【第2章】第5話 女体(にょたい)

💎前回までのあらすじ💎

【20年近く、夫一筋に家庭円満のためだけに生きてきた大河瑠色おおかわ るい。しかし、ある日衝動的に " 出会い系サイト " に登録し、そこで出逢った大学准教授の倉松力斗くらまつりきとに抱かれる。その余りのよろこびに、セックス嫌いだった瑠色のからだは急激に開き始める。その変化を、敏感で疑り深い夫の憲介けんすけは、嗅ぎ取ったように見えたが……】



       【 本 文 】


「明かりを、消してね」

瑠色るいは、ソファの肘かけにかろうじて引っ掛かったレースの白いスリップを手に取り、裸のからだを隠しながら、倉松力斗くらまつりきとに頼んだ。

 彼は自身をとてもシャイだと言うが、愛し合っている最中に、よく明かりをつけたがる。

 そして、瑠色の全身をしみじみ眺めたり、彼女の頬を両手で包み、瞳をじっと見つめたりした。

 力斗のそんな視線に耐えられず、瑠色は目をそらしたり、軆をよじったりしてける。

「綺麗なのに、隠さないで」

「そんなに見せられるシロモノではないから。ダイナマイトボディでもないし、絶世の美女でもないし、あっ……!」

力斗は、ソファに座る瑠色の正面に移動すると、床に膝を着き、彼女の閉じた脚を両手でグイと大きく開いて、奥を見詰めた。

「そんなところ、見ないで。なぜそんなに見るの?」

煌々こうこうとした明かりのもとでは、あまりに恥ずかしい姿態したいだ。まして、中年女のからだや顔は、暗がりでおぼろげにしておきたいものなのだ。

えない間、貴女あなたを夢に見るため。しっかり目に焼き付けておきたい」

そんな風に言われると、瑠色はふにゃふにゃと力が抜けて、抵抗できなくなる。

 両手でつかんだスリップを口元へ持っていき、ぎゅっと目を閉じて観念している瑠色の脚の間に、力斗は顔をうずめた。

(瑠色の香りだ)

この香りもみつの味も大好きだ、と思う。

 彼女はとても繊細で感じやすい軆をしている。だから、花弁かべんに舌をしのばせるにも、そよ風のようにそっと触れてやらなければならない。

 力斗はゆっくり舌を伸ばし、優しく1枚目の花弁をめくった。

「ああっ……!」

彼女の両手はスリップを離し、力斗の側頭部を抱えた。

 もう1枚めくると、にじみ出した蜜が舌先に付着した。

「ううんっ……」

苦しげな声を上げる瑠色の5本の指が、力斗の髪をくしゃっと掻き上げる。

 しかし、まだ花芯かしんに舌を持っていってはいけない。

 女体にょたいは、その全身を、髪の先から足の先まで、時間を掛けて充分に開く必要がある。

 時間を掛ければ掛けるほど、最高の果実を収穫できることを、力斗は良く知っていた。

 今度は反対側の花弁を、やはり、これ以上ない程ゆっくりかき分け、にじむ蜜を丁寧に舐め取る。

(美味だ)

力斗は、なおも花芯には触れない。

 脚の付け根から内腿うちももにかけて唇を沿わせていき、音を立てながら強く吸う。

ける……」

瑠色が熱いため息を漏らした。

 最近瑠色の感度が増している、と思う。

 逢って軽くキスしているだけで、彼女の肌はみるみる湿り気を帯び始め、しっとりと吸い付いてくる。

 そして、小一時間も愛撫していると、ついこの間まで痛がったり、恐々きょうきょうとしていたくせに、今では自ら腰を力斗の下腹部に押し付けてきて、

「ねぇ、犯して」

などと口走る。

「犯して欲しいのですか?おかしいひとだなぁ」

と力斗は笑って、彼女をソファから抱き上げ、ベッドへ運んだ。

「好きなひとに、犯されるように抱かれてみたいの。めちゃくちゃにされてみたいの」

貴女あなたのことは、めちゃくちゃにしたり、犯したりしませんよ。とても大切なのですから。本当は、ガラスケースに入れて、やたらとさわらないようにしたいくらいです」

そう答えながら、力斗は彼女に添い寝するように横たわり、髪や頬、うなじや乳房を撫でる。

 それでも、乳首にはまだ触れないでおく。敏感な部分は、できる限り後回しにするのだ。

 これは、17歳の時に、29歳の会社経営者のガールフレンドから繰り返し教えられたことだ。

 当時は、女性と交わるのはなかなか難しいものだと閉口したが、その後何人もの女達が、つれない自分を離したがらなかったのは、この時身に付けた女体にょたいの扱い方にも一因があったのかも知れないと思う。

 女性との交際は、セックスも含めて、どちらかと言えばわずらわしいものだった。

 研究に集中したいのに、優柔不断な自分は、はっきり断れないまま無駄な色恋に時間を奪われていたと思ってきた。

 しかし、その数々の体験が、悲惨なセックス体験しかない瑠色をよろこばせるのに大いに役立っているのを実感し、無駄ではなかったと、今頃になって肯定できるのだった。

「どうしてガラスケースなんかに?」

「大切なものは、しまっておいて、時々ケース越しに眺めるものでしょう」

「え~、時々なんて嫌よ。眺められるだけなんて嫌。しょっちゅう触って欲しい!」

「ハハハ……でも、大切過ぎると、やたらと触るのがもったいない気がしてくるのですよ」

「もったいなくないわ。触ってもらえない方がもったいないわよ。もうそんなに時間がないのだもの」 

「どうして?」

「だって、もうすぐ50歳になっちゃうもの」

「あと5年ありますよ」

「5年しかないわ。50になったら、男の人に抱いてもらえなくなる気がする」

「そんなことないですよ。私は抱きたいと思いますよ」

「私が90歳のお婆さんになっても、抱いてくれる?」

「アハハ!その歳まで私が生きているか分かりませんが、死んでも、貴女あなたの背後霊になって抱き締めて、守っていたいですね」

力斗はこうして話している間にも、瑠色の軆を手のひらで、指で、唇で、舌で、絶え間なくいつくしみ、徐々に敏感な部分へと迫っていく。

 瑠色は、白蛇はくじゃの化身のように軆をくねらせ、程よく湿った肌を力斗に押し付けてくる。

 力斗は、およそ赤ん坊を産んだことがある様には見えない、桜色した先端2つを交互に口に含みながら、右手の中指を彼女の下腹部から繁みへと滑らせ、すっかりやわらいだ花びらをそっと押し開いて、花芯に忍ばせた。

 充分過ぎるほど溢れる蜜は、彼女の腰の下のシーツをぐっしょり濡らしている。

 力斗は軆を起こすと、瑠色の両脚の間に腰を入れた。

 相変わらずゆっくりとした動きで、瑠色に融合していく。

「ああ、力斗さん……嬉しい」

「瑠色さん……」

「"瑠色"って呼んで」

瑠色は、あえぎながら言った。

 これまで、親にも呼び捨てにされたことはないが、力斗にはそう呼んで欲しいと思った。

「瑠色」

力斗は瑠色の奥まで達すると、彼女の頭を抱えて唇を強く吸った。

「ああ……力斗さん……力斗」

瑠色は、口内を激しく犯す力斗の舌を歯で捉えて吸った。

 力斗の腰の動きは、徐々に早まっていく。

「好きなひと羽交はがめにされて……上のお口も、下のお口もふさがれるのって……すごくやらしくて、すごく幸せ……」

熱い息を漏らしながら、瑠色が言った。

「そう……ですか?」

力斗の息遣いが早まってきた。

「うん……貴方あなたのものになったって気がする」

それは、彼に所有されたというのではなく、溶け合って合一する感覚だった。


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 力斗はなかなかかない。

 そうになると、抜いてしまう。そうして再び、瑠色の全身を丁寧に愛撫し始める。

 こうして何時間も、愛撫と挿入を繰り返される内に、瑠色の軆は昇り詰めていく。

 しかし、最近開き始めたばかりの彼女の軆は、いまだ絶頂を知らずにいた。それでも彼女には、充分すぎる快感だった。

 これまで体験してきたセックスに比べたら、まるでこれは……

「天国があるとしたら、こんな世界ではないかしら、って思うの……」

瑠色は、力斗のからだの下で、とろんとした半眼はんがんで言った。

「天国はね……空の上や、あの世にあるのではなくって……あっ……!」

瑠色の声が途切れる。

「え?」

この日、5度目にった力斗は、瑠色の中でスパーク寸前だった。

「ここに、あったの……」

「……瑠色!」

力斗は、瑠色の上におおいかぶさると、何度も身を震わせた。


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「パパぁ、またお月さま見た~い。公園へ行こ~よ~」

夕食後のテーブルを片付けている力斗に、尚美なおみが頼んできた。

 妻の倫子は、いつものように1人で晩酌してほろ酔いになり、とっくに寝室へ引っ込んでいた。

「もうすぐ11月になるから、お外は寒いよぉ。この前みたいに公園へは行けないなぁ」

「スーパームーンや"ちゅうしゅうのめいげつ"、見たぁい」

「尚美、それは先月だよ。今年はもう終わってしまったんだ」

「つまんないの~」

「でも、満月は毎月見られるよ。今夜はベランダから見よう」

「うん!」

「もう少し待ってね。パパ、洗い物を終わらせちゃうから」

力斗は大急ぎで皿を洗い終えた。

 これから尚美を風呂に入れ、寝かし付けたら、締切が迫っている論文の続きを書かなければならない。

 先日から良いアイデアが浮かびそうなのだが、もやがかかっていて、まだ形を成してこない。もう一息なのだが。

 こういう時が最も苦しい。

 しかし、苦労して集めた膨大なアンケートや、それらを基に算出した統計結果と、これまでに得てきた知識を、シナプスでいく通りにもつなげては、繋ぎ直し、網の目のごとく交差するように張り巡らした思考の奥から、やがてやって来るインスピレーションが、新しい法則性や論理をもたらしてくれる時の快感がたまらない。

 だから、寝食を忘れて研究に没頭してこれたのだ。


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 リビングの掃き出し窓を開けて、尚美とベランダへ出た。

 夜風が冷たい。

 先月は、中秋の名月の翌日がスーパームーンで、2日続けて、尚美に夜の公園へ引っ張り出された。

 尚美が幼稚園に入園した一昨年から、毎年2人でこんな風に月見をしてきたが、今年は特に、月が美しいと感じた。

 瑠色も同じ月を眺めているだろうか、と思うと、これまで全く気に留めたこともなかった月が、うるわしく目に映るのだった。

 9月に後期授業が始まると共に、いくつかの研究プロジェクトや論文の執筆等が重なり、瑠色と逢う時間が減っていた。

 夏には10日と空けずに逢えていたのに、今では月に2度逢うのがやっとだ。逢えない切なさからか、

(あの日は、柄にもなくキザなことを言ってしまったな)

と思う。

 先月、公園で尚美と中秋の名月を眺めながら、瑠色にメールを送ったのだ。

『月が綺麗きれいですね』

と。

 瑠色とはすぐに繋がり、

『今、外を見ました。今日は中秋の名月でしたね。ほんと、お月様が綺麗』

と返信が来た。

 力斗は、先の言葉に深い意味を込めたつもりだったが、瑠色は気付いていないようだった。 

『ご存知ないようですね?』

『何がですか?』

『いや、いいんです』

『え、何ですか?気になるではないですか』

『いや、いいんです』

明治の文豪が言ったとか、言わなかったとか云うセリフを、つい書いてしまった。

 自分は瑠色に、このあふれて抑えがたい気持ちを伝えたくて、仕方ないようだ。

 これまで、自分が胸に抱く感情について、他人に話すことをしたことはない。

 力斗にとって、感情を外に向かって表すことは、裸を見せるよりも恥ずかしいことだった。

 自分の真実をさらけ出すのは、怖いものだ。それに、そもそも、自分の気持ちを他人に解ってもらいたいと思ったことがなかった。

 しかし、瑠色を前にすると、自分の内側深くから突き上がってくる想いを、伝えずにはいられなくなる。

 なぜだろうか?

 自分でさえ開けたことがなかった、胸の最奥さいおうにある小部屋の扉を、瑠色はいとも簡単に開け、スルリと中へ入ってしまった。その扉の鍵を持っていたのは、自分ではなく、瑠色だったのだ。

(それにしても……)

と力斗は苦笑した。

 直接的な表現は恥ずかし過ぎるし、安っぽくなるから嫌だったとはいえ、余りに有名な文豪の言葉を借りるとは、我ながら芸がない。彼女が判らなくて、かえって良かったと思う。

(ああ、私の語彙力ごいりょくでは、この気持ちを彼女に伝え切れない。歯がゆいなぁ……)


    🍎🍎🍎🍎🍎🍎🍎🍎🍎🍎


「パパ、寒い」

尚美にパジャマの袖を引っ張られ、早々に月見を終わりにしてリビングへ戻った。

 この前瑠色に逢ったが、翌日には電話を掛け、2時間近く話した。

 だいたい毎日電話している上に、前日には数時間以上、あんなにも深く交じり合って、よくもこんなに話すことがあるものだと、我ながら呆れる。

 国内外から届く数十通のメールや、単純な仕事を処理しながらだが、たとえ電波でも、彼女と毎日繋がりたかった。

 時に話題が、姑さんや旦那さんに対する愚痴になっても、彼女の声に耳を傾けているのは心地好いのだから、不思議だ。

 瑠色は、心の内にあることは、悪口だって何の躊躇ちゅうちょもなく歯に衣着せず話す。それが、小さな子供が一生懸命文句を言っているのに似て、力斗には可愛らしく見えた。

 そして、気付くと次の講義や教授会の時間が迫っていて、大慌てで電話を切り上げ、研究室を飛び出すことも少なくなかった。

(次回逢えるのは、また2週間先か……)

尚美を風呂に入れる準備をしながら、

(長いな)

とため息をつく。

 しかし、自分のスケジュールが立て込んでいるのだから仕方ない。

 次に逢う約束をしている日は、ちょうど論文の締切日と重なる。海外の有名な学術雑誌にオンラインで提出するのだが、こちらの時間で、その日の正午頃までには送信しないとならない。

 いつもならギリギリまで思考を巡らし、推敲すいこうを重ねるところだが、この日には、朝早くから瑠色と逢う約束をしてしまった。

 これまでの力斗なら、論文の締切よりデートを優先させることなどあり得なかった。寝る間も惜しいのにデートなどしている場合ではなかった。

 だいたい、思春期の頃から、恋愛なんてどうでも良いと思ってきた。女に不自由したことはないが、女の優先順位は非常に低かった。恋愛より面白いことは、沢山あった。

(この前は、教授会をサボってしまったしなあ)

先日は、朝から研究者会議が始まっているというのに、自分はその主要メンバーでありながら、瑠色とホテルにいた。

 会議に自分は必要だろうが、代わりのメンバーがいる。しかし、自分には瑠色がとても必要で、彼女の代わりはいない。

 自分が今最も大切にしたいのは、瑠色と逢う時間だった。逢えるチャンスが少しでもあるなら、のがしたくなかった。

(むさぼるように逢っているなあ)

と思う。

「パパ、おふろ~」

と尚美にかされ、

「ああ、そうだね。お風呂に入ろう」

と、力斗は尚美の手を取って、バスルームに入った。


    🍌🍌🍌🍌🍌🍌🍌🍌🍌🍌

 

 ダブルベッドで軽いイビキをかいている倫子の横で、風呂に入れ終え、パジャマに着替えさせた尚美を寝かし付けにかかる。

 力斗が締切に追い詰められて徹夜続きだろうと、ふくらはぎに肉離れを起こしてびっこを引いていようと、お構いなしに頼まれるのは家事と育児だが、娘可愛さに拒めない。

 拒むと途端に倫子が不機嫌になり、その被害は尚美に及ぶ。倫子は、力斗に文句を言わない代わりに、尚美を無視したり、キツく当たったりした。力斗には、妻に直接文句を言われるより、何倍も効いた。

 最近は、3人でこのベッドに寝るのも狭くなってきた。だから力斗は書斎で寝ることにしたのだが、

「パパがいっしょじゃなきゃ、イヤ!」

と尚美が泣きべそをかくものだから、力斗はダブルベッドの下に布団を敷いて寝ている。

 尚美がようやく、静かな寝息を立て始めた。

 娘を授かった時、この世にこんなにも大切に思える存在があることを知った。この子の為なら、自分の全てを差し出しても良いと自然に思えた。この子と研究の為に生きられれば、もう何も望むものはない、と思った。

 生涯をかけても終わりそうにない知的な挑戦は、彼を魅了してまなかったし、娘の成長もこの上ないよろこびだった。

 なのに、今自分は、これらを凌駕りょうがする歓びを知ってしまった。

 しかも、こんなにも歓ばしいのに切なくて、甘やかなのに苦しい。

 この複雑で深い想いは、いったい何なのだろう。

 仕事の手を休める度に、瑠色の白い軆がまぶたの裏に浮かび、毎日のように自慰した。中学生に戻ってしまったようだ。

 最近、生まれてきて善かったと、しみじみ思う。こんなことを思うのも初めてだ。

 自分は今、この恋のために生きている。瑠色に向かって生きている。

 こういうのを世間では、恋にのぼせているとか、酔っていると言うのだろう。

 確かに、一時的に血迷っているのかも知れない。でも、真実の気持ちであることに変わりなかった。

 力斗にとって、これまで世界はモノクロだった。世界は元来詰まらないものだった。だから、常に面白いもの、新しいものを探し求め、なければ創り出してきた。

 映画、音楽、油絵、研究。

 ここに、大切な娘の成長が加わった。それでも世界はモノクロのままだった。

 しかし突然、世界はあまりにも豊かに色付き始めた。

 空も雲も太陽も月も、木も花も雑草さえ、まばゆい光彩こうさいを放って目に飛び込んでくる。

 世界はこんなにも瑞々みずみずしく、美しかったのか。

 力斗は思わず独りごちた。

「生きてて、よかった……」


    🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊


(あと2回……)

次に力斗に逢うまで、あと2回も週末をやり過ごさなければならないのはキツい。と、瑠色はカレンダーを眺めて、気分を重くしていた。

 日に日に、憲介と暮らす日常が苦痛になってきている。

 加納健かのうたけしうしなう苦しみをまぎらすために他の男を求めたのに、力斗と出逢ったことによって、彼と過ごす至福の時間が、日常生活の辛さをかえって際立きわだたせていた。

 そんな折、瑠色は悪夢にうなされ、深夜に目を覚ました。

 憲介けんすけに釣りに付き合わされ、幸介と共に親子3人で、海へ行った夢だった。

 大きな舟で、釣り客がけっこう乗っていた。

 そこで、瑠色が憲介の介助をうまくやることができず、船長や釣り客達の前で怒鳴り飛ばされ、執拗しつようになじられる、という夢だった。

「やめて、もうやめて!私をいじめないで。これ以上いじめないで!」

と叫んだ。

「うぅ~……うぅ~!」

自分の言葉にならないうなり声で、瑠色は目を覚ました。

 まぶたを開けると、涙がいく粒もこぼれ落ちた。手の甲でぬぐうと、頬がぐっしょり濡れているのが分かった。

「うるっせぇなぁ……」

ベッドサイドテーブルを隔てた隣のベッドから、憲介の苛立った声が聞こえた。瑠色はギクリとして息を止めた。泣き声が洩れてはまずい。

「お前、だいぶうなされてたぞ。うるさくて目ぇ覚めちゃったじゃねえか」

「……ごめんなさい」

黙っている訳にもいかず、謝った。

「お前、泣いてるのか?」

「……」

「いい歳して、怖い夢見て泣くなんて、馬鹿じゃねえか。あ~、目がさえちまうよ、ったく。お前、あっち行ってろ!俺が寝付くまで下へ行ってろ。ほら、行ってろよ。いつまでも泣いてんじゃねえよ、気持ち悪いな」

「はい」

瑠色はティッシュを何枚か取ると、下まぶたに当てがいながら起き上がり、寝室を出てドアを閉め、音を立てないようにそろりそろりと階段を下りた。

 夢の内容も哀しかったが、目覚めたらもっと哀しくなった。

 涙が止まらない。

 毎日、独りになると涙が溢れてくる状態は、半年近く経っても一向に治まる気配がなかった。

 憲介の仕打ちがひどくなってきているからなのか、加納がいなくなってしまうからなのか、力斗と思うように逢えないからなのか、それら全てが原因なのか、もはや判らなかった。 

 リビングへ下りて独りになると、涙はさらにしたたり続けた。

 瑠色はスマホを取り出し、メールボックスを開けた。

『こんばんは。今、怖い夢を見て、目を覚ましました。力斗さんは、お仕事中でしょうか』

間もなく深夜の2時になる。この時間だと、力斗はまだ起きていることが多い。

『はい、仕事をしています。怖い夢を見て、眠れなくなりましたか?』

『良かった、力斗さんとつながれた!』

『私も、貴女と繋がれて嬉しいですよ』

力斗の仕事が立て込んできている為に、最近では、夜のメールは、おやすみの挨拶だけになっていた。

『大丈夫ですか?どんな夢を見たのですか?』

『夫にしつこくなじられ、怒鳴られる夢です』

可哀想かわいそうに。それは怖かったですね。また眠れそうですか?』

『それが、私、夢を見てうなされて、泣いていたようで、うるさいからあっちへ行け!って夫に叱られてしまって、今、リビングにいるのです』

『そうなの?泣きめましたか?』

『泣き止めません』

『そうですか。それでは、泣きたいだけ泣いてしまった方が、スッキリして眠れるかも知れませんね』

『はい。お仕事中にお邪魔して申し訳ありませんでした。また明日、お電話で』

『邪魔だなんて思っていませんよ。貴女あなたには、安心して眠って欲しいです。私がそばにいてあげられたら良いのですが、家庭持ちにはそれができませんね、歯がゆいです。でも、気持ちだけは、いつも貴女のそばにいますから。今も、貴女をそばに感じていますよ。私が抱き締めていてあげますから、気の済むまで泣いて下さい』

泣いて良いと言われて瑠色は安心し、涙をこらえるのをやめた。力斗の優しさに包まれて、涙と共に、緊張と哀しみが流れ出ていく。

『私、夫が嫌いなんです』

と、瑠色はメールに書いた。

『そうですか』

『大嫌いなんです。

今まで、不満は大いにあったけれど、私にも欠点は沢山あるし、お互い様だと、夫婦なんてこんなものだと思ってきたのです。

 でも、本当は、認めたくなかったのだと判りました。夫を嫌いなことを。

 長い間一緒に暮らしてきて、これから先も一緒に暮らしていかなければならない人を、嫌いだなんて認めたら、悲しいではないですか、苦しいではないですか。だから、認めたくなかったのです』

『なるほど』

『でも、今夜、はっきり認めました。私は夫を嫌い。大嫌い。一緒にいるのが苦痛です。貴方あなたと一緒にいたい。貴方にそばにいて欲しい』


    🍋🍋🍋🍋🍋🍋🍋🍋🍋🍋


 力斗は、パソコンの画面上で瑠色のメールを読んでいた。

 彼女は泣きじゃくっている。力斗には、それがありありと分かった。もちろん見える訳ではないが、1文字1文字に、涙が乗っかっていた。

 今すぐにでも飛んで行って、抱き締めてやりたい衝動に駆られる。でも、実際に今、ここを飛び出していく蛮勇ばんゆうはない。

 今できることを最大限してやることしかできないが、やれることと言えば、こうして彼女の話を聞いてやることくらいだ。

 瑠色の気が済むまで、せめてメールででも寄り添っていてやりたい。その結果、仕事が進まなくたって、徹夜になったって良いじゃないか、と思う。

 こうして1時間ほどやり取りした頃、

『どうもありがとう。涙が止まったので、寝室へ戻れます。お仕事のお邪魔をしてしまって、ごめんなさい。お陰で、心が安らかになりました』

というメールが届いた。

『良かった。では、お休みのキスを送りますね』

『嬉しい!』

力斗は、また柄にも無いことを書いている自分に、なに恥ずかしいことをしているのだとツッコミたくなったが、瑠色が喜んでいる顔を思い浮かべると、自分の羞恥心しゅうちしんやプライドなど、どうでも良いと思えるのだった。

 力斗は、キスマークの絵文字を送信して、メールを閉じた。

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