【第2章】第6話 マニピュラティブな女

💎前回までのあらすじ💎

【20年近く、夫一筋に家庭円満のためだけに生きてきた大河瑠色おおかわ るい。しかし、ある日衝動的に "出会い系サイト" に登録し、そこで出逢った大学准教授の倉松力斗くらまつりきとに抱かれる。その余りのよろこびに、セックス嫌いだった瑠色のからだは急激に開き始める】



       【 本 文 】


「尚ちゃんママ~、この前の日曜は、ご馳走さまでした~」

倫子りんこが、役員会議を終えて、幼稚園の玄関口まで来たところで、ママ友の敬子けいこが声を掛けてきた。

「ああ、いいえぇ。今日もお疲れ様でした~」

倫子は下駄箱から出しかけたスニーカーを慌てて戻した。最近フル活用しているから、少々汚れが目立ってきているのを見られたくない。

「まだ残っていたのね?ご苦労様です」

倫子はお愛想笑いを浮かべた。

 プライドが高くて少々気を遣う敬子だが、積極的に役員を引き受けてくれるから、上手くご機嫌を取っておくに越したことはない。

「そうなのよ。バザー委員会はとっくに終わっていたのだけれど、私だけ先生と長話しちゃって。

 尚ちゃんママは父母会の会長さんだから、やることが多くて大変ね」

と敬子が答えた。

 倫子が会長を引き受けたのは、尚美のためだ。

 附属の小学校へ上がるとはいえ試験があり、毎年落ちる子供も一定数いるから、教諭や園長と少しでも昵懇じっこんになっておきたかった。

 始めから会長にくことを狙っていたが、「やります、やります」と自ら積極的に手を挙げたのでは、有り難がられない。

 4月にあった年長組のクラス会議。

 シーンと静まった教室で、無駄な時間だけが流れていく中、若い担任教諭が困り出したところで、しかし他の者が手を上げない内に、すかさず申し出るのがミソだ。

 こういうタイミングを見計らうのは、我ながらけていると倫子は自負している。

「じゃあ、私、やっても良いですよ」

あくまでも「仕方なしに」という雰囲気をかもし出すのもポイントだ。他の母親達に、点数稼ぎだと気取けどられてはいけない。

「え、倉松さん、やって頂けるのですか?」

担任が、助かったという顔をした。

「はい」

「ありがとうございます!皆さんも、よろしいですよね?」

それまで下を向いていた母親たちが顔を上げ、ありがたそうにうなずきながら、倫子に向かって拍手をした。


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 敬子は元客室乗務員で、夫は医院を経営している。

 いつも、ブランドのロゴが目立つ洋服を、長身の細い体にピタリと着こなし、突き刺さりそうな先のとがったハイヒールでさっそうと歩いているが、今日は珍しくトレーナーにジーンズという軽装だ。

「バザーの用意で力仕事があったから、今日はこんな格好なの」

全身を一瞥いちべつした倫子の視線を感じ、敬子は言い訳するように言った。

「あ、私と同じスニーカー……」

と倫子がつぶやいた。

「え?」

敬子が、脱いだスリッパをシューズ袋にしまいながら、今いた靴を見下ろした。

 スニーカーとはいえ、これも洋服と同じブランド物だ。カラフルな花柄がスポーティー過ぎず、気に入って買った。

「私も、全く同じものを履いているのよ」

倫子が嬉しそうに、先ほど引っ込めた自分のスニーカーを下駄箱から取り出した。

「あら、ほんと」

敬子は一瞬顔を曇らせた。

 数量限定品でないと、こうして他人とかぶることがあるから嫌なのだ。どうしてこのスニーカーを限定品にしてくれなかったのだろうと、ブランドメーカーに文句を言いたくなる。

 しかし敬子は、すぐに、いまだ形状記憶されている職業的笑顔を作ると、

「一緒ね~」

と言った。

「それにしても、この前ご馳走になったワイン、美味しかったわあ」

「スチュワーデスだった敬子さんから見たら、安ワインで恥ずかしいけれど」

倫子がスニーカーに足を入れながら答えた。

 几帳面な敬子は、土埃つちぼこりをうっすらかぶっているスニーカーをチラと見て、

(あら、ちゃんと手入れしていないのね、もったいない。花柄が台無しだわ)

と思わず眉をひそめたくなったが、そんなことはおくびにも出さずに言った。

「あら、そんなことないわよお。あの後、□□ちゃんママと話したのだけれどね……」

「え、なにを?」

倫子は、何か粗相そそうでもしたかしらとドキリとする。

 敬子は自宅でマナー教室を主催し、ブログでは手の込んだ料理やテーブルセッティングを度々披露ひろうしており、倫子は秘かに憧れていた。

「旦那さま、お料理すごく上手なのね。美味しかった。食事を全部作ってくれたのに、ご自分はほとんど食べずに子供たちの面倒をずっと見てくれて、その上洗い物までしてくれたのですもの、優しくて驚いちゃった。お陰で私達、ゆっくり食事とお喋りができたじゃない。

 旦那さま、いつもああなのお?」

最後の探るような言葉を言った時、敬子の頬骨が、かすかにひきつるのを倫子は見逃さなかった。

「まさか!」

倫子は大げさに、顔の前で手を振った。

「あんなこと、いつもやってくれる訳ないじゃない。敬子さんや□□さんが綺麗だから、うちの夫、珍しく張り切ったのよ」

力斗はいつだって、あの程度のことはやってくれているが、夫のそんな " イクメン " ぶりを正直に話したら、ほぼ確実に、敬子らママ友のねたみを買うことになる。

 彼女たちには、卒園式まで幾つもある行事に協力してもらわねばならないのだ。

「そう。うちの夫は、患者の体をるだけで神経をすり減らすんだとかなんとか言って、全然手伝ってくれないのよ。

 まあ、旅行には良く連れて行ってくれるから、それだけは感謝しているわ。彼が海外旅行が好きなものだから、年に2回は海外なのよ。私は現役の頃に散々行ったから、むしろもっと、国内を回りたいのだけれど。

 ああ、そうそう、あの人、娘の上履き洗いだけは毎週末やってくれているわね。その程度よ、ウチの夫なんて」

「旦那さま、神経を使うお仕事なのに、エライじゃない。ウチの旦那なんて、毎年海外の学会に出席する時に、に私達を連れて行くって感じよぉ。よ、


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 倫子は、スーパーで買ってきたワインを手酌てじゃくいでは、早いペースで飲みながら、力斗りきと尚美なおみの話を聞いていた。

 力斗は尚美が生まれてから、毎日こうして夕げを共にするようになった。それまでは、連日研究室に泊まりっぱなしで、新婚なのに日曜しか帰ってこなかったくせに。

 娘の男親に対する吸引力には感心するばかりで、ねたましささえ感じることがある。自分は誰かに、こんなにも愛されたことはない。

 力斗は毎朝、珈琲コーヒーをすすりながらTIMESを読むかたわら、朝食をほお張る尚美を眺め、夜は、アルコールにはほとんど付き合わないが、料理をゆっくり口に運びながら、尚美の話相手をいかにも愉しげにしている。

「今日、幼稚園の父母会の帰りに、敬子さんに会ったの」

隣に座る尚美の話が一段落したところで、倫子が言った。

「へえ」

尚美の正面に座る力斗がこちらを向いた。

「なんとね、あの敬子さんが、私と同じスニーカーを履いていたのよ!」

「ふーん」

何が「なんと」なのかさっぱり判らないとう顔をして、力斗が曖昧あいまいな相づちを打つ。

「元スチュワーデスの敬子さんと同じシューズを履いているなんて、私もなかなかの趣味の良さだと思わない?」

「……そういうものですかねぇ?」

力斗には今一つピンとこないようだ。

「もう1つ、良い話があるのよ。彼女、力斗さんのことを誉めていたわ」

「へえ。私、何か誉められるようなことしましたっけ?」

「この前、彼女と□□さんが、子供連れでうちへ遊びに来たじゃない」

「ああ、うん」

「その時力斗さんがお料理を作ってくれたし、子供の面倒も見てくれたし、洗い物まで全部してくれて、すごく優しい旦那さまね、って有り難がっていたわよ」

「へえぇ、そうですか」

力斗にしてみると、いつもしていることだから、特段優しいことをしたとは思わないので、改めて感謝されるとくすぐったくて照れ笑いした。

 倫子は、いつも尚美にばかり向けられている夫の笑顔が、久し振りにこちらへ向けられて一瞬嬉しくなったが、そんなことで喜ぶ自分をくやしく思った。

「でも、『いつもは全然やってくれないのよ』って、言っておいたから」

倫子は力斗の笑顔から視線を外してそう言うと、ワインをぐいと飲んだ。

 力斗は目を丸くした。

「なんでそんな嘘をわざわざ言ったの、さん?」

「ひがまれるからに決まっているじゃない」

倫子は、そんなことも判らないのかとイライラした。

「ママ友の付き合いも、けっこう気を遣って大変なのよ。私は父母会の会長だから、なおさらなの!好きでランチやお茶飲みしているわけじゃないのよ」

「だったら、会長なんて引き受けなければ良かったんじゃないですか?」

「だって、誰も引き受け手がいなくて、担任の先生がすがるように私を見るんだもの、拒絶できないじゃない。

 それに、来年は尚美が上の学校へ上がる試験もあることだし、私達だって面接されるのよ。だから、これでも色々考えて、やりたくなかったけれど、引き受けたのよ」

「……なるほどね」

娘の進学のことなのに、まるで他人事のような反応をする力斗に、倫子はますます苛立った。

「ねえ!」

「うん?」

「いつまで私を、そう呼ぶの?」

「え?」

「この前、敬子さん達にかれたわ。『"石部いしべさん"って、尚ちゃんママのこと?』って。2人とも、すごく怪訝けげんな顔をしてた。恥をかいたわ」

「そうですか」

何を言っても感じているのか、いないのか、力斗のいつも変わらぬ穏やかな表情が憎らしい。独身の頃は、この穏やかさとクールさが魅力に思えたのだが。

「いつまでも妻を旧姓で呼んでいるなんて、おかしいと思わない?」

「特に考えたことはなかったなあ、もうずっと前からそうだし」

力斗は尚美におかずを取ってやりながら、何を今さらという口調で答えた。

「少しは考えてよ。尚美がかわいそうじゃない」

「尚美が?」

力斗がきょとんとした。


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 力斗には、結婚式を挙げた後も相変わらず旧姓で呼ばれた。

 そのうち直してくれるだろうと思っていたが、いつになっても直らなかった。

 子供を生んだら、さすがに呼び方を変えてくれるだろうと期待したが、変わらなかった。

 しかし、名前で呼んで欲しいと頼めないままに、今日まで来た。倫子は、親にも頼み事をするのが苦手だった。

 農家に嫁いだ倫子の母は、同居のしゅうとや姑に気をつかうのと、農家の仕事と、一番下の妹の世話をするので精一杯だったから、倫子は邪魔にならないよういつも気を付けていたし、母が少しでも疲れた顔を見せるや、不機嫌にならないうちに先回りして家事を手伝ったり、妹の世話を焼いたりした。

 反対に、兄は家事の手伝いも妹の世話もしないくせに、祖父母や両親に言いたいことを言い、たいていの希望を通していた。

 みな、長男と次女には甘いくせに、倫子の言いたいことには耳を傾けてくれなかった。

 そこで倫子は、人のい兄や、どんくさい妹を誘導して、自分の願望を彼らを通して親たちに伝え、実現するすべを自然に覚えていった。

「お母さん、こうしてよ」

と兄が言えば、母はふたつ返事で了解した。そこですかさず倫子が言うのだ。

「私も!」

そうなると、今さら駄目と拒絶できない母だった。

「お父さん、これ買って~。お姉ちゃんも欲しいんだって」

と、溺愛できあいする末娘から頼まれると、父も苦笑にがわらいしつつ受け入れた。

(どうせ私の言うことなんか、誰もきいてくれない。でも、その代わりに、他人ひとを巧く使えば良いんだわ)

この処世術を早い内から身に付けたお陰で、他人にさりげなく、その人の利益あるいは不利益になる情報を吹き込み、自分の代わりに立ち働いてもらえるよう仕向けるのが、倫子は上手かった。

 これは一朝一夕いっちょういっせきにはできない技巧だが、倫子は子供の頃からこうして、自分は矢面に立つことなく、割と思う通りに事を運べてきたと思っている。

 自分の誘導によって、そうとは気付かせずに他人を動かし、事が成就すると、「してやったり」と膝を打ちたくなるのだった。

 兄も妹も高校を卒業して就職したが、倫子はは、新幹線と在来線とバスを乗り継いだ所にあるような田舎でくすぶって終わるのは嫌だった。東京で、少しは派手な学生生活を送ってみたかったのだ。

 勉強はできる方だったから、都内の名の知れた大学に入ることができたが、私立だから仕送りだけでは足らず、アルバイトをしながらかなり生活費を切り詰めて暮らした。

 裕福な実家暮らしで、お洒落しゃれをして遊び歩く同級生がうらやましかった。華やかな学生生活に憧れて上京したのに、狭いアパート暮らしで、単位を取るのとアルバイトに必死な毎日だった。

 早く就職して給料を貰い、楽になりたかった。就職は銀行を狙っていたが、大手の保険会社に勤めることになった。スーツにハイヒールで、都心の大きなビルへ通うのは誇らしかった。

 しかし間もなく、来る日も来る日も満員電車で往復し、他人の交通事故ばかり扱っているのが、詰まらなくなってきた。

 それに、親からの仕送りが無くなり、自分の稼ぎだけでアパート代と生活費をまかなっていると、余裕のない生活は相変わらずだった。

 結婚退職していく同僚が羨ましかった。左手薬指にほこらしげに光るダイヤモンドを憎々しく横目で眺めた。

 男友達は何人かいたが、同年代の男どもは収入が少なく、責任も小さく、子供っぽくて頼りなかった。自分の方がよほどしっかりしている。

 その中で力斗は、有名大学附属研究所の有能な研究者で、間もなく准教授になる高収入の男だった。

 今結婚するなら力斗しかいないと考えたが、彼には他にも女がいるようだし、そもそも結婚に興味がないようで、プロポーズしてくれる気配は全くなかった。

 そこで倫子は、幼い頃からやってきた通りに、兄や父親、祖母まで使って、力斗にプレッシャーを掛けることに成功した。

 自分でも、あれはなかなかの手際てぎわだったと、今でも思っている。


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「そうよ。尚美ももうすぐ小学生になるわ。小学生になれば、お父さんがお母さんを違う名字で呼んでいたら、おかしいと判るようになる。お友達に知れたら、尚美、いじめられるわよ」

力斗の顔がこわばった。

 尚美のこととなると、彼は真剣に考えるのだ。

「それもそうだね。分かったよ」

「それで、どう呼んでくれるの?」

「う~ん……"ママ"にするよ」

「敬子さんの旦那さんは、『敬子』って呼ぶんてすってよ。

 彼女、『日本人の夫婦はおかしいわよ。"パパ、ママ"って呼び合うなんて。私は旦那の母親じゃないのだから』ってわらっていたわ」

「じゃあ……"あなた"で」

「"あなた"?名前で呼んでくれないの?」

「それは……できないな」

「どうしてよ?」

「知っているでしょう?私は誰のことも名前では呼ばないのです。高校からの親友だってね」

「変なこだわりね」

「変と言われても何と言われても……なんか、照れくさいのですよ」

と答えながら、力斗が尚美にうなずいている。尚美が小さな声で「パパ、ごちそうさま」と言ったのだ。

「このおにく、おいしかった。また作ってね」

「いいよ」

力斗がにっこりして、尚美の頭をでた。

 毎週土曜日の夕食は、尚美にせがませて外食を習慣にすることができた。そして、今日のように日曜は、食事は全て、料理好きの力斗が嬉々として作り、片付けもしてくれる。

 いずれにしろ、倫子は週末の食事作りをまぬがれるように仕向けることができた。

 独身の頃は、周りに"料理好き"と宣伝していたが、毎日の仕事となったら面倒なことこの上ない。

(まあ、旧姓よりずっといいか。それにしても、ホント、変なところで頑固なのだから、理解に苦しむわ)

力斗の風変わりなこだわりには呆れるが、最低限の目的は達成したので、

「ふーん。じゃ、私、寝るわね」

と言って席を立った。

 ワインのボトルを1本空にすると、さすがに頭がぼやけてくる。今日は敬子といい力斗といい、イライラさせられたものだから、ワインをぐ手が止まらなかったのだ。

「あ、そう、そう」

リビングを出ようとして倫子は立ち止まり、テーブルを振り返った。

 力斗がこちらを見た。

「敬子さんの旦那さんね、毎週末、娘さんの上履きを洗ってくれるんですって」

「へえ」

「大分助かるって、彼女、自慢気だった」

「そうですか」

「そう。……おやすみなさい」

「おやすみ」

力斗はいつものように食卓を片付け、洗い物を終えると、

「尚美、お風呂に入るよ」

と声を掛けた。

 娘だけは、名前で呼ぶのにもちろん抵抗はなかった。そして今は、もう一人、名前で呼べる人ができた。

 尚美の服を脱衣所で脱がせ、自分も裸になって風呂場に入ると、床の上に小さな上履きが揃えて置いてあった。

(今日からは、私が洗えということですか)

力斗はふうっとため息をついた。

 倫子はいつも、こういうやり方をする。素直に頼めば良いのにと思う。

 いい加減辟易へきえきするが、こんなことで彼女とやり合うほど、力斗は暇ではなかった。

 家事育児の分担で妻とめるくらないなら、彼女にゆずって、自分がさっさと片付けてしまった方が早い。

 力斗は尚美を湯船に入れると、上履きにシャワーを掛け、洗剤を振り掛けた。

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