へびねこ

鳥巣ラムネ

第1話 ココニゐ〼

今夜の食事は、『失恋ミルフィーユ』。

甘酸っぱいとされる初恋の苺ととろけるようなクリームと、幾重も幾重も重ねた想いを挟んだミルフィーユの味はとてもとても、痛かった。

胸が張り裂け、手足がもげ、頭が弾け飛ぶような痛みが走る。これが初恋が失恋に終わる時。

食べてしまいませう。

忘れてしまいませう。


黒猫にミルフィーユを与えた少女は、すっきりとした顔で立ち去った。

猫の体に、失恋した彼女の名前が刻まれ、失恋の痛みを刻まれ、猫は呻く。左目から白蛇が出て、うねりながら悶える。すっかり名前が体の中に入る。


「またのお越しを」


左目から白蛇の鎌首をもたげ、猫は立ち上がり、頭をぺこりと下げた。

猫は、一見普通の少女である。

クローシュ帽が似合いそうなショートボブの黒髪。

血の気がない白い肌。吹けばひらひら去りそうな細い身体に黒い十字絣の着物、フリルエプロン。長い指先。幼い顔つき。不透明な瞳の左目から白蛇。髪に隠した猫の耳。

今をときめくカフェーの女給の出で立ちの少女こそ、呪われた記憶を食べる『へびねこ』だった。


近頃、愛も浪漫も忘れかけている街では不幸な記憶を食べて、忘れさせてくれる『へびねこ』がいると噂されていた。

それは失恋の痛みも、虚しさも、ひとりのさびしさも、労働の辛さも、わずらわしい人との思い出も何でも食べて、忘却させるという。

『へびねこ』は『蛇猫軒』というカフェーにいるらしく、よっぽど忘れたい記憶を抱えた者だけがたどり着けるそうな。

『へびねこ』に忘れたい記憶を差し出せば、『へびねこ』が食べて、きれいさっぱり忘れさせてくれるそうな。

ちなみに、『蛇猫軒』という看板は立てておらず、街のどこかのカフェーになりをかえて、密かに忘れたい記憶を持つ者を待ち続けているとか何とか…


その煽りを、あらゆるカフェーが受けていた。

珈琲しか出さないような純喫茶や男と女が睦み合う夜のカフェーまで、『蛇猫軒』の疑いをかけられ、店に用のない客が押しかけ、「蛇猫軒はここですか?」とボソボソ尋ねてはつまみ出されていた。

『鳥の巣箱』でも同様だった。

帝冠様式並ぶ街並みの隙間、路地裏にひっそりたたずむ白いカフェーの『鳥の巣箱』は、1日に10人来るか来ないかの隠れ家喫茶だが、隠れ家らしいからこそより『蛇猫軒』だと疑われた。

『鳥の巣箱』の店主、丁嵐穂積は今日5人目の『蛇猫軒』探訪者をやんわりと返したところだった。


「5人目。記録更新ッスよ、マスター」


肩を落としてすごすごと帰る探訪者を瓶底メガネ越しで見送り、青年が新聞を閉じる。マスターと呼ばれた赤毛の店主はそうだなと素知らぬ顔。


「もういっそ、『蛇猫軒ニ非ズ』って貼り紙でも扉にデカデカとやっときゃいいッスよ!いくら何でも来すぎじゃないッスか?珈琲のひとつも飲まずに帰る客ばかりで、全く稼ぎにならねッス!」


瓶底メガネの青年は語気を荒らげ、勢いでずり落ちたメガネを袖で押し上げる。


「そっとしておきなさい」


赤毛の店主は冷静に短く言うだけだった。鋭い目に低い声だからか、本人は優しい物言いのつもりだろうがどことなく冷静沈着だが言葉の裏では怒りに猛々しく燃える軍人のような威圧感があった。瓶底メガネの青年は思わず気圧されるが、でも、と文句をたれた。


「おかしくないッスか?日に5人も同じ『蛇猫軒はどこですか』って。しかも先月まで月に1度1人来るか来ないかだったのに、ここんとこ3日に1度は尋ねてるッスよ。周辺のカフェーでも、『蛇猫軒』探訪者は頻度は3割増えてるッス」


「それ、突き詰めりゃ怪異譚の記事ができそうだな」


マスターは抑揚のない声で茶化した。


「馬鹿言わねえでくださいッス!おいらはそんな不確かな不可思議より確かで正確なジャーナリズムを世間に伝えたいんス!」


「なら、不確かな情報に踊らされる客と不可思議な店の噂なぞ気にかけるな。あと…」


マスターは人差し指を唇に当てて青年を静まらせ、店の中を見渡す。

白い壁、白い天井、白い床。さらに白い本棚が並ぶ喫茶店の中には客が6人ほどカウンターと奥座敷に座って珈琲を手元に、各々本を読んでいたが青年の声が煩わしかったのか、本から顔は離さずにらんでいた。

『鳥の巣箱』は、元々貸本屋を改装したカフェーであり、古書を読みつつ珈琲が飲めるという穏やかな店だった。貸本屋の体も引き継いでおり、1日1銭で本が貸し出せた。

瓶底メガネ青年は客のとげとげしい視線に喉の奥で不服を、むう、ともらす。マスターに迷惑はかけられまいと珈琲をぐいっと飲み干し、新聞をさっさと畳んで脇に挟む。


「じゃ、お暇するッス。『蛇猫軒』のこと、用心はしておいた方がいいッスよ。『蛇猫軒』の有無より、危険なのは不確かな店の存在に踊らされてる人間ッスからね。狂信者に暴れられたり、壊されたりしちゃたまんないッスからね!」


静かな店に熱苦しいまでに忠告を推されたにも関わらず「む」とマスターは返すだけだった。相変わらずの調子と半ば呆れる青年はメガネをまた袖で押し上げて、引き戸をガラガラ、出ていった。

赤毛の店主、穂積はやっと静かになった店でひとつため息をついた。友人の若き記者は話し相手になるものの、客のひとりひとりが本に没頭するこのカフェーではやかましい烏同然だった。けれども、自分の信念を超えてカフェーを案じての詮索や忠告は有難い。さすが我が心強い友人と言えるが、いかんせん声が大きい。店にいる客も、やかましいのが帰ってやれやれとしたのか、ほっとため息が聞こえてきた。

穂積は今一度見渡す。

このカフェーの奥には、室内だがひとつのブランコがある。

そのブランコに、小さなモダンガールが腰掛けて、紫の表紙の本を読んでいた。

青いリボンをめぐらせた薄灰のクローシュを深くかぶって目元は見えないが、薄い唇、陶器のような白い肌から十四、五歳の少女と見て取れた。細い脚を灰色のワンピースからきちんとそろえていた。ブランコを椅子代わりに本を読む姿は、妖精のようだった。

穂積は目で客を追い、もう一度数えた。確かに6人だったはずの店内だったが、少女を入れると7人になっていた。仕事柄、どの客がいつ頃来てどの席に座ったかは既に把握しているはずだったが、この7人目の客はいつの間に来ていたのだろうかと自分の記憶を探った。瓶底メガネ青年とだべっていた時か?それとも、もっと昔。もっともっと、もう何年も前から?

7人目の客ははるか昔からブランコにいたようにそこにいた。


何にせよ新しい客に変わりはないと、穂積はメニュー表を持って、小上がりをのぼった。彼女の読書の邪魔にならないように、ブランコの前にあるちゃぶ台にそっと置いた。マスターに気づいていない様子だったため、わざわざ声をかける必要もないと穂積は小上がりを下りた。


「珈琲ってあまいの?」


不意に、本当に不意打ちのように、少女が穂積に声をかけた。

本に読みいっているものだとばかり思っていた穂積は思わず跳ねたように顔を振り向く。

本から目を離し、穂積を真っ直ぐに見つめる彼女の目は、瞳も虹彩も不透明な真っ黒だった。何も映さず、何も見えない星のない夜闇の色。


「珈琲って、あまいの?」


彼女はもう一度穂積に尋ねた。おしゃまなモガの姿で無垢で子どもらしい質問をする少女だが、その目のせいか穂積は妙に背筋が冷たくなった気がした。危険さえ感じた。なぜ、急に無害そうな少女にそんな予感を抱いたのか自分でもわからなかった。


「本物はあまい、らしい」


穂積はそれだけ答えると、少女は首を傾げてまた尋ねた。


「あまいって、何?」


穂積はまるで赤ん坊のような少女の質問に、背を向ける事無く、小上がりに膝をついて彼女を見て答えた。


「菓子と同じものだ。菓子を食べた事がないのか」


「あるよ。でも、みーんな、痛かったの」


「痛い?味がか?」


少女は頷いた。


「痛い味だったよ。ぢくぢくしたり、ざきざきしたり、ごんごん、ばきべき、じゅるじゅるしたり」


少なくとも味とは程遠いような擬音で例える少女は本を閉じた。それは右読みの『注文の多い料理店』の本。


「味に痛みがつくのは、辛いものだけだ」


穂積はそう返すと、立ち上がった。


「珈琲、入れてるから飲んでみるかい?」


静かに脚を運び、穂積はカウンターに向かう。

いいえ、と少女は返した。


「もうすぐお客さんがいらっしゃるの。髪を櫛でといて、耳の裏までクリームを塗り込んで、香水をふりかけて、最後に塩を揉みこんで…」


奇妙な事を言う少女。まるで…


「そしたら、お腹に入ってくれるの」


どう、と風が吹いた。

窓も引き戸も開いてない店の中に風が舞い、穂積が腕で顔を覆っている間に少女は消え去った。

一瞬だった。風も少女が消えるのも。

穂積は乱れた髪を払うことも忘れて、瞬き、店を見渡した。ブランコは何も無かったかのように止まっており、何一つ風で飛ばされたものも揺らされたものもなかった。

ただひとつ違う事は、誰もいない事。

7人いたはずの客全てが、いない。

少女と共に、風と共に、消えていた。


無様にカウンターに背を預けた穂積しか店にいなかった。

穂積は、わけがわからずよろめくように立ち上がる。

午後の金色の光が店を照らす。

どこかで猫が細く小さく、鳴いた。

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