ

蛇猫軒へはどう行くのかって?

さあ知らないね

どこぞのカフェーになりすましてるんだろ?

記憶を食べてもらった客がどうなったかって?

さあ知らないね

きれいさっぱりとした顔して普通に過ごしてるよ

客は『へびねこ』の顔を見たのかって?

さあ知らないね

蛇顔なのか猫顔なのか

忘れたい記憶はどんな味かって?

さあ知らないね

記憶に味があるのかい?




穂積は、街で囁かれる人々の噂に耳を傾けつつ金色の午後に現れた珍客を思い出して銭湯からの帰路についていた。

珈琲の味も知らない、甘いの味も知らない小さなモダンガールが妙に忘れられなかった。

星座を象ったベークライトの揺れもの簪で纏めた赤毛は濡れ、まだ冷たい春の夜に雫をきらめかせ、あの娘を思い出す。


穂積は子どもからは怖がられる顔である。小さな琥珀の瞳、大きな白目のせいでまなざしは研いだ刃のごとく鋭い。顔の骨格も二等辺三角形で、表情が堅い中年男である。彼岸花と同じ色の長い髪は風呂上がりくらいしか結わないため、普段は川のように流している。

そのような容姿、乏しい表情から近所の子ども達からは『赤鬼』と噂されている穂積だが、穂積自身は子どもは嫌いではなかった。むしろ妻がいれば子どもが欲しいくらいだった。

愛する妻は体を壊して亡くなり、やもめの身でこの十四年を過ごしてきた。妻が息災なら子どものひとりやふたりいたはずだった。銭湯からの帰りも、手を繋いではしゃぎながら、妻に内緒でポン水やちょっとした玩具も買ってあげていたはずだ。けれども、今は自分ではなくすれ違う他人の家族にその光景が与えられていた。それをどんなに羨ましいと思っても、すでに妻はいない、妻との間に子どもはいないと現実を見た。その幸せは自分には二度とないと言い聞かせ、顔を強ばらせた。

それでももしも、子どもがいたのならと考える。

学校に行かせて、読み書きや計算を習わせて学ぶ楽しさを知り、友達と遊んで喧嘩して仲直りして人との繋がり、人付き合いを知って…

甘いの味を知らない子には、味を教えて…


(なぜだ?)


穂積は思わず、足を止める。


(なぜ、あの娘の事を思い出す?)


穂積はまたあの娘の事を思い返していた。

味は痛いと言った小さなモガ。

この国の子ども達が学校に通う事が難しいとはいえ、味には酸いも甘いも苦いもうまいも、学校で学ばずとも食べれば自ずとわかるはずだった。人間、ものを食べなければ生きていけないものだ。味ももれなくついてくる。嫌でも不味いものも口にする。不味いとわかれば吐き出す事もできる。そうして口にして大丈夫なものを選び自分の命、体を守る事ができる。

けれども、あの娘は、甘いを知らない。珈琲を飲んだ事がないというのならばわかる。味覚が鈍いといえばそれまでだったが、『あまい』の言葉自体初めて口にしたような言い方だった。

もしも彼女が洋装をあつらえられるほどの身分ならば知識と教養をその身に学んでいるはず。菓子が甘い事も知っているはず。それなのに、きれいな身なりで味と言葉がかみ合わないという矛盾が彼女の異様さを浮き彫りにした。

穂積が彼女から危険な予感を抱いた理由は、そこにある様な気がした。


すっかり人通りが絶え、カフェーへの路地にさしかかった所、穂積は足首に何から巻き付く違和感を走る悪寒と共に抱いた。

ぞわりと背筋をなでるように神経が逆立ち、足元に目を落とすと夜の暗がりの道でもはっきりとわかるほどの黒い蛇が、炯々と目を赤く光らせて穂積の足に巻きついていた。

咄嗟に、桶を手放して蛇の頭を掴み、蛇が絡みついた足と蛇の間に指を突っ込み引き剥がした。こうした蛇の扱いは子どもの頃から経験していた。黒蛇なら毒もないから問題はない事も熟知していたが、この蛇はひと目見ただけで危険と察した。引き剥がされそうになった蛇は、ぐねぐねと身をよじらせ、さらに体を伸ばして足首から太ももへと絡ませた。掴まれた黒蛇の頭が、赤く目を光らせて狂ったようにシャーと威嚇する。鋭い金属が擦れ合う嫌な威嚇の声だった。さらに血のような色の舌で、餌を求めるように穂積の顔を舐める。

穂積はこの世の蛇ではない蛇を抑え込もうと孤軍奮闘するが、もう片方の足にも別の黒蛇が巻きついていた。気づいたが最後、太ももに絡みつかれて、赤い牙で噛まれた。蛇の牙は短いが、太ももから全身に重い痛みが走った。次々と殴られたような鈍痛が襲い、穂積は倒れた。星座の簪が離れる。

その拍子に蛇頭を掴んでいた手が離れ、手の蛇は穂積の手をかじった。途端に、ギリギリと胃が痛み出した。


(なんだ、これ、は)


穂積はのたうち回った。全身に殴られたような鈍痛と、引きちぎれそうな胃痛が襲う。腹を抱えるべきか体を守るように抱くべきかわからなかった。ふたつの激しい痛みに悶えながら、穂積の頭の中の幻燈機が何かを映した。

ひとつは、自分を殴りつける大男とくたびれた顔のはだけた女。彼らを穂積の頭は知っていた。女は産みの母で、男はその愛人だ。博打に負けた憂さ晴らしに男は自分を殴りつける。自分は幼い少年だ。名前もわかる。だが、丁嵐穂積ではない。

もうひとつも丁嵐穂積ではない名前の、今度は少女だ。4年生で学校を辞めさせられ、どこかの農家で住み込みの手伝いをしている。蛭に足を吸われながら田植えし、農家の連中にこき使われ、飯炊き、洗濯、掃除、糞の始末。夜には主人の慰みものにされ、何年も過ごしている。ようやく自分は親に売られたのだと気づく。すっかりやつれて赤切れした手足、皮だけの体、抜ける髪、ギリギリ痛む胃に悶えた。


(これは何なんだ?だれの、記憶な…痛み、な、のか?)


穂積は自分の腕に、太ももに、ふたつの痛みの主の名前がプチプチと針を刺して刻まれていく感覚に、痛みに抗った。腕には『太一』、太ももには『田無ヨシエ』と刻印される。


(ちがう。俺は、その名前ではない。彼でも彼女でも、ない…おれ、は…)


「穂積」


懐かしい妻の声。柔らかで訛りの入った穏やかな声を、呼び起こす。


「かゑ…」


穂積は妻の名を呼んだ。どのくらいの月日を経ても絶対に忘れない、愛しい人の名前。

痛みで意識が遠くなっても、穂積は妻を呼び頭の中の幻燈機に妻を映した。丸い顔にそばかす。小粋に笑う妻を…


「あ、ここにいた」


聞き覚えのある声が、穂積の危うく失いかけた意識を引き戻した。

穂積は呻きながら顔を上げた。

黒い猫耳を生やした少女が、黒い姿で穂積に跨って立っていた。

着物でもモダンガールの装いでもない、赤い首輪に銀のハートの鈴。頬を撫でるショートボブ。見覚えのある不透明な黒い瞳。

風と共に去ったあの少女だった。


「悪い子」


彼女はそう呟くと、穂積の太ももと腕に噛み付いていた蛇をやすやすと掴むなり夜空高く放り投げた。その後を追うように、彼女の左目からずろっと、十頭はいる白蛇が一斉に出て来て黒蛇に食らいつく。二頭の黒蛇を空中で千切るように貪り、骨も皮も鱗1枚も残さず食べ尽くした。あっという間の、異様で、不思議な光景だった。白い蛇を左目から生やした彼女は、今度は穂積に目を向ける。


「すっかり、記憶を移したんだね。きっかり、ふたり分」


彼女の白蛇が赤の他人の名前が刻まれた腕、太ももにするりと絡みつく。不思議と黒蛇から感じた危険はなかったが、ぞっとしない感触だった。

少女は馬乗りになり、穂積の顔に自分の顔を寄せる。

白蛇が生えた左目の肌には溶けた赤い心臓の痣があった。


「それはとうにボクのもの。ボクが食べるべき呪い。君の呪いはボクの糧。だから、その記憶、ちょうだいませ」


彼女はおもむろに黒い手で穂積の頬を包むと、食べるように唇を重ねた。

赤黒く穂積の体が輝き、痛みが引いていった。穂積のふたつの痛みが彼女の唇から彼女へと吸い込まれた。刻まれた名前が消え、蛇の噛み跡も消え、鈍痛も胃痛も消えた。

赤黒い輝きが消えると、彼女は身を引いた。


「やあ、災難だったね、マスター」


彼女は満足気に舌なめずりすると、簪が取れて乱れた赤い髪を穂積の顔からひと房ずつのけながら頬を撫でた。


「もう眠っていいよ。痛みはボクが食べたから」


無表情に淡々と、彼女は子どもをあやすように話しかけた。大の大人が白蛇を生やした黒い猫耳少女にあやしつけられるという異様に異様を重ねた光景に穂積はもう何が何だかわからないうちに、気が遠くなってしまった。


また声が微かに、遠くで、穂積を呼んでいた。

けれども、妻の声ではない。

まだ幼い子どもの声だった。


「おとうさん」


その声は穂積をそう呼んだ。

穂積は声の主に覚えがないまま、眠りについた。

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