【第1章】第6話 10年振りのキス

💎前回までのあらすじ💎

【ウブで真面目一方で、夫一筋に家庭円満のために生きてきた45歳の主婦・大河瑠色(おおかわるい)は、ある日衝動的に"出会い系サイト"に登録し、複数の男たちとデートをする。そして、自分にはやはり"浮気"など向いていないのだと再認識し、元の生活に戻ろうと思った矢先に……】



       【本  文】



(結局、今日も出掛けて来ちゃった)

瑠色は、特急列車で都内へ向かっていた。

 瑠色が住むところから都内へ出るのに、特急を使う人間はほとんどいないが、彼女は時刻表や路線図を読めないし、乗り換えはたいてい間違えるから、直通電車にしか乗らない。しかも、人混みも苦手だから、指定席がある電車をいつも利用する。先日など、東京駅から大宮駅へ行くのに、新幹線に乗ったくらいだ。

 昨夜はあれから、倉松と1時間ほど電話で話した。

 昼間から夜まで、初対面にもかかわらず数時間もしゃべっていたのに、帰宅してからもあんなに話すことがあるとは思わなかったが、翌朝もこうして倉松に会いに向かっている自分に、瑠色はさらに驚いていた。

(倉松さんが、あんなに切羽詰まった声を出すから……)

昨夜は、午前0時近くなったところで、

「それでは、そろそろ寝ましょうか。眠くなってきました」

と瑠色が電話口の倉松に言ったところ、

「明日も、会えませんか?」

と訊かれたのだ。

「え、明日ですか?」

(さっきまで会っていたのに?)

と瑠色が思ったのを察したように、倉松は続けた。

「だって、明後日あさってには旦那さんが帰ってくるのでしょう?」

「はい」

「そうしたら、瑠色さんは出掛けにくくなってしまうのでしょう?」

「そうです」

すると、倉松が訴え掛けるように早口で言った。

「……すごく、会いたくなってしまったんです、貴女あなたに。すごく、会いたいです、すごく……。すみません、こんなこと言って、ご迷惑ですね」

瑠色は、倉松のストレート過ぎる言葉に、思わず微笑んだ。

「いいですよ。お会いしましょ」


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 倉松は、相変わらず学生のような格好で、昨日と同じ駅の、改札の向こうにいた。

 照れ隠しなのか、こちらをちらっとも見ずに、掲示板のポスター1枚を穴の空くほど眺めている。

「倉松さん!」

早足で改札を通り抜けた瑠色が、ポンと肩を叩くと、彼が振り向いた。

 色褪せたポロシャツの襟が内側に折れ曲がっている。

「お早うございます。まだ9時半だと、人も少なくて良いですね」

瑠色は、ごく自然に襟を直してやりながら言った。

 倉松は照れ笑いを浮かべながらも、瑠色の目を真っ直ぐ見つめた。

「すみません、早くから呼び出しちゃって。貴女と会っていると、絶対時間が足りなくなると思ったから」

「いいの、いいの」

「ご迷惑でなかったですか?」

「迷惑なら来ないです。私もまた、お話ししたかったし」

それは、嘘ではなかった。

 倉松はとにかく物知りで、ユーモアにあふれ、どんな話題でも面白おかしく広げてくれるから、瑠色の好奇心をくすぐった。

「昨日は、帰ってみたら奥さんも娘も家にいなかったのです。義兄夫婦とその子供達がうちへ遊びに来ていたのですが、皆で行楽地へ出掛けたあと、義兄の車で実家へ帰ってしまったようなのです、ウチの奥さん。ちょうど貴女が電車に乗った時に連絡のメールが来て。もっと早く分かっていれば、貴女ともっといたのに、と思いました」

改札エスカレーターを下りながら、倉松は言った。

「奥さん、実家へお帰りになるのに、事後報告なのですね。それで、いつお戻りになるのですか?」

「いつだか分かりません。10日間くらい帰っているんじゃないですか」

「まあ!いつ帰るのかも分からないのですか?それじゃ倉松さん、淋しいですね」

「いや、かえって静かだし、色々家事を言い付けられなくて、仕事がはかどって良いんですよ」

「ふ~ん……ゆうべも、洗濯物を畳んでおかないと怒られるぅ、なんておっしゃっていましたものね」

専業主婦なのに、洗濯物もそのままで突然実家へ帰り、挙げ句に、旦那がそれを畳んでおかないと怒るとは、ずいぶん良いご身分だこと、と瑠色は心の中で皮肉を言った。

(私が無断で実家へ帰ったりしたら、憲介さんの怒りを買って大変なことになるわ。世の中には、稼ぎが良い上に、奥さんを威張らせておく優しい旦那さんがいるものなのね)

「そう言えば、朝ご飯はお済みですか?」

と、例の有名な寺の仲店へ向かいながら倉松が訊いた。

「いいえ、まだです」

「私もまだなんですよ。一緒に食べますか」

「はい」

ところが、どこの店も開いていない。

「あれれ~、どこも開いてないなぁ。どうしたんだろう?そうか、まだ10時前だから、開いてないのか」

と、倉松が独りちた。

 夏の盛りの陽射しはすでに強い。

 日頃は自宅と事務所を車で往復するだけで、外を出歩くことの少ない瑠色は、ギラつく太陽のもとで20分ほど当てもなく歩くと、もう疲れてきた。

「すみません、店を調べておけば良かったな。あの大きな木の下へ入りましょう。あと10分もすれば、店も開くでしょう」

 瑠色は、そう言う倉松の後ろへ着いていく。光線にかれ、やわな肌がチリチリと痛い。

(こんなことなら、日傘を持ってくるのだった)

相手は倉松だ。他の男のように、気の利いたデート場所など考えてくるはずもなく、昨日と同じように、またあてどなく散歩することになるに違いなかった。うっかりしていた。

 瑠色が額やうなじの汗をハンカチタオルで何度も拭き取り、木に寄り掛かるようにして休んでいる間、スマホでネット検索していた倉松が、顔を上げた。

「ああ、この店が良さそうだ。モーニングをやっているみたいです」


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 そこはアメリカンスタイルの店で、50年代風のインテリアが、懐かしい温かさをかもしていた。

「うわぁ、大きい!」

ハンバーガーもサンドイッチも、アメリカンサイズで、ここ1月ほどで急激に食欲が落ちてしまった瑠色には、とても食べきれそうになかった。

「私、とても少食なので、どうぞ2/3くらい召し上がって下さい」

と、自分が口を着ける前に、ナイフとフォークを使って切り分けようとする瑠色に、倉松は言った。

「先に、貴女が食べられるだけ食べて下さい。残ったら、私が頂きますから」

「え、でも、口を着けてしまっては……」

「大丈夫、いいですよ。さあ、好きなだけ食べて。ゆっくりで良いですから。急激に痩せてしまっては、体力がなくなってしまいますよ」

 瑠色は、この盆休みに会うことにした5人には、1月に及ぶメール交換で、自分には好きなひとがいることを打ち明けていた。

 というのも、彼女は、いざサイトに登録してみると、男たちと会う勇気は出なかったから、ただ、腹の底に長年溜め込んできた本音を吐露することで、いくばくか慰めにしていた。

 ところが、それを知った上で、この5人は会いたいと強く求めてきた上、テレビマンなどは、

「その年下イケメン君に、告白した方がいい。貴女を見ていると、このままでは一生後悔すると思いますよ。

告白して上手くいっても、また僕と会って下さい。祝杯を挙げましょう。上手く行かなくても、その時は、僕との交際スタートに祝杯を挙げましょう」

と、銀座のフレンチレストランで、赤ワインが揺れるグラスを差し出し、励ましてくれさえした。

 中年女の自分が、夫以外の男にこんな風に優しくしてもらえるとは、思ってもいなかった。嬉しい、ありがたい、と素直に思う。


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「妻と娘が田舎へ行ってくれて、ちょうど良かったです」

と、ハンバーガーを口に頬張りながら倉松が言った。

「黙って行かれちゃって、良かったのですか?」

瑠色も釣られて、サンドイッチをかじる。

「別に、事前の了解なんて要らないのですよ。私にはどうでも良いのです。今に始まったことではないし。ただ、お陰で貴女とこうしてまた会うことができて、本当に良かった。

今日を逃したら、いつ会えるか分からなかったから」

(倉松さんも、私のことを気に入ってくれたのね)

とは思うのだが、それにしては、今日も相変わらずえない格好だし、デートコースも全然考えてきていないようだし、どの程度気に入ってくれているのか、いまひとつつかめない。

「そう言えば倉松さん、サイトに居るのは、不健全な目的からだって、おっしゃっていましたよね?」

「ああ、はい、そうです」

がぶりがぶりとハンバーガーに食らい付きながら、倉松はうなずいた。

「何ですか、不健全な目的って?」

果汁のオレンジ色が、ストローと瑠色の白い喉を染める。

「調査です。インタビュー調査」

「インタビュー?」

倉松は、いたずらっぽい笑顔を浮かべてうなずいた。

「ね、不健全でしょう?私は、夫婦関係の調査も長年しているのですよ、研究の一環でね」

「夫婦関係?倉松さんは、専門は産業経済学でしょう?」

「経済はなにも、企業活動だけではないのです。夫婦の在り方は、家庭の経済活動に反映し、それは当然、社会経済に表れてきます」

「それが、出会い系サイトとどう結び付くのですか?」

瑠色はいぶかしげにいた。

「経済は人に支えられています。つまり、人間の"数"は重要な要素の1つです。そして、出生数は、当然に夫婦生活に影響を受けます」

「そうすると、人の夫婦生活を知るために、出会い系サイトに登録したとおっしゃるの!?」

いま一つピンと来ない、と瑠色は疑った。

「そうです。私はある調査で、既婚男性の9割が、配偶者以外と関係したことがあることを知りました。特に、風俗店の利用者が多いことに驚いたのです。私は正直、そういう所を利用したことがなかったので、専門家のくせに、そんな実態を知らなかった自分が情けなくなりました。それで、少々落ち込んでいたら、同僚の研究者が、夫婦の実態を知るのに最適な所があるよと、3年前に教えてくれたのです」

「なるほど、それが出会い系サイトだったのですね。それで、インタビュー調査はできたのですか?」

「ええ。まあ、調査と言うほど大規模にはできませんが、普通の対面アンケート調査より突っ込んでインタビューできますからね」

「でも、よくインタビューに応じてくれる人がいますね」

と瑠色が言うと、倉松は彼女を見つめて、意味ありげに微笑んだ。

「……え?私?もしかして私、インタビュー調査されているの?」

倉松は、ハハハと笑った。

(ハハハじゃないわよ)

瑠色はどおりでと、納得しながらもムッとしないでもなかった。

「まあ、調査っていうほど、仰々しいものではありませんよ。ただ、私が頼まなくても、けっこう女性から会いたいと誘ってくれるので、応じてお話を聴くという感じです。

でも、圧倒的に数が足りません。それに、精神的に病んでいる人も少なくなくて、会うと結構疲れます。その割には研究に生かせる程データを取れない。だから、そろそろ退会しようと思っていたのです」

「そうだったのですか。私も病んでいる年増の1人ね」

どこまで本当なのかしらと思いながら、瑠色は自嘲じちょう気味に言った。

(格好つけて、調査だなんて言っているだけではないかしら。もうすでに何人かと浮気しているのかも知れないわ。草食系な顔して、喰えない男)

 しかし、昨夜、彼が専任で勤めていると言う大学のホームページを調べたら、確かに経済学部の准教授として、顔写真付きで載っていたから、少なくとも学者であることは間違いないようだ。

「貴女は病んではいませんよ。かなりストレスは溜まっているようですがね。それに、"年増"でもない」

「そうですか?」

瑠色は"年増"ではないと言われ、ニッコリした。そう言ってもらいたかったのだ。

「貴女の年齢だと、"大年増"と言いますね」

「へ?」

彼女は耳を疑った。

「"年増"というのは、江戸時代の単語で、20はたち位の女性を指します。それから30前までを"中年増"、それ以上を"大年増"と言ったのです」

あまりの言葉に開いた口がふさがらない瑠色だったが、倉松に悪気はないらしい。

「そうですか。私は大年増ね。大年増がサイトにハマっている訳か……」

「"大年増"が気に入らなければ、"姥桜うばざくら"という言い方もありますよ」

「はあ……」

何のフォローにもなっていないが、倉松は澄ました顔で続けた。

「貴女の年齢の女性は、恋をしたいと望む人が結構多いですよ。閉経が近付き、女性ホルモンが減っていくのを前にして、焦るのでしょう」

重ね重ねあんまりな言いようではないか。いくら自分を女として見ていないからと言って、失礼にも程がある。瑠色は腹が立ってきた。

「女性ホルモンが減り出した大年増が、焦って出会い系サイトに登録した訳ですね。我ながら情けないと思っていますよーだ」

瑠色はムッとすると、頬をぷくっと膨らませる癖がある。

 そんな彼女の顔を、倉松はおかしそうに見やって言った。

「貴女のことを言っている訳ではありませんよ。一般論です」

倉松の物言いは淡々としていて、ただ、事実を話しているだけなのだと判る。

 瑠色は、フグのように膨らませた頬を元に戻した。


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「はぁ……やっぱり、こんなに残してしまったわ。お行儀が悪くてご免なさい。以前はこれくらい食べられたのに」

瑠色は、サンドイッチとフライドポテトが大分残っている自分の皿を見て、残念そうにため息をついた。

 最近はすっかり胃が小さくなったのか、少し口を付けると、それ以上はどうしても食事が喉を通らない。

「いいですよ、無理しなくて」

そう言うと、倉松は残った大サイズのサンドイッチに手を伸ばした。

 瑠色は、自分の食べかけ部分をナイフで切り取ろうとしたのだが、彼は構わず、彼女の歯形が着いたところから口に入れてしまった。

 そんな彼の口元を見て、瑠色は少々どぎまぎした。


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 外に出ると、アスファルトの熱気が、ストラップサンダルの底からじりじりと伝わってくる。

 今日の瑠色は、ZARAのブルーの肩ひもロングワンピースを涼しげにまとっていた。

 大胆に露出した、染み1つない白い肩と胸元が、鮮やかな花柄に映えるが、上にサマーカーディガンをはおって露出を抑え、上品に着こなしていた。

 この炎天下ではさすがに散策もはばかられ、2人はカフェを何軒かはしごして回った。

 倉松は、メールだけのやり取りをしている間は、瑠色のプライベートなことにほとんど関心を示さなかったが、昨日から今日にかけては、彼女の3年半に及ぶ片想いの話や、不平不満や愚痴-ほとんどが憲介に対するものだが-に良く耳を傾け、時おり、控え目な意見を述べた。

 他の男性は、瑠色と一緒になって憲介を責め、最後には、「旦那さんを怖がる必要はない」とか「嫌なものは嫌だと言うべきだ」と瑠色の言動を改めるよう助言したり、「とりあえず不倫して気分転換しよう」というような事を言ったりしたが、どれも、それが出来たら悩まないのにと思うことばかりだった。

 しかし倉松は、憲介の悪口には同調しないが、その代わりに、「それは辛いですね」「それでは苦しいですよね」と、瑠色のしんどい気持ちを、ただ受け止め、解ろうとしてくれた。それが瑠色には、ホッとできた。

 今の瑠色には、憲介に対する態度を改めよという助言や、くじけず頑張れという励ましは、弱気になるのを許してもらえない気がして、さらに辛いのだった。

「大分ストレスが溜まっているようですね。人は、"内側"つまり"心"と、"外側"つまり"言動"が不一致を起こしていると、苦しいんですよ。なるべく一致させた方が良いですよ」

と、倉松は言った。

「一致させるって?」

「貴女は、旦那さんを怖がって、敬遠している。でも表面的には、旦那さんに合わせて、上手くいっている風に振る舞っている。内側と外側が正反対に解離かいりしている。

内と外を一致させるには、五感にフォーカスすると良いんですよ。

例えば私は、お風呂に入るとリラックスできます。それは、外側つまり肉体の感覚と、内側つまり心の感覚が、『気持ち好い』で一致するからです」

「でも、お風呂に入っている時でも、夫が何時に帰ってくるのかすごく気になります。夫は連絡をくれないので、何時に帰ってくるのか、外食してくるのかも判らず、私はいつも時間を気にしながらお風呂に入るのですが、そんな時に夫が帰ってきて、ご飯をサッと用意してあげられないと、すごく不機嫌になります。だから気が気ではなくて、ゆっくりかっていられないのです。

私は、週に2日は仕事が休みですが、家にいても、夫に急に事務所へ呼び出されることもよくあって、そんな時はたいてい何か怒られるか、急な用事を言い付けられるので、夫と離れていても常に待機状態で、気が休まりません」

「う~ん……それは重症ですねぇ」

倉松はあわれれむような表情をした。

「せめて今日は、愉しく過ごしましょう」

「そうですね。でも、そろそろ帰らないといけないです。実家の母が、息子を送り届けにくるので」

スマホの時刻表示を見ると、夕方4時近かった。

「えっ、もうそんな時間ですか!?早い、早すぎる……」

倉松は驚きの表情で自分のスマホを見た。

「……駅まで送りますよ」

声のトーンが急に落ちる。

「ありがとうございます」

瑠色は、もうこれでしばらく倉松に会えないのかと思うと、残念だった。

 2人はカフェを出ると、人混みの中を駅へ向かって黙々と歩いた。

 先ほどまで、はしゃぐように饒舌じょうぜつだった倉松が、うつむき加減で、黙りこくっている。

「あと10分くらいで、ちょうど特急が来ます」

駅構内に入り、電光時刻表示板を見上げて、瑠色が言った。

「間に合って良かった」

そういう倉松の顔に、笑顔はない。

 瑠色は券売機から戻ると、

「切符、買いました」

と言った。

「そうですか。では、これでお別れですね」

倉松は笑顔を作ってはみたが、どこか硬い。

「私、次の特急に乗ることにしました。これ、次の切符です。もう1時間くらい居られます」

「えっ、本当に?」

まるで諦めていたオモチャを買ってもらえた時の子供のように、倉松が顔を輝かせた。

「どうして?大丈夫なのですか?」

「母には、少し遅くなるって、メールしておきます。倉松さんと、もう少しお話ししたいから……」

「そうですかあ。どこに行きます?喫茶店ばかりじゃ、水っ腹になっちゃういますよね……」

倉松の声が弾む。

「カラオケ」

と瑠色が言った。

「え?」

「カラオケに行きましょ。今日は愉しく過ごしたいのですもの。私、カラオケが好きなんです。歌うと、内と外が一致できるもの」

「それは大変良いことですが、私は歌えないですからね」

「ダメよぉ。倉松さんも歌って下さらないといけませんよ」

瑠色は倉松の背中を押して促すと、駅近くのカラオケ屋に向かって張り切って歩き出した。

「いや、ダメです、ダメです。カラオケ屋なんて、人生で1度しか行ったことがないのですから。しかも、その時も歌ってませんから、事実上、カラオケで歌ったことは1度もないのです」

「では、今日が人生初カラオケになるのね」

「いや、ほんとダメですから。恥ずかしいですから。裸躍りなら見せられますが、歌を歌うのは勘弁……」

とやり合っている内に、カラオケ屋に着いた。

 後で考えてみると、出会い系サイトで知り合い、2回目のデートで個室のカラオケ屋に男を誘い込むなんて、警戒心が無さすぎたかも知れない、と瑠色は思った。

 しかし倉松は、瑠色に好感を持っていることを隠しはしなかったが、かといって、例の他の3人の男たちのように口説いてくる訳でもなく、指1本触れてもこず、ただひたすら会話を愉しんでいるだけで、好い茶飲み友達の様相をていしていたから、瑠色も警戒心の湧きようがなかったのだ。

 彼女は狭い個室へ先に入っていくと、L字型ソファの奥、カラオケ機器の近くに座り、倉松はドア付近に座った。

 瑠色は早速リモコンをいじり、曲を入れた。

 彼女の声は高く、よく通る上、同じくカラオケ好きの憲介に付き合って時々歌っているから、上手い方だ。

 一方倉松は、いかにも不馴れな様子で、手拍子する訳でもなく、両膝にひじをついて、前屈まえかがみになってじっと聞いている。

「はい、倉松さん、次は歌ってね。私、少し休みたいですから」

すっかり好い気分で3曲続けて歌い終えると、瑠色はカーディガンを脱いで、汗ばんだ襟足や首もとをハンカチで拭いた。外気が熱すぎて、冷房の効きが悪い。

「いや、私は本当に歌えませんから。だいたい、曲をあまり知らないし」

「音楽、聴かないの?」

「いや、よく聴きますけれど、英語の歌ばかりなんですよ」

「英語の曲も入っているから、大丈夫よ。ほらほら、ここから選んで下さい。私が入れてあげますから」

と、瑠色がリモコンを手に持った。

「えぇぇ……困ったなあ。じゃあ、1曲だけ」

倉松が選んだ曲は、瑠色が知らないものだった。

(知らない方が良いわ。きっと、よほど音痴なのでしょうから、音程を外しても判らないような曲が良いのよ。でないと、笑っちゃったりしたら、失礼してしまうもの)

そんなことを考えながら、瑠色はリモコンを操作して曲を入れてやり、マイクを渡した。

 イントロが始まり、倉松が観念したようにマイクを握る。 

 瑠色は、第一声から音程を外されても吹き出さないようにしなくちゃと、表情筋に少し力を入れた。

 倉松が歌い出す。1小節、2小節……。

(え……上手じゃない!)

瑠色はまじまじと倉松を見た。

 力みもなく、サビもやたらと張り上げたりせず程よく抑制を効かせている。裏声の出し方もきれいだ。少しハスキーな声音こわねで、程よく力を抜いたこなれた歌い方は、カラオケが上手いと言うよりも、

(プロみたい……!)

と、瑠色は思わず聞き入った。

 曲が終わると、

「いやぁ、恥ずかしかったなあ……」

と倉松が頬を赤らめ、苦笑しつつマイクを置いた。

「倉松さん、人が悪いわ。すごく上手じゃない!」

こんなに歌の上手い人間の前で、いい気になって3曲も声を張り上げていた自分が恥ずかしくなってきた。

「とても歌い慣れているのね。カラオケで歌うのは初めてなんて、嘘ばっかりなんだから」

「いや、嘘ではないですよ。カラオケで歌うのは今日が初めてです」

「うそ、うそ。こんなに上手くて、歌ったことがないなんて、信じられない」

「いや、歌ったことはありますよ、バンドで。でもカラオケでは、ないです。カラオケって、距離が近すぎて恥ずかしいんですよね」

「へ?バンド?倉松さん、バンドをやっていたの?」

瑠色は、黒目がちの目をさらに大きくして言った。

「ええ、高校のときから数年前まで。時々友達とライブハウスでっていましたが、子供が生まれてからは、ずっと演っていません」

「ちょっ……なによ、バリバリに歌っていたんじゃない」

「いや、ドラムスですから、歌ったのは時々ですよ」

「うそ。それだけなはずないわ」

「う~ん……まあ、高校時代は、親友と2人でギターの弾き語りをやっていましたが」

「映画クラブ立ち上げて、ギターの弾き語りもやっていたの?」

「まあ、勉強もせずに、好きなことばかり幾つもやってましたね」

勉強ばかりしてきたのだろうと思っていたが、どうもそうではないらしい。

 そこへ、店員が苺のかき氷を運んできた。

 2人とも水っ腹で、これ以上何も口に入れたくなかったのだが、最低1つは注文してくれと店が言うものだから、仕方なくこれだけ頼んだのだ。

「先に召し上がって下さい」

と言われ、瑠色は氷をつついて2口ほど口に入れると、倉松の前へ置いた。倉松も、2口、3口、口へ放り込むと、瑠色の前へ戻した。そうして交互に食べている内に、いつの間にか2人で1つのかき氷をつつき合っていた。


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 倉松は、今日は昨日よりさらにカジュアルに短パンをはいていたが、ぬっと出た足のふくらはぎの太さが目立つ。

「倉松さん、何かスポーツもやっていました?」

「ええ、友達に頼まれて、ラグビー部も掛け持ちしていました。でも、大学に入ってからは勉強ばかりで、スポーツはやってないから、体が生っていけませんね。娘にお馬さんをやってやったり、プールに入れてやるくらいしか、体を動かさないからなぁ」

「娘さん、まだ5歳なのですよね。可愛いでしょう」

「ええ、可愛いですよ。写真、見ます?」

他人の子供の顔に興味はないが、見たくないとも言えず、

「ああ、はい」

と応えると、倉松は年季の入ったブルーのスポーツリュックからスマホを取り出し、画像を探し出すと、瑠色に見せた。

 そこには、倉松に良く似た、丸顔で丸々した体つきの娘と、スラリと細身の色白な若い女が映っていた。

「これ……奥さんですか?」

「そうですよ」

倉松が屈託なく答える。

 先日マレーシアの学会へ出掛けた時の写真だろうか。リゾートホテルのロビーで、おどける娘とは対照的に、女は華やかな柄のワンピースに大きいつばの帽子をかぶり、まるでモデルのように澄まして立っている。

「綺麗な奥様ですね」

十以上若い上に美人ときている。自信に満ちた顔つきは、傲慢ごうまんさを感じさせた。

「そうかな」

倉松が、微笑ほほえんだ。

(なぁんだ、自慢の奥さんなのね)

美人の妻と可愛い娘を見せびらかしたかったのか。

 このひとは、自分に好感を持ってくれてはいるようだが、やはり女として意識している訳ではないのだと、瑠色は改めてわかった。

 とその時、ドア近くの壁に備え付けられた電話器がプルルルッ、プルルルッと、けたたましく鳴った。倉松は受話器を取ると、 

「はい……はい、分かりました」

と答えてから受話器を置き、「はあっ……」と大きくため息をついて壁に手をつくと、肩を落とした。

 ずいぶん大げさなジェスチャアだと思うが、本人はいたって真面目なのがおかしく、瑠色はクスリと笑った。

「どうしたの、倉松さん?そんなにガッカリして」

「あと10分で時間だそうです」

倉松が、泣きべそをかくような顔をした。

「もう1時間も経ったのですね」

倉松といると、飛ぶように時間が過ぎる。

「貴女といると、時間が経つのが早すぎます」

「そうですね、本当に。でも、またその内会えますよ」

そう言うと瑠色は、バッグと、脱いだカーディガンを手に持って立ち上がり、ドアへ行こうと足を踏み出して、倉松が立つのを待った。

 ところが、片方の腕を強く下へ引っ張られて、倉松の隣に座り込んでしまった。瑠色は、倉松に抱きすくめられていた。

「倉松さん……」

予想外のことに、かすれ声しか出てこない。

 胴にしっかと回された両腕と、合わさる胸から、倉松の必死さが伝わり、瑠色は何やらいとおしい気持ちが込み上げてきて、自分も倉松の背中におずおずと手を回した。

 すると、一瞬体を離した倉松が、顔を近付けてきた。瑠色は目を閉じた。

 10年ぶりのキスだった。

 そっと舌が侵入してきたのには少々面喰らったが、嫌ではなかった。不思議なくらい、ちっとも嫌ではなかった。

 倉松は、瑠色の透き通る様な白いうなじや胸元に、遠慮がちに唇を当てた。

(気持ちいい)

瑠色は思わず、倉松の背中に指を立てた。

 初めて会ってから12時間ほどしか一緒に過ごしていない男に、突然こんなことをされていながら、心地好く身を任せている自分が信じられなかった。

 倉松は、再び瑠色の唇を丁寧に吸うと、片方の手を彼女の背から胸に移し、ワンピースの薄い生地の上から優しく揉んだ。

「あっ……」

思わず洩れる自分の声に、自分で恥ずかしくなる。

 瑠色は、全身の力が抜けていくのを心地好く感じていた。

 倉松は、何か自信を得たように、瑠色の額、鼻先、頬、唇、うなじ、肩、胸元と、およそ肌が出ているところ全てに口付けし、手を胸から下腹、太腿へと滑らせていく。

「あっ……あっ……」

と洩れる声をさえぎるように、彼は何度も、瑠色の唇に自分のそれを強く重ねた。

「もう……部屋を出ないと……」

瑠色はやっとのことでそう言った。

「ああ、そうでした」

倉松も我に返ったように、ようやく体を離した。

 2人は個室を出てエレベーターに乗り、1階へ向かった。

 倉松はドアへ向き、その後ろに瑠色が立って、2人して黙りこくっている。

(憲介さんが帰ってきたら、しばらく逢いにくくなるわ)

と瑠色は考えていた。倉松も、同じことを考えているようだった。

 エレベーターは3階から2階を通過し、1階へ差し掛かる。2人きりの時間も、これでおしまいだ。

 ドアが開く直前、倉松はくるりと瑠色を振り返ると、素早くキスをして、エレベーターを降りた。









 

 

 




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