【第2章】第2話 抱かれた後は、シャワーを浴びない。

💎前回までのあらすじ💎

【ウブで真面目一方で、夫一筋に家庭円満のために生きてきた45歳の主婦・大河瑠色おおかわるいは、ある日、投げやりな気持ちで、衝動的に"出会い系サイト"に登録する。しかし、そこで出逢った男に抱かれ、女の歓びを知り始める】



       【本  文】



 年々、夏の暑さが異常なほど増している。

 相変わらず熱中症で亡くなる人が後を絶たず、ニュースでも、自治体の防災放送でも、毎日注意を喚起している。

 しかし、大河瑠色おおかわるいの家は2×4で気密性が高く、陽気の好い季節以外は一日中全館冷暖房にしているため、常春とこはるだ。

 そんな快適なリビングで宿題を広げている幸介こうすけを時々みてやりながら、瑠色は台所で夕食の支度をしていた。

 彼女は元々料理が得意ではないが、特段嫌いでもなかった。

 とついでからは、夫・憲介けんすけの為に腕を磨こうと、張り切って料理教室にも通った。

 ところが、10年間同居していた姑に、全て手作りにしろだの、スーパーではなく魚屋、肉屋、豆腐屋を回って買ってこいだの、外出する時は家族の分(と言っても幸介は数年間授からなかったし、憲介は瑠色が留守なら外食してくるのだから、要は姑の分)を作り置きして、毎日三食必ず用意してから出掛けろだのと強制され、それに応えようと一所懸命作ったおかずを毎回けなされている内に、瑠色は台所に立つことさえ怖くなった。

 姑と別居して数年余り経ったが、今なお、台所に立つのは苦痛だ。

 特に、憲介の為に炊事をするのは、非常に気が重い。

 なぜなら、憲介も姑と同じく、朝でも夜でも、おかずは全て手作りで、5品以上用意しないと不機嫌になるからだ。

 しかも、彼は自分の母親と同じく、味について褒めることはまずなく、批評家よろしく、駄目なところを指摘してくる。

 この親子2人は、料理のことに限らず、他人の欠点を指摘し、直してやるのが良いことだと信じている節がある。

 また、人間はめると図に乗るものだとも思っていて、特に図に乗らせてはいけないのが嫁だ、と考えていた。

 今では、その横暴な姑はいなくなったものの、代わりに、気難しくて小うるさいしゅうととの同居が始まったようだった。

 

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 瑠色は、サラダを皿に盛る手を止め、視線を手元から幸介に、そして、冷蔵庫にマグネットで留めてある小ぶりのカレンダーへ移し、深いため息をついた。

(次に逢えるのは、いつかな……)

 実は、倉松力斗くらまつりきととは昨日初めて関係を持ったばかりだが、もう逢いたくてたまらなく、彼女は朝から何度もカレンダーを確認している。

 まるで、カレンダーを見る度に、逢える日が早まるとでも信じているようだ。

 しかしその度に、

(まだ1日しか経っていない……)

と恨めしく見詰められるカレンダーは、今にも冷や汗をかき出しそうだ。

 うなじ、乳房、その先端、腰、膝うら、足の指先、秘所に、力斗の指と舌と吐く息の感触が、濃く刻まれている。

(ゆうべは、シャワーを浴びなくて良かった)

瑠色は思わず、両手で自分の肩を抱き締めた。

 挿入の無いセックスだったが、力斗は8時間も抱いてくれた。

 2人がベッドを離れたのは、昼食を食べに外へ出た30分間だけだった。

 力斗との交わりで、瑠色は、小説や映画の中だけにあるものと思っていた"恍惚感"や"至福"と表現されるものが、実際に在ることを肌で知った。

 また同時に、"時間"という概念も崩れ出した。

 2人でベッドで密着していた時間が、あの退屈なハワイへのフライト時間と同じとは思えない。

 アインシュタインが言ったように、時間は"伸び縮みする"のだ、きっと。

 しかも、まだまだ時間は足りなかった。

「ああ……三日三晩はこうしていられるわ」

瑠色は、天井に顔を向けて休んでいる力斗の胸に、顔を乗せてつぶやいたのだった。

「私もですよ」

そう答えると、力斗は瑠色をぎゅっと抱き締め、彼女の顔中にキスをした。

 ぎりぎりまでホテルにいて、帰りの特急に辛うじて飛び乗り、シートに座ると、瑠色はもう力斗が恋しくなっていた。

 こんな状態で、次に逢うまでどうやり過ごせば良いのだろう。

 これから憲介の元へ帰るのかと思うと、とたんに肩が重くなった。列車から飛び降りて、力斗の元へ走り戻りたかった。

(せめて、今夜は汗を流さないでおこう)

力斗の残り香に、一晩中包まれて眠りたかったのだ。

 そして昨夜は、これ以上ないと思える幸せを全身で感じつつ、眠ることができた。

 これまで、これほどの安らぎと充足感の中で眠ったことがあっただろうか。

 特に嫁いでからは、24時間待機状態、緊張状態が当たり前になってしまい、リラックスする感覚を忘れていた。

 そうだ、赤ん坊の頃、母の乳を吸いながら眠りに入っていく時、こんな気分だったかも知れない。あるいは、子宮の中で揺られていた時、こんな感覚だった気がする。

(ああ、早くまた、この感覚が欲しい。力斗さんの腕の中へ戻りたい)

瑠色はまた、冷蔵庫に貼り付けたカレンダーを見やるのだった。


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 その時、ガチャリと玄関ドアの鍵を開ける音がした。

 憲介が帰ってきたのだ。

 幸介が、ギクリとして問題集から顔を上げ、瑠色を見た。

 瑠色も、憲介が帰ったことが分かると、反射的にギクッとする。

 今夜の夫の機嫌はどうだろうか。

(今日は私、何か粗相そそうを、していないわよね……?)

と、1日の自分の行動を早回しで振り返る。

 特にここ最近は、自分に起きた急激で大きな変化に、敏感で疑り深い憲介が気付きやしないかとヒヤヒヤしている。

「お帰りなさい」

リビングに入ってきた憲介を、瑠色はいつものように作り笑いで出迎えた。

「ああ……ただいま」

表情も声音こわねも普通で、機嫌が好くはないが、悪くもない様子だ。

 彼女は内心ほっとして、食卓に料理を並べ始めた。


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 今日は、力斗は珍しく特急列車の中にいた。

 幼い頃から乗り物酔いがひどいので、仕事以外ではまず遠出をしない。

 だから、妻の倫子りんこは、彼が海外の学会へ出かける際にはたいてい、娘を一緒に連れて行ってやれと言ってくる。

「夏休みなのに、旅行にも連れていってやらないなんて、尚美なおみが可哀想だわ」

もちろん倫子も付いて来ることになるが、彼女は決して「一緒に行きたい」という言い方はしない。

 毎週末の外食もそうだ。

「ねぇ、力斗さん、尚美が今夜は、天ぷら屋さんへ行きたいんですって」

と言う。

「ね?」

とママに顔を向けられると、5歳の娘は

「うん」

と言ってうなずく。

 こうして、いつの頃からか、毎週土曜の夜には、力斗が研究室から帰ると-彼は日曜以外は、盆暮れ正月に関係なく研究室にいた-必ず尚美が外食をせがむ、と倫子が言うようになった。力斗は、そんな妻の言葉を真に受けていた。

 しかし、今日の一泊旅行は、経済学部の懇親旅行だ。さすがの妻と尚美も、付いて来る訳にはいかなかった。

「先生、現地での先生達の部屋割りは、どうなっていましたっけ?」

と、隣に座る幹事の女性職員が訊いてきた。

「えっと……」

力斗は、使い古したブルーのスポーツリュックの中をごちゃごちゃとまさぐった。

 ボロくて、みすぼらしいリュックを、若い女性事務員は、馬鹿にしたような目で見ている。しかし、このボロに見えるリュックも、ついでに何の変哲も無いスニーカーも、力斗がこだわって買った、実は何万円もするブランドものだ。

 気に入り過ぎて、毎日何年も使い続けているものだから、ボロにしか見えないのが残念だが、力斗は気にしていない。自分が気に入っていれば良いので、倫子には、みっともないから取り替えろとしきりに言われるが、他人にどう思われようとどうでも良かった。

 彼はようやく、部屋割りが書かれたA4の紙を取り出し、シワを伸ばして事務員に渡した。

 力斗は大学に入ってからこれまで、団体旅行なるものに参加したことはなかったが、今回は幹事を頼まれてしまったから、参加しない訳にはいかなかった。

 毎年の定宿じょうやどらしい旅館に、ご丁寧に下見にまで行かされたものだから、

「あの旅館の食事は不味まずいから、宿泊先を変えた方が良いんじゃないか」

と報告したら、そんなことを言ってはいけませんよ、先生、毎年決まった宿なのですからと、職員達に苦笑顔くしょうがおでたしなめられた。

「そんなの、今年から変えりゃあ良いじゃないですか。食事が美味しい所が良いでしょう」

と、納得できない力斗は、再度押してみたが、「いやいやいや、そういう訳にもいきませんよ、センセイ……」とかなんとか、顔を見合せてニヤニヤされただけで、結局力斗の提案は却下された。

 食事が不味まずい宿を、毎年利用しているからという理由だけで変えたがらない職員達の理屈が、力斗にはさっぱり理解できない。

 マンモス大学だから、経済学部の教職員だけでもかなりの人数だ。と言っても、教員はあまり参加していない。

 力斗は、さして興味もない人間達と団体で行動するのは、子供の頃から苦手だ。幹事をやらされなければ絶対に参加しなかっただろう。

 しかし、昔から頼まれ事は引き受けてしまうたちで、断れないと云うより、(まあ、いっちょやってやるか)と受け入れる。

『あと5分ほどで、○○駅です。お降りの際は忘れ物の無いよう……』

途中駅に着いたようで、車内アナウンスが聞こえてきた。

 彼は窓に顔をくっ付けるようにして外を見た。

 実は、この町に瑠色が住んでいる。

 力斗は席を立ち、ビュッフェがある車両へ向かった。瑠色にメールを書くためだ。

『お早うございます。この前お話しした通り、学部の懇親旅行で、今特急に乗っています。間もなく貴女あなたが住んでいる町の駅に停まります。貴女に大分近づけますね、嬉しいです』


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 瑠色に初めて会った盆休みからこの9月上旬まで、まだ1月も経っていないが、すでに4回逢瀬を重ねていた。

 実は3日前にも逢ったばかりだし、その前々日にも逢った。

 いわゆる"W不倫"にしては、逢う頻度が高いかも知れない。

 しかし、逢える時に逢っておかねば、次はいつ逢えるか分からないと思うと、次々とデートの約束を入れずにはいられない。

 しかし、力斗は決して暇な訳でない。

 後期授業が始まり、加えて、文科省の科学研究費で最高額を獲得することができた、力斗と東大の研究者ら3人を中心とした、メンバー十数人の共同研究が本格化し、本当は寝る間も惜しいほど多忙なのだが、瑠色と逢わずにはいられないのだ。

 逢わないでいると、論文を書いている時でも、講義内容を考えている時でも、気が付くと彼女の肢体したいがまぶたの裏に浮かんで、集中できなくなる。

 居ても立ってもいられず、毎晩、家族が寝静まった後に、彼女とメールで長々と会話をした。

 ひどい時など、夜の11時から翌朝の5時までメールを交わしてしまい、その後大急ぎで講義のレジメを作っていたら結局一睡もできず、講義中、眠くて仕方なかった日があった。

 というか、講義はもちろんだが、実は締切が迫っている何本かの論文や、文科省へ提出しなければならない報告書もあり、本来なら女性と毎晩何時間もメールを交わしている場合ではない。

 そろそろ本気で仕事に戻らないと、とんでもないことになるぞ、と思う。

 しかし、だからと言って、瑠色の存在を負担に感じることは全くなかった。むしろ、何やらうきうきする気分を味わえて、よろこばしい気持ちだ。

 長い研究者生活で、こんなことは初めてである。

 逆の事は沢山あった。

 研究に夢中でガールフレンドをったらかし、一方的にことに、大分後になって気付くことが少なくなかったし、風の便りに、他に男ができたらしいと聞いて、なぜかホッとしたりすることも多かった。

 会社経営者で好色だった父親の影響か、力斗は非常に早熟だった。

 また、今でこそ服装は構わないが、母親が一人息子の彼に取っ替え引っ替えオシャレをさせ、高校生の時には、道端で撮られた写真がファッション雑誌に掲載されたこともあった。

 小学校高学年の頃、自分の為に誰が運動会の弁当を作ってくるかで女の子達が不穏な空気になったことがある。

 中学2年生の時には、いつも一緒に帰ろうと誘ってくる女の子に、ある日「親が留守だから」と自宅へ招かれ、上半身裸になられた上に、「胸を触って」と頼まれて困惑しながら触ったことがある。この時は、すぐに手を引っ込めた。

 高校2年生の夏に、両親が彼一人を家に置いて旅行へ出掛けた時、父親の知り合いの女性が、夕飯を食べに来ないかとマンションへ呼んでくれたことがあった。

 この時初めて、を受けた。

 その女性は29歳の元客室乗務員で、マナー講習などを企画運営する会社を経営していた。

 父親の浮気相手なのかも知れないと思っていたが、まさか自分がお相手することになるとは予想していなかった。

「いい?女にはね、すぐにれては駄目なのよ。アソコから1番離れた場所から、ゆっくり優しく愛撫していくの」

 会う度に、力斗は彼女から女体にょたいの扱い方を教わった。

 付き合って1年も経った頃、彼女の会社の懇親旅行に離島へ誘われた。《元》や《現役》のスチュワーデスが多かった。

 やけに大人びていて、物識ものしりでユーモア溢れ、穏やかな力斗は、すぐに彼女たちに気に入られ、何人かに、夜毎よごと部屋にお呼ばれした。

 どうして浮気がバレたのか判らないが、旅行から帰ってから、経営者の彼女から連絡がパッタリなくなった。

 力斗も、彼女との付き合いを少々面倒臭く感じ始めていたところだったから、そのまま放っておき、以来2度と会うことはなかった。


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『嬉しい!力斗さん、今、こちらまでいらっしゃっているのですね。それにしても、夜の宴会で、また例によって、女性に誘惑されないで下さいよ』

と、瑠色から返信が来た。

『まるで私が誘惑されるものと、決めているような言い草ですね、瑠色さん』

と力斗が書くと、

『だって本当に、女性のお誘いを断れないひとじゃない』

ときた。

 確かに自分は、人から頼まれ事をすると嫌と言ないたちではある。それは、女性も例外ではなかった。

 倫子りんこと結婚した後も、女性たちとの関係は相変わらずだった。

 積極的な女性たちは、相手や自分自身が既婚でも問題にしないようだった。

 ある時、研究者仲間の女性から、アルゼンチンタンゴを観に行こうと誘われたことがあった。付いていったら、観るのではなく、一緒に踊る羽目になり、さんざん体を密着させられた上、帰り際には「キスしてくれなきゃ、帰らない!」と言い張られ、仕方なく応じたことがあった。

 またある時は、力斗が立ち上げに関わった、ある国際機関の委員会メンバーだったアジア人女性が来日し、連絡をくれたので、久し振りに会おうということになり、彼女が宿泊しているホテルで夕食を共にした。

 旧交を温め、食事を愉しみ、さて帰ろうと力斗が席を立つと、彼女が、「土産みやげを部屋に忘れてきたから、一緒に部屋まで取りに来て欲しい」と言った。

 こういう誘われ方をすると、力斗はどうにも断れない。

「ここで待っているから、持ってきてくれ」

とも

「要らない」

とも言えない。

 そこで彼は、気が進まないものの彼女の部屋へ行き、ソファーで並んで珈琲をすする内にしなだれかかられ、ベッドインすることになった。

 南米の女性はもっと強烈だった。

 現地の学会で知り合って1週間も経った頃、夕食後にホテルの自分の部屋で力斗がくつろいでいると、同じホテルに泊まっている彼女が訪ねてきたので、ドアを開けた。

 そして、彼はぎょっとした。

 彼女は、裸にガウンを羽織っただけの姿で、廊下に立っていたのだ。

 鍵でも失くしたのかと思い、とりあえず部屋に入れてやると、そのまま抱き付かれ(というより、飛び付かれた、という感覚だったが)、ベッドに押し倒された。

 こんな体験ばかりしてきた力斗は、自ら女性に働き掛けて交際したことはなく、また、女性とは、好きな男に対しては大分だいぶ積極的な生き物なのだと思っていた。

 ところが今回、彼は、初めて自分から女性をしまったなぁと、他人事のように感心していた。

 結婚前も後も、女に不自由したことはなく、むしろ面倒なくらいだった。

 彼にとって最も大切なのは研究であり、次には音楽や絵画、落語などの趣味である。5年前に娘の尚美がそこへ加わったが。

 彼の趣味は結構マニアックらしく、独りで好きな世界を愉しんできた。

 実際、ガールフレンド達は、妻の倫子も含め、誰も彼と彼の趣味の世界を共有できた者はいなかった。

 でも、力斗はそれでまったく構わなかった。自分の好きな世界は、自分独りで愉しみたい。ガールフレンドに下手に映画館へ付いてこられて、「どこが面白かったの?」なんて言われるとガッカリしたし、気を遣わざるを得なかった。

 ところが、つい2ヶ月前から、全く偶然にメールを交わすようになったある女性には、気がした。

 話が弾むものだから、ついつい、仕事の合間合間に長いメールを送った。1ヶ月間毎日、1日に何度もだ。

 自分が、研究以外のことで、こんなに他人ひとと話すことがあるとは思わなかった。

こんなにも遠慮なく話ができて、しかも、いちいち説明しなくても言いたいことを解ってくれる相手は、高校時代からの親友ぐらいしかいない。

 しかし、その親友は地元で嫁を貰い、父親の事業を継いで多忙になったし、こっちも娘の尚美が生まれてからは、"イクメン"としての忙しさも加わり、互いに疎遠になっていた。


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 瑠色と実際に初めて会った時、この女性ひとは、心に浮かんだことをそのまま口に出すたちなのだなぁ、と思った。だからあんなにメールの返信が早かったのかと、合点がいった。

 即座に、躊躇ちゅうちょなく本音を口に出しているようだから、余程素直なのか、そうでなければ余程のアホなのかと疑ったが、アホではないらしいことは、話して判った。

 むしろ繊細で感じやすく、日頃から様々なことを独自に深く考えているから、ポンポンと、打てば響くように答えが返ってくる。

 その代わり、他人に対してはほとんど関心が向いていないようだ。だから、他人からどう思われるかも気にしていない。

 常識に囚われない独特な思考と、他人に迎合しない性質が合わさると、一般的には"非常識"とか"変わっている"とみられる。そこに、子供のような天真爛漫てんしんらんまんさが加わると、人によっては彼女を馬鹿にしてかかるに違いなかった。 

 子供の頃から嫁いだ後まで、いじめに遭うことが多かったと聞いたが、分かる気がした。

 しかし力斗は逆に、彼女の話すことを非常に面白く感じていたし、突拍子もない事でも平気で言ってしまう性格が、羨ましくさえあった。

 彼はそもそも、常識的な意見などに価値を置いていない。それは、その人独自の考えではなく、世間の多数派が口を揃えて言っている、どこにでも転がっている意見で、聴いても仕方ないからだ。

 しかし困ったことに、仕事を普通にこなしている大多数の大人は、常識的であることを求められるし、現に非常に常識的であり、会社でもそれなりに評価をされているから、自分を頭が良いとさえ誤解している。

 反対に、事務処理や家事が苦手で、気が利かず、"空気を読めない"瑠色のような人間は、会社の上司や同僚、姑や優秀な夫からすれば、見えたことだろう。

 しかし、力斗から見れば、彼らは"小賢しい"だけであって、本質を見抜く力や発想力に乏しい、つまらない人種だった。

(彼女の良いところを理解できる人間は、そうはいないだろう。瑠色さんの良さが解るのは、私だけかも知れない)

そう思うと、力斗は自分を誇らしく感じた。

 目の前で、屈託のない明るさでおしゃべりしている瑠色の姿は、過去にひどいイジメに遭ってきたことや、姑と夫によるモラルハラスメントに今なお苦しんでいることを、到底想像させなかった。


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 2度目のデートで、2人でランドマークタワーへ行った時、展望台から下界を見下ろした彼女が、

「うわっ!この川、すっごく大きいですね!」

と身を乗り出し、窓ガラスに額をくっ付けんばかりにして言ったのを、力斗は何度も思い出す。

「え?川って普通、こんなものですよ?」

「え、そうですか?川って、こんなに長くて、幅広でしたっけ?

 すっご~い……あんな方まで、ずっと続いていますよ!ほら、ほら」

(ほら、ほらって言われても、そんなに珍しくもないんだけど……)

力斗はつい笑ってしまった。

「何か、おかしいですか?」

と、瑠色がきょとんとした顔をこちらへ向けた。

「いや、別に何も……」

と答えながら、力斗はゆるんだ顔を元に戻せなかった。

 川が大きい!などと、いい大人が本気で口にするセリフとは思えない。今時いまどき小学生でも言わないだろう。

 しかし、この女性はどうも本気で言っているらしかった。

 珍しくもない川を、目を輝かせて見つめている。

 まるで幼子おさなごのような好奇心というか、無邪気さというか……。

(ほんと、珍しいタイプだよなぁ)

力斗は、彼女に急速に引き込まれていくのを感じた。

 この女性ひとは、こんな事を言ったら他人にどう思われるかなんて、日頃から本当にちっとも気にしないのだろうなあ、と感心した。

 むしろ、川が大きいことに本気で感動している彼女の心の震えは、こちらにも伝わってきた。

 自分と同い歳であるはずの女性の、あまりの無防備さに、力斗の心は大きく動かされた。

「実は私、鹿が嫌いなんですよ。ブスなくせに、馬鹿なくせに、私に言い寄ってくるな!と思ってしまうんです」

と思い切って言ってみたら、瑠色は大笑いしてくれた。

 力斗は、なにやらスッキリした。

 自分はけっこう好きに生きてきたツモリだったが、まだまだ周囲に遠慮したり、他人の目を気にしているところがあるようだ。

 自分ももっと、言いたい放題言って良いのかも知れない、と思った。


    🌽🌽🌽🌽🌽🌽🌽🌽🌽🌽


 特急列車がホームを滑り出した。

(ああ、瑠色さんから離れていく)

力斗は思わず、胸を手で押さえた。

 最近は、瑠色と別れた後に、キュッと胸が締め付けられるように苦しくなる。

(病気でもないのに、こんなことが本当にあるとは……)

自分が女のことで、こんなにもセンチメンタルになるとは、想像したこともなかった。

 だいたい力斗は、子供の頃から、友達の輪から一歩下がって、現実を冷めて見ていたところがある。

 ひねくれているとか、陰気なわけではなく、現実を遠くから眺めているような、まるで映画でも観ているような感覚があり、今一つ入り込めなかったのだ。

 そのためか、幼稚園の頃から喧嘩もしたことがない。

 オモチャの取りっこになると、すぐにゆずった。怖いからではなく、欲しいと思わなかったからだ。

 運動会で勝ったの負けたのと、友人が大騒ぎしていても、その集団的な酔いに浸れなかった。

 女が自分に抱かれてもだえていても、

(そんなにいか?)

と冷静に観ていた。

 しかし、瑠色は違った。

貴方あなたに抱かれた日には、シャワーを浴びないの。だって、残り香を消したくないのだもの」

なんて事を真顔で言う彼女が、可愛くて仕方ない。

(汗ばむ時期なのに)

と苦笑してしまうが、それよりも、疑心暗鬼ぎしんあんきで敏感だという彼女の夫が、間男まおとこの匂いを嗅ぎ取りはしないかと心配でなくもない。

 しかし、そんな危険を犯してまで、この自分の香りにできるだけ長く包まれていたいと言う瑠色が、愛おしかった。

 力斗が食堂車から自分の席に戻ると、隣の女性事務員が、

「センセイ、新秋刀魚しんさんまが食べられると良いですね」

と言った。

「ああ、もう旬に入りましたね」

と答えながら、力斗は、

(瑠色さんは、旬の生さんまより美味うまいもんなあ)

と考えて、我ながら呆れた。


    🍆🍆🍆🍆🍆🍆🍆🍆🍆🍆


 瑠色は、自宅から2km離れた駅を通過中らしい力斗からメールを貰った時は、出勤の遅い憲介をようやく送り出したところで、最近急激に増え出した新しい下着を、憲介の目につきにくい収納場所に移し替えているところだった。

 近所のショッピングモールには、もう何年も通っているが、そこに、可愛らしいランジェリー・ショップがあることに、最近まで気付かなかった。

 店をのぞいてみると、セクシーなデザインのものがけっこうある。

 瑠色は、一面に広がるお花畑で、愛らしい花々を摘むように、色彩豊かなランジェリーをいくつも手に取っては、眺めた。

 小さい面積にレースがいっぱい付いたピンクのショーツはガーベラのようだし、ホワイトとペパーミントグリーンのブラジャーなどは、ユリの花のようだ。

 いまだかつて、ランジェリー選びがこんなに愉しかったことはない。

 今の瑠色には、服より下着の方が大事だった。そしてもっと大事なのは、裸体だ。

 惚れた男の前で、弛緩しかんした肉体をさらしたくない。からだごとでてもらいたかった。


    🍦🍦🍦🍦🍦🍦🍦🍦🍦🍦


(今度はいつ逢えるのだろう……)

経済学部ご一行を乗せた特急列車が駅を出た頃、2人は同時に、同じことを考えていた。

 瑠色の予定は、気分屋で人使いの荒い憲介にかなり左右される。それに、まだ小学生の幸介もいる。

 力斗は仕事が慢性的に忙しい上、日曜は必ず娘の遊び相手をすることに決めていた。

 だから、2人の逢瀬おうせは、直前になるまで予定が立ちにくかった。

 力斗は先日、夫婦関係について共同研究をしないかと誘ってきた社会学者の女性に、やぶからぼうに、

「センセイは、不倫したことはありますか?」

かれて、慌てた。

 これまで浮気はさんざんしてきたくせに、をしている認識を持ったのは、今回が初めてだ。

「いや……ありませんよ」

と答えながら、瑠色は不倫相手ではなく"恋人"だ、と思った。

「不倫は、"不純な関係"だと世間では非難されますが、センセイはいかがお考えになりますか?」

折しも、芸能人の不倫ネタで、メディアが連日騒いでいた。

「"不純"ねぇ……」

日頃考えてもみなかったテーマに、言葉が詰まる。

 "不倫"と呼称される関係は、考えてみると、お互いにリスクしかない関係だ。

 "気持ちい"というメリットがあるではないかと世間は言うが、力斗にしてみれば、セックスをそこまでいものだと感じたことはないから、リスクを犯してまでする価値があるとは思えなかった。

 だから、これまで女性からの強引な誘いに応じる形で浮気をすることはあったが、たいてい1度のアバンチュールで終わった。

 むしろ、女と遊んでいる時間があるなら研究をしたいし、論文を書き進めたいし、睡眠時間を確保したかった。

「"不倫"は案外、純粋なものではないかなぁ」

と力斗が答えると、女性社会学者は眉根まゆねをピクリと上げて、

「なぜですか?」

と訊いてきた。

「セックスが特に好きな人は別ですが、不倫関係はメリットよりリスクの方がはるかに大きい。

そのリスクを凌駕りょうがするような強い想いが両者に無ければ、関係は続かないでしょう。

お互いに家庭も仕事もあって忙しいのに、さらに、リスクしかない相手に逢う理由は何だと思いますか?

お互いを好きだ、という気持ちだけでしょう。

それは、打算の多い結婚より、かえって"純粋"だと言えるのではないかな」


    🍒🍒🍒🍒🍒🍒🍒🍒🍒🍒


 力斗は、特急の指定席に身を預け、目を閉じた。

 耳にはいつものように、外の雑音を遮断するためにイヤホンを着け、スマホから流れるジャズを聞く。

 学者はアイデア勝負だ。

 これまでにない発想や法則を見出だす為には、思考を止め、固定観念や雑多な情報を洗い流し、脳内をクリアーな状態に保っていることが非常に大事だ。

 なのに、こうして目を閉じると、浮かんでくるのは瑠色のことばかりで困る。

 本当に自分はどうしてしまったのか……。  

 研究や娘の存在をしのぐ勢いで、瑠色が力斗の人生の中で存在感を増していた。そして、それをとても嬉しく感じている自分を発見して驚く。

(人を想うって、良いものだな……)

力斗は、思いのままに、瑠色を想うことにした。

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