【第2章】第15話 誰のために紅を引く?
「いってきまあす!」
玄関の扉を開けて外へ出ると、幸介が白い息を吐きながら言った。
「いってらっしゃい」
ランドセルを揺すりながら小走りで去っていく息子を見送ると、瑠色は素早く朝食の後片付けを済ませ、洗面所の鏡の前で身繕いを始めた。
「今日は、友達と映画だっけ?」
「そうよ」
鏡に映る、出勤の支度をしている憲介に向かって短く答える。
これまでの瑠色なら、気難しい夫のご機嫌をうかがうように、映画のタイトルだの、一緒に出掛ける友人の名前やその近況だのを付け加えて喋るところだが、極力余計な事を言わないようにする。
「お前、最近は、よく高校時代の友達と出掛けるようになったよな」
「そうね。幸介も、学校から帰ってきて少しは留守番していられるようになったし」
「まあ、そうだな。お前、映画好きだし、映画館で観たいよな。まあ、良いんじゃないか、遅くとも夕飯の支度までに帰れば」
(私の外出に、機嫌悪くはしていないようね)
瑠色は内心、ほっとした。
彼女はここのところ、月に1度、友人と都内の映画館やスパに出掛けているのだが、その友人とは、実は力斗であり、出掛けているのは毎回ホテルだった。
「そうね。いつもそうしてる」
瑠色は鏡を見つめたまま、ピクリとも表情を変えずに答えると、口紅を引いた。
「ああ……じゃあ、俺は行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
鏡から憲介の姿が消えた。
玄関の扉が閉まる音が聞こえると、瑠色はすかさず洗面所を出て、階段を駆け上がり、寝室の横のウォークインクローゼットに入った。
髪や顔を整えているところは憲介に見られても構わないが、
(もう!今朝は憲介さん、家を出るのが遅いんだもの、電車に間に合わなくなっちゃう!)
それでも、慌てることなく、昨晩目星を付けておいた下着と服を素早く身に付けると、車で裏道を通ってスムーズに駅へ向かい、いつもの特急に余裕で乗ることができた。
すっかり見慣れた風景が飛び去っていく車窓に映る瑠色の顔は上気し、笑みを浮かべている。
(憲介さんは、全く気付いていないわ)
力斗には1ヶ月に2度逢っているが、その内の1度は、こうして友人と定期的に映画館へ行くという口実を使っている。
憲介は基本的に不機嫌で、説教屋であり、またひどい癇癪持ちだ。
本人は、「俺はめったに怒らない」と言うが、長いと1月は瑠色を無視するなど、意地の悪い態度でプレッシャーを掛けることはしょっちゅうだし、年に数回起こす理不尽な癇癪で、残りの日数を
「いつ、どんな理由で叱り飛ばされるか判らない」
と、家族に充分圧力を掛けることに成功していた。
それを、どこまで意識してやっているのか知らないが、彼の母親もそうだから、彼も幼い頃から、他人をコントロールする術として身に付けたのだろう。
憲介は、機嫌の好いときは、瑠色の身体を触ってくることもあった。
「今、本を読んでいるから」
「ストレッチしているから」
瑠色は、いろいろ理由を付けては、夫の手を逃れた。
「夫婦なんだから、スキンシップが大事だろっ!」
憲介は、瑠色の妻としての不甲斐なさを何度も責めた。
(何を今さら)
その度に、瑠色は鼻白んだ。
初夜の時、処女の私を露骨に面倒がったではないか。いつも、痛い愛撫をやめてくれなかったではないか。毎回潤わない私を、
「お前の体質が悪い、不感症!」
となじり続けたではないか。
そんな夫に、何が嬉しくて触られたいと思うだろうか。スキンシップを避ける私をなじる前に、なぜ避けられてしまうのか考えて欲しいものだ。
気持ち好ければ、こちらから寄っていこうというもの。
「濡れない女だなあ」
とアンタはいつも嫌な顔をしたが、私の恋人は、逢ったとたんに潤う私に驚いている。
女の
男の深い愛情と慈しみに満ちた導きを必要とするのだ。
女の軆は無理には開かない。男が開かせるもの。
瑠色はそんなことを、力斗と出逢って知った。
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