【第2章】第4話 疑惑

💎前回までのあらすじ💎

【20年近く、夫一筋に家庭円満のためだけに生きてきた大河瑠色おおかわ るい。しかし、ある日衝動的に " 出会い系サイト " に登録し、そこで出逢った大学准教授の倉松力斗くらまつりきとに抱かれる。その余りのよろこびに、セックス嫌いだった瑠色のからだは急激に開き始める。しかし、力斗の仕事が忙しくなり、なかなか逢えない。しびれを切らした瑠色は、せめても彼の顔を見に研究室を訪ねるが、そこで全裸にされてしまう】



      【 本 文 】


 倉松力斗くらまつりきとは、次の講義の準備を済ませると、パソコンでESTAの申請画面を開き、必要事項を入力し始めた。

 ハーバード大学との共同研究も進めているため、いつ米国へ出張するとも限らない。と言っても、最近はインターネットを繋いで3ヶ国位の研究者達とオンラインで打合せを済ませることが増えてきてはいるが、念の為申請しておく。

 見慣れた申請画面にスムーズに入力し終え、送信ボタンをクリックしようとして、人差し指を止めた。

(うわっ、危ない、危ない)

一瞬画面を見直した彼の目に映ったのは、緊急連絡先欄に書き込んだ名前だった。

 そこには、『KURAMATSU RUI』とあった。『RINKO』と妻の名前を書いたつもりだったが、無意識に瑠色の名を書き入れていたのだ。

 倉松は苦笑すると、1度深呼吸し、妻の名前に直して送信ボタンを押した。

 倫子とは、付き合い始めてから11年、結婚して8年が経った。だから、今さら何をか言わんやだが、瑠色と出逢うまで結婚するべきではなかったと、後悔する気持ちがチラつくのを無視できない。

(あの時は、誰と結婚しても同じだと、観念してしまったからなぁ)

力斗は大きくため息を付くと、窓の外をぼんやりと見やった。

 6時からの講義を前に、外はほとんど日が落ちかけている。

 毎週火曜は講義が終わるのが7時半だから、家に帰るのが遅くなる。娘の尚美なおみと夕食を共に出来ないのが残念だ。

 力斗は毎日、食卓で、尚美が幼稚園での出来事を話すのを聞くのが楽しみだ。自分がこんなにも子供を愛しく感じるとは思わなかった。

 倫子と結婚後も、力斗は独身時代からの生活を変えなかった。相変わらず夜通し研究に明け暮れ、研究所の自分の個室に寝泊まりして、日曜だけ着る物を洗濯してもらいに帰った。

 それでも倫子は、文句1つ言わなかった。元々口数の少ない女だ。しかし、結婚して1年も経った頃、不妊治療に協力してくれということだけは、しつこく言うようになった。

 当時倫子はまだ20代前半で、結婚したばかり。焦る必要もないし、そもそも力斗は子供に興味がなく、積極的になれなかった。

 しかし、妻が

「友達はみんな、結婚して1年くらいで妊娠しているし、あなたはもう若くないのだから」

と、あんまり熱心に頼んでくるものだから、しぶしぶ応じた。

 お陰で、子作りする日だけは、日曜でなくとも早めに帰宅し、家で一晩過ごすようになった。

 今思うと、倫子は、「もっと家に帰って来て欲しい」と頼む代わりに、力斗が断りづらい"子作り"を持ち出したのかも知れなかった。 

 そうして娘が生まれると、力斗は子供の顔見たさに、毎日夕食までには帰るようになった。

 とにかく倫子は、要望を素直に言わない女で、相手が自分の望み通りに動くよう、誘導するのが巧かった。

 結婚を決める時もそうだった。


    🍁🍁🍁🍁🍁🍁🍁🍁🍁🍁


 倫子と出会った当時、力斗には数人女がいた。

 といっても、彼から口説いたことは1度もない。彼は、交際している女がいるからと断るのだが、

「内緒にしておけば良いじゃない。2番目でも良いから付き合って」

と女が引かないのだ。

「いや、すでに2人いるんだよ」

と言うと、

「では、3番目にして」

とすがられた。

 力斗はそれ以上拒絶できなかった。こうして、交際女性は常に複数いることになった。

 正直言って、デートに応じるのが面倒な時もあった。というより、研究に夢中になっていると、ガールフレンド達の存在をつい忘れた。

「いつ空いているの?」

と、女から責められるような口調で電話を貰うと、受話器を耳と肩の間に挟み、論文を書く手は止めずに、寝不足のしょぼついた目でカレンダーをチラッと見て、数少ない空いている日を答えた。他の女からも同様の電話を貰うと、同じく数少ない空いている日を答える。

 そうして気付くと、同じ日に3人くらいデートを入れてしまうことがあり、慌てて時間を調整して、1日に3人とセックスする羽目になったことは、1度や2度ではない。

 彼女たちは、

「ねえ、私のこと好き?」

「私達、付き合っているのでしょう?」

「この先、私達どうするの?」

などと時々訊いてきたが、その度に力斗は口ごもった。

 彼にしてみると、何度も頼まれるから、研究に明け暮れる多忙な合間を縫ってデートに応じているのであって、好きとか、交際しているという認識はなかった。

 まして、将来どうするのかと問われても、交際を少々負担に感じているくらいなのだから、結婚する気になど毛頭なれなかった。そもそも、結婚に興味もなかった。

 そんなある日、倫子と出会った。

 あるアーチストのファンクラブのイベントで何度か顔を合わせる内に、彼女から度々飲みに誘われるようなったのだ。

 ある夜、「終電がない」と言われ、ビジネスホテルを探してやろうとしたら、「あなたのアパートに泊めて欲しい」と頼まれた。

 そこで、倫子をアパートへ連れ帰り、別々の部屋に布団を敷いて寝たのだが、ふと気が付くと、彼女が力斗の布団に入ってきて、しがみついていた。

(ああ……またか)

と、力斗は思った。

 こういうパターンは、初めてではない。自分は狙っている訳ではないが、女とこうなることが少なくない。

 予想できない事態ではなかったが、「終電は大丈夫?」と何度も確認するのも嫌だし、泊まらせてと言う女にいちいち理由を言って断るのも面倒臭かった。

 さて、ここで抱かなければ彼女は傷付くだろう。しかし、抱いたら彼女とも交際することになりそうだ。嫌ではないが、喜ばしくもない。

(まあ、いいか。なるようになれだ)

もう、5人も6人も変わりゃしなかった。

 こうして力斗は、21歳の倫子を抱いた。

 ガールフレンドの中で最も若かったが、処女ではなかった。非常に若いだけに、他の女たちと違って、結婚の話を持ち出してこないのが気楽で良いと言えば、良かった。

 力斗は、自分からはどのガールフレンドにも連絡を取ったことがない。なぜなら、連絡することがなかったからだ。それは倫子も同じだった。

 しかし、彼女達から誘われれば、可能な範囲で応じた。だから、相手から連絡が来なければ、そのまま平気で3ヶ月~半年くらい過ぎてしまい、久し振りに会うと、フルネームを思い出せないこともあった。

 こんなだから、ガールフレンドとは、知らぬ間に別れたことになっていたり、風の便りに、他に男ができたらしいと聞くこともあったが、

(ああ、良かった)

とホッとするのだった。


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 倫子と付き合い始めて3年が過ぎた頃、いつものようにランチに誘われ、待ち合わせ場所へ行った。

 すると、倫子の隣に見知らぬ若い男が立っていた。

「兄よ。急に田舎から東京へ出掛けて来たの。一緒にお昼を食べてもいい?」

と言われた。

「もちろんだよ」

と力斗は気持ち好く答え、3人で世間話をしながらランチを取った。

 それからまた1月経った頃、夕食に誘われた。指定の場所へ行くと、今度は年配の男性が彼女の隣に立っていた。

「父よ。急に訪ねてきて……困っちゃうの」

と眉をひそめる倫子に、

「父親が娘を訪ねて、何が困ることがあるんだ」

と父はにらんでみせたが、その目は優しかった。

「そういう訳で、父も一緒で良いかしら?」

倫子とは、1月に1度会うか会わないかだったが、だからと言って、会えた時くらい2人きりになりたいなどと力斗は全く考えないから、やはり気持ち好く、

「もちろんだよ」

と答えた。

 今思うと、この時気付くべきだったと思う。倫子が偶然を装って、家族に自分を紹介していることに。

 夕食後、3人で居酒屋へ入ると、酒に弱い力斗は間もなくしたたかに酔った。しかし、北国の酒豪しゅごう父娘おやこは顔色一つ変えなかった。

「倉松君」

今まで陽気にしゃべっていた父親が、急に改まった声を出した。

「はいぃ?」

「娘を、どう思いますか?」

低い声で真面目に訊かれ、倉松は戸惑った。

「え、どうって……?」

酔った頭で答えをひねり出そうとするが、言葉が浮かんでこない。

でしょう?」

「……ええ」

まあ、悪いではないのだから、好いと言えるだろう。

「あのも年頃だ。真剣に考えてやって下さいよ」

ガシガシッと肩をしたたかに叩かれた。

 そう言えば、先程から倫子の姿が見えない。トイレに立ったきり、戻って来なかったのだ。


    🍂🍂🍂🍂🍂🍂🍂🍂🍂🍂


 力斗は視線を、すっかり暗くなった窓の外からデスクの上に戻すと、100人を超える学生に配布するレジメを持って立ち上がり、研究室を出た。

 講義室は別のビルにある。外に出ると、乾いた冷たい風が、暑がりの力斗には心地好かった。

 今日の講義では、結婚制度と経済の関わりについて説くつもりだ。

 そう。経済を、男女の関わり方や家庭の在り方、出生などの面からも研究している自分が、

「 " 結婚 " の経験がなくてどうする!」

と、あの時、無理矢理納得して倫子との結婚を決意したのを思い出す。

 倫子の父親と飲んだ後、1月後にまた彼女にランチに誘われた時には、力斗は彼女の父親との会話など、とうに忘れていた。

 そして、性懲しょうこりもなくノコノコ出掛けて行き、祖母に会わされ、

「今度会うときは、ひ孫の顔が見たいねぇ」

と言われて、ようやく気が付いたのだった。

 自分と倫子は、結婚することになっているらしいと。

 彼女と彼女の祖母は、結婚を大前提に会話を弾ませていた。力斗はさすがに困惑して、倫子に確かめようと機会を伺ったが、彼女はそのすきを与えてくれなかった。

 昼食を終えると、祖母を送ると言って、彼女はさっさと帰っていった。

 自分達の結婚話で、田舎の親戚じゅうが喜んでいるらしかった。今さら、結婚する気はないなどと、どんな顔をして言えるだろう。

 考えてみれば、これまで、ガールフレンド達に余りに無関心だった。

 特に倫子は、大学を出たてでとても若く、結婚の話などおくびにも出さなかったから、すっかり気を抜いていた。

 しかし、兄と父に会わされた時に、彼女の気持ちに気付くべきだったのだ。きちんと向き合ってこなかった自分が悪い。

 ここまできて自分が結婚を断ったら、彼女は、あの兄や父親、祖母や親族たちに、何と言えば良いのか。

 力斗は、こんなことでいつまでも頭を悩ませている自分が情けなかった。それに、他に考えたい事が、研究室には山ほどあるのだ。

(ええい、ままよ!結婚なんて、誰としたって同じだ。経済学者も、結婚を知っておいて悪いことはないさ)

清水の舞台から飛び降りてやろうじゃないか、と覚悟を決めた。

(いや、そんな大したことでもないか)

こうして、倫子に促されるままに、北国の彼女の実家を訪れ、自分の実家にも彼女を連れて行き、宝飾店で「これ」と指示された指輪を買い、「ここ」と指定された豪勢なホテルで式を挙げ、マンションを買い、気が付けばすっかり倫子のペースで結婚生活をスタートさせていた。

 こうして10年以上が過ぎた。

 交際している時から、ベッドに誘ってくるのはいつも倫子だった。誘われなければ、力斗は特段、倫子に触れたいと思ったことはない。

 それでも今までは、彼女に対して愛情があると思ってきた。

 しかし、瑠色に出逢った今となっては、倫子に抱いている感情が、瑠色に対するものとは明らかに違うのが判る。

 力斗にとって倫子は、家事をやってくれて、尚美なおみを一緒に育ててくれる、共同生活者だった。

 そういう意味では感謝をしているが、だからと言って、倫子を好きとか、愛しているということにはならないのだと、力斗は明確に判った。

 倫子は、尚美にとっては必要な人間だ。しかし、自分が必要とする人は、そばに居て欲しいと心から望む相手は……。

(いや、やめよう。叶わないことを考えても、気がふさぐだけだ)

力斗は、講義室の前でかぶりを振ると、ドアを開けた。


    🍃🍃🍃🍃🍃🍃🍃🍃🍃🍃


「○○さんの息子の君がね……」

と言いかけて、大河瑠色おおかわるいはハッと口をつぐんだ。

「誰だ、そりゃ?」

刺身を何切れかまとめて口に放り込み、くしゃくしゃと二、三度咀嚼しただけで飲み込むと、憲介けんすけ怪訝けげんな顔をして訊いた。

「あ、間違えちゃった。○○さんの息子さんの名前、何て言ったかしら……」

「□□君だろ。馬鹿じゃねぇか、お前。事務職員の子供の名前くらい覚えろよ。ま、お前は人の名前に限らず、何でも忘れちゃう馬鹿だから仕方ねぇけどさ」

憲介はいつものように、小馬鹿にした顔で言った。

「アハ、そうね。子供の頃から、同級生の名前を覚えるの苦手だったもの」

瑠色は、内心の焦りをさとられぬように、おどけて言った。

「まったく……ほい、お代わり」

憲介が差し出した茶碗を受け取ると、瑠色は食卓を立って台所へ行き、ご飯をよそりながら生唾なまつばを飲み込んだ。

 よりによって夫の前で交際相手の名前を口走るなんて、いくらオッチョコチョイの自分でも度が過ぎる。

 まして、敏感で疑り深い憲介のことだ、些細なことから疑いを抱きかねない。針の先ほどの疑惑でも抱かせたら最後、出入りの探偵業者を頼んで妻の浮気の証拠を挙げることなぞ、朝飯前だ。そして、証拠を掴まれたら徹底的にやられる。

 瑠色はもちろん一文無しで追い出されるだろうし、幸介こうすけの親権も取られるだろう。力斗の身元も突き止めて、裁判に引きずり出し、慰謝料請求するのはもちろんのこと、社会的にも最大限のダメージを与えようとするだろう。

 何と言っても、憲介はその道のプロだ。それに実際、人一人を、ただ気に入らないという理由でクビにする峻厳しゅんげんさがある。

 加納健は、来月11月には、事務所を辞めさせられてしまうのだ。


    🌾🌾🌾🌾🌾🌾🌾🌾🌾🌾


 この3年半、加納のそばで仕事ができる歓びがあったからこそ、家でも職場でも年々ひどくなる憲介の横暴さに耐えてこられたのだと、今では分かる。

 そのささやかな支えを夫に奪われると分かった時の衝撃が、力斗と出逢ったことによって、少しずつなぐさめられつつあった。

 なのに、その力斗までうしなうことになったら、正気を保てるか瑠色には自信がなかった。毎日、独りになると涙が溢れ出して止まらなくなるのは、相変わらずなのだから。

 それに、大きな現実問題として、憲介に追い出されたら、経済的に困窮することになる。実は、それが最も恐かった。

「はい」

と、瑠色は顔色を変えずに、ご飯を盛った茶碗を憲介に差し出した。

「ああ……」

と受け取った憲介だが、少し不機嫌になった気がする。


    🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿


「ごちそうさまでした」

と幸介が言って、自分の食器をシンクヘ運ぶと、食卓と一続きになっているリビングに、作りかけのプラモデルを広げて、組み立て出した。

 誕生日に憲介が買ってやった物だが、本物のフェラーリをそのまま縮小したような精巧なもので、かなり高額だった。大人でも組み立てるのが難しそうだ。

 瑠色の母は、数年前に、幸介が欲しがった玩具おもちゃをプレゼントしてくれたのだが、

「やたらと玩具を買い与えるなと、お袋さんに言えよ!」

と、瑠色が憲介に散々叱責しっせきされる羽目はめになったので、以来、無難に衣料品を宅配便で贈ってくれるようになった。

 本当は、孫の顔を見ながら誕生日を祝いたいのだが、自分が娘の家を訪ねるのも、自分の家に娘が来るのも、どちらも気に入らず不機嫌になる憲介に遠慮して、孫の顔もおちおち見られないでいた。


    🎃🎃🎃🎃🎃🎃🎃🎃🎃🎃


 食卓に憲介と2人だけになると、瑠色はさらに緊張する。機嫌が好いと、うるさいくらい良くしゃべる憲介だが、今は急に押し黙ってしまっている。

 気まずさを払拭ふっしょくしようと、瑠色は、黙々と料理を口に運んでいる憲介に話し掛けた。

「その□□君がね、志望校を決めたらしいのだけれど、全然勉強しないから困るって、彼女、イライラしてたわ」

「ふーん……」

「それで、気分転換に、今度お茶でもしようって言ったのよ」

「……勝手にすれば」

「勝手にって……そんな言い方……」

憲介は黙って席を立ち、リビングのソファに腰を下ろして、顔の前に夕刊を広げた。

「もう、食べ終わったの?」

「ああ。見りゃ判るだろ」

「……」

元々むらっ気な男で、たいした理由もなく急に不機嫌になるのには慣れているが、今は明らかに、瑠色が事務職員の息子の名前を間違えたことに怒っているようだ。

 女房の物覚えが悪いのにむかっ腹を立てているならまだ良いが、最近の心変わりを感知されては困る。絶対にさとられてはならない。

 瑠色は食事が進まず、半分くらいを残したが、料理が趣味の憲介が作り置きした食事を残したのが分かると、さらに機嫌を損ねることになるから、彼の目につかぬ内にそそくさと台所へ運び、ゴミ箱の下の方へ隠すように素早く棄てた。

 瑠色がテーブルを片付け、洗い物をしている間も、憲介はムスッとしてスマホを見ていた。

「お風呂に入る?」

洗い物を終えた瑠色は、動揺を覚られぬよう、いつも通り明るい声で訊いた。

「いや。お前、先に入れよ」

「そう」

瑠色は洗面所へ行き、脱衣スペースで服を脱ぐと、湯船に体を沈めて、大きく息をした。

 憲介といると、無意識に息を詰めてしまう。こうして離れると、スムーズに呼吸ができる。

(ああ、力斗さんに逢いたい。力斗さんのそばにいたい)

力斗に抱き締められると、風呂に浸かるより心身をゆるめることができた。

 いつまでも浸かっていたいが、のぼせそうになり、あきらめてバスルームのドアを開け、バスマットの上で水気を落としながらバスタオルを取ろうとした時、ガラリと引戸が開いて憲介が入ってきた。

 瑠色は慌ててバスタオルを取り、裸の体に巻き付けた。

「歯を磨こうと思ってさ」

と言いながら、憲介は瑠色を一瞥すると、

「お前、気持ち悪ぃな」

と顔を歪めた。

「え、何?」

瑠色は何事かと、バスタオルをぎゅっと握り締めた。

「あばら」

「あばら?」

脇腹にオデキでもできたのだろうか。

 瑠色は前側を隠しつつ、バスタオルを少し外して両脇腹を見た。

「あばら骨が浮き出てるじゃん。胸の肉が落ちて、その分腹には肉が付いてさ……気持ちわりぃ~」

「……」

あまりの言いように、瑠色は絶句した。

「お前、ババアになったなぁ。もう歳だな」

憲介が口を歪めてわらう。

 バスタオルを巻き直したものの、体を拭くこともせずにバスルームの前にたたずむ瑠色を、何を思ったのか憲介は抱き寄せ、背中を軽く叩いた。

「まあさ、俺もジジイなんだから、お前もババアで、仕方ないよ」

瑠色はぞっとしたが、抵抗する訳にもいかず、憲介の太い腕の中で、棒きれの様に体を硬くしていた。

「お前、変わってるよな」

「え?」

今度は何だと言うのだろう。

「普通さ、夫にハグされれば、ハグし返してくるもんだろ。お前は、腕を回してこないもんな、いつも。じっとしていてさ、反応が悪いって云うか、こういうことにホント、興味がないっていうか……変わってるよ」

(反応が悪い?……彼には『敏感だ』って言われるけれど)

瑠色は内心つぶやいた。

「じゃ、俺は寝るよ。明日は早くに依頼者が来るんだ」

そう言うと、憲介は2階の寝室へ上がっていった。


    🍃🍃🍃🍃🍃🍃🍃🍃🍃🍃


(やっと終わった)

瑠色は全身の緊張を解くと、裸にバスタオルを巻いたままの姿で、ソファに寝そべった。

 力斗と出逢ってからというもの、この"夫婦ごっこ"が疲れてならない。

 憲介はやはり、何かを感じ取ったのだろうか?

 彼が急に黙りこくる時は、たいてい何か気にさわった時だ。いつもは何が彼を怒らせたのか判らないことが多いが、今夜は明らかだ。事務所スタッフの子供の名前を、憲介が聞いたこともない男の名前と間違えたのだから。

 でも、なぜ急にハグなどしてきたのだろう?

女房の体をあからさまに侮辱ぶじょくして、さすがに決まりが悪かったのだろうか。

(埋め合わせにハグしたというの?冗談でしょ。こちらこそ気色悪いわ)

とにかく、秘密は守り通さねばならない。

 瑠色はソファから起き上がると、バスタオルを取って鏡の前に立った。

 気持ち悪い?どこが気持ち悪いのだろう?

 これまで、姑や憲介の女を否定するような数々の暴言にひどく傷付き、自分でもとうに女は終わったと信じていた瑠色だが、今は違った。

(力斗さんは、このからだを綺麗だって言ってくれるもの。あんなにいつくしんでくれるもの)

瑠色は、憲介の言動に怒りを感じてはいるが、全く傷付いていない自分に驚いた。

 力斗と逢えるのは、来週の水曜日だ。今週末、また憲介と長い時間を過ごすのは、いつにも増して苦痛になってきているが、なんとか乗り切ろう。そうすれば、優しく、あたたかい力斗の胸に身を委ねることができる。

(私のからだは、力斗さんのものだもの。あんな奴にとやかく言われる筋合いはないわ)

もっと綺麗になろう。そして……と瑠色は考える。

(加納先生に、綺麗な私を見て欲しい)

瑠色は、再びバスタオルを巻くと、洗面所へ戻り、髪に丁寧にドライヤーを当て始めた。


( 続く )

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