【第2章】第14話 最大の敵

💎前回までのあらすじ💎

【恋愛経験もほとんど無いまま見合い結婚した大河瑠色おおかわるいは、20年近く、夫一筋に家庭円満のためだけに生きてきた。しかし、夫の部下である年下の男に片想いし、その罪悪感と、女を終えていく恐怖から、ある日衝動的に "出会い系サイト" に登録する。

そこで出逢った大学准教授の倉松力斗くらまつりきとに抱かれ、初めて女のよろこびを知った瑠色の内側は激しく変わり始め、悦楽に酔い始める】



       【 本 文 】



瑠色るいは苛立っていた。


惚れた男に抱かれ尽くしたい、という念願がようやく叶い始めたというのに、苛立ちや渇望感は増すばかりだ。


(来週末は、憲介けんすけさんが珍しく外泊してくれる、心置きなくゆっくり逢えるチャンスなのに、力斗はどうして逢ってくれないの?)


束縛が強く、敏感で疑り深い憲介は、自分が家に居る時に瑠色が留守にすると非常に機嫌を悪くしたし、彼女が仕事が休みの日にも職場から何度もメールをよこし、細々とした用事を命じた。


そのため瑠色は、憲介の目を盗むように力斗に逢わなければならなかったし、高学年とはいえ、まだ小学生の幸介の下校時刻も気にしなければならなず、力斗りきとと逢うのにかなり苦心していた。


それに比べて力斗は、こなさなければならない仕事を大量に抱えてはいるものの、一歩家庭の外へ出てしまえば、妻に行動を知られることはなく、講義や教授会の無い曜日は、自由にスケジューリングすることができた。


なので自ずと、2人の逢瀬おうせは、瑠色が家を抜け出しやすい日時になっていた。


しかし、なにせ平日の日中しか逢えないのだから、2人には常に、圧倒的に時間が足りなかった。


瑠色は、逢瀬の時間を少しでも長く確保しようと、出勤が遅い憲介がまだ家に居るうちに出掛けるという危険を、月に1度は犯すようになった。


これまで長らく家に閉じこもってきた彼女にとって、毎回口実を作るのも一苦労だ。


疑り深い憲介のこと、どんな些細なことから疑念を持たれるか分かったものではない。

1度疑われたら最後、瑠色が気付かぬ内に、出入りの探偵業者に探らせかねなかった。


力斗と違って、瑠色の方は、胃が痛くなるほど細心の注意を払っていた。


そんな彼女の最大の望みは、憲介の顔色を伺いながら家を出たり、夕飯の準備を気にして焦ってホテルのベッドから出るようなことなく、力斗と過ごす時間を心からリラックスして享受することだ。


憲介が外泊する日は、そんな夢が叶う滅多にないチャンスだ。幸介は、実家に1泊預ければ良い。瑠色は喜び勇んで力斗を誘った。しかし、にべもなく断られてしまった。これで2度目だ。


憲介の外泊は、金曜や土曜から日曜に掛けてが多い。

そして2度とも、タイミングの悪いことに、力斗が金曜は仕事を抜けられず、土曜には娘の幼稚園の行事参加が重なった。


これは仕方ないことと瑠色は受け入れたが、

「では、日曜はどう?私は朝早く家を出られるし、夫は夜遅く帰るから、いつもよりゆっくり逢えるわ」


瑠色が日曜にデートに誘うことは、こんな機会でも無い限り、まずない。ところが力斗は、

「日曜は尚美と過ごすことに決めているから」と、即座に断ってきた。

「でも、この日曜を逃したら、今月は1度しか逢えないのよ。しかも力斗、入試委員で冬はまたお仕事が増えて、一緒に居られる時間がどんどん減っているじゃない?

 尚美ちゃんとは毎日一緒に過ごしているでしょう?でも私とは、月に何時間も逢えないのよ。年に1度や2度くらい、日曜を私の為に空けてくれても良いんじゃない?」


大学の後期授業が始まってからというもの、力斗に逢える時間は目減りしていた。

瑠色は、最愛の男と月に12時間程度しか過ごせないことが、切なくてならなかった。

力斗と過ごす時間が至福なあまり、横暴な夫と過ごさなければならない時間がますます耐え難くなってきていた。


「奥さんや娘さんとは、月に何百時間も一緒に居られるじゃない。私とは、今回の機会を逃せば、今月は数時間しか一緒に居られないのよ。なのに、ごくたまの日曜を空けてくれないの?」

瑠色はそう話しながら、無念の涙が溢れた。


加納健かのうたけしの件があった日から、涙が流れぬ日はないのだが、力斗の出現によって慰められるかと思いきや、かえって悲しみが増している。


「娘と1日ゆっくり過ごす時間も、私には大切なんです」

「それは解るわ。でも、こんな機会は1年に1度か2度しかないのよ。めったにない、心置きなく逢える日曜を、私に譲ってくれないの?私たちは、月に半日一緒に過ごすことさえやっとなのに……」

瑠色は嗚咽おえつした。

(どうして……どうして……娘とは、これからだって一生繋がっていけるじゃない……私とは、いつ終わってしまうかも知れないのに)


2人を繋ぎ止めているのは、ただ、「次も逢いたい」と思う気持ちだけだ。

その気持ちがどちらか一方にでも無くなれば、明日にも終わる関係だ。

(いつも一緒に暮らせて、これからだって一生切れることのない血の繋がりがある娘を、これ以上優先させることないじゃない!)

瑠色は心の中で叫んだ。


力斗は、瑠色にはほとんど話していないが、彼女に逢いたいあまり、実は何度か、娘との約束を反故ほごにしたことがあった。


ある朝、幼稚園の行事を欠席して、瑠色との逢瀬に出掛けようと急いで支度をしていたことがある。すると尚美なおみ

「パパ、きょうはどうしてこれないの?」

と聞かれ、

「急なお仕事が入っちゃったんだ。ごめんね」

と答えながら、力斗は胸が痛んだ。

 しかし、今の力斗には、瑠色と逢えないでいる時に、ふいに締め付けられる胸の痛みの方が大きかった。


ついこの前の土曜日も、以前から予定していた通り、親子3人でデパートへ出掛けたのだが、その後に瑠色とのデートが控えていたため、

「午後に仕事ができてしまったから、今日は早く買い物を済ませよう」

と娘と妻をかし、開店と同時にデパートへ飛び込んだ。

「あなたがそんなに急ぐなんて、珍しいわね」

と妻の倫子は怪訝けげんそうな顔をしたが、夫が新たに引き受けた入試委員は多忙だと聞いていたから、特に疑うことはなかった。


ショッピングの後にはいつも、デパート内にある尚美がお気に入りのレストランでゆっくり昼食を取るのだが、この日は11時にはレストランへ入った。


食べるのが遅い尚美を待っていたら、瑠色と過ごす時間が減ってしまう。力斗は自分だけサッサと食べ終えると、

「じゃ、仕事へ行ってきます」

と、2人を置いて瑠色が待つホテルへ駆け付けた。


力斗は、瑠色の真白い軆を抱き締めながら、

(子供をだましてまで……)

と罪悪感を感じた。

子供に嘘をつくのは初めてだ。しかし、自分を止めることはできなかった。


だからせめて、「日曜はパパと遊べる」と楽しみに待っている娘を、ガッカリさせることはしたくなかった。

「あなたも、息子さんをちゃんと見てあげて下さい。私より、息子さんを優先してあげて」

と、電話の向こうですすり泣く瑠色に言った。

「私は息子より、力斗と逢う時間が大切なの。息子とは、しょっちゅう一緒にいて、面倒を見ているのだもの。でも貴方あなたとは、逢えるチャンスがすごく少ないのだから、そんな機会を逃したくない」

「……」

「力斗は、私のように、家庭が針のむしろという訳ではないから、この切実さは解らないのよ」

「解っているつもりですよ、貴女が旦那さんとのことで、とても苦しんでいることは。でも私は、娘も守ってやらなければなりません」


瑠色も、よく解っているつもだ。

自分とて、今すぐ家庭を放棄するなんて蛮勇ばんゆうはないのだから。


お互いにどうにもできないことについて、力斗だけを責めるようなことは言いたくなかった。

瑠色の日々の苦痛は夫によるものが大きいのであって、そのストレスを力斗に当たり散らすようなことはしたくない。


それでも、力斗の時間の圧倒的な部分を、当然な顔して手に入れている彼の家族がねたましかった。


いや、瑠色にとって、力斗の妻はそれほど気にならない。

むしろ、2人の間に割って入ってくるものがあるとしたら、幼い娘の方だ。


瑠色は、この小さな存在に、脅威を感じ始めていた。

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