【第1章】第6話 10年振りのキス
💎前回までのあらすじ💎
【ウブで真面目一方で、夫一筋に家庭円満のために生きてきた45歳の主婦・大河瑠色(おおかわるい)は、ある日衝動的に"出会い系サイト"に登録し、複数の男たちとデートをする。そして、自分にはやはり"浮気"など向いていないのだと再認識し、元の生活に戻ろうと思った矢先に……】
【本 文】
(結局、今日も出掛けて来ちゃった)
瑠色は、特急列車で都内へ向かっていた。
瑠色が住むところから都内へ出るのに、特急を使う人間はほとんどいないが、彼女は時刻表や路線図を読めないし、乗り換えはたいてい間違えるから、直通電車にしか乗らない。しかも、人混みも苦手だから、指定席がある電車をいつも利用する。先日など、東京駅から大宮駅へ行くのに、新幹線に乗ったくらいだ。
昨夜はあれから、倉松と1時間ほど電話で話した。
昼間から夜まで、初対面にもかかわらず数時間もしゃべっていたのに、帰宅してからもあんなに話すことがあるとは思わなかったが、翌朝もこうして倉松に会いに向かっている自分に、瑠色はさらに驚いていた。
(倉松さんが、あんなに切羽詰まった声を出すから……)
昨夜は、午前0時近くなったところで、
「それでは、そろそろ寝ましょうか。眠くなってきました」
と瑠色が電話口の倉松に言ったところ、
「明日も、会えませんか?」
と訊かれたのだ。
「え、明日ですか?」
(さっきまで会っていたのに?)
と瑠色が思ったのを察したように、倉松は続けた。
「だって、
「はい」
「そうしたら、瑠色さんは出掛けにくくなってしまうのでしょう?」
「そうです」
すると、倉松が訴え掛けるように早口で言った。
「……すごく、会いたくなってしまったんです、
瑠色は、倉松のストレート過ぎる言葉に、思わず微笑んだ。
「いいですよ。お会いしましょ」
🍒🍒🍒🍒🍒🍒🍒🍒🍒🍒
倉松は、相変わらず学生のような格好で、昨日と同じ駅の、改札の向こうにいた。
照れ隠しなのか、こちらをちらっとも見ずに、掲示板のポスター1枚を穴の空くほど眺めている。
「倉松さん!」
早足で改札を通り抜けた瑠色が、ポンと肩を叩くと、彼が振り向いた。
色褪せたポロシャツの襟が内側に折れ曲がっている。
「お早うございます。まだ9時半だと、人も少なくて良いですね」
瑠色は、ごく自然に襟を直してやりながら言った。
倉松は照れ笑いを浮かべながらも、瑠色の目を真っ直ぐ見つめた。
「すみません、早くから呼び出しちゃって。貴女と会っていると、絶対時間が足りなくなると思ったから」
「いいの、いいの」
「ご迷惑でなかったですか?」
「迷惑なら来ないです。私もまた、お話ししたかったし」
それは、嘘ではなかった。
倉松はとにかく物知りで、ユーモアにあふれ、どんな話題でも面白おかしく広げてくれるから、瑠色の好奇心をくすぐった。
「昨日は、帰ってみたら奥さんも娘も家にいなかったのです。義兄夫婦とその子供達が
改札エスカレーターを下りながら、倉松は言った。
「奥さん、実家へお帰りになるのに、事後報告なのですね。それで、いつお戻りになるのですか?」
「いつだか分かりません。10日間くらい帰っているんじゃないですか」
「まあ!いつ帰るのかも分からないのですか?それじゃ倉松さん、淋しいですね」
「いや、かえって静かだし、色々家事を言い付けられなくて、仕事がはかどって良いんですよ」
「ふ~ん……ゆうべも、洗濯物を畳んでおかないと怒られるぅ、なんておっしゃっていましたものね」
専業主婦なのに、洗濯物もそのままで突然実家へ帰り、挙げ句に、旦那がそれを畳んでおかないと怒るとは、ずいぶん良いご身分だこと、と瑠色は心の中で皮肉を言った。
(私が無断で実家へ帰ったりしたら、憲介さんの怒りを買って大変なことになるわ。世の中には、稼ぎが良い上に、奥さんを威張らせておく優しい旦那さんがいるものなのね)
「そう言えば、朝ご飯はお済みですか?」
と、例の有名な寺の仲店へ向かいながら倉松が訊いた。
「いいえ、まだです」
「私もまだなんですよ。一緒に食べますか」
「はい」
ところが、どこの店も開いていない。
「あれれ~、どこも開いてないなぁ。どうしたんだろう?そうか、まだ10時前だから、開いてないのか」
と、倉松が独り
夏の盛りの陽射しはすでに強い。
日頃は自宅と事務所を車で往復するだけで、外を出歩くことの少ない瑠色は、ギラつく太陽の
「すみません、店を調べておけば良かったな。あの大きな木の下へ入りましょう。あと10分もすれば、店も開くでしょう」
瑠色は、そう言う倉松の後ろへ着いていく。光線に
(こんなことなら、日傘を持ってくるのだった)
相手は倉松だ。他の男のように、気の利いたデート場所など考えてくるはずもなく、昨日と同じように、またあてどなく散歩することになるに違いなかった。うっかりしていた。
瑠色が額やうなじの汗をハンカチタオルで何度も拭き取り、木に寄り掛かるようにして休んでいる間、スマホでネット検索していた倉松が、顔を上げた。
「ああ、この店が良さそうだ。モーニングをやっているみたいです」
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そこはアメリカンスタイルの店で、50年代風のインテリアが、懐かしい温かさを
「うわぁ、大きい!」
ハンバーガーもサンドイッチも、アメリカンサイズで、ここ1月ほどで急激に食欲が落ちてしまった瑠色には、とても食べきれそうになかった。
「私、とても少食なので、どうぞ2/3くらい召し上がって下さい」
と、自分が口を着ける前に、ナイフとフォークを使って切り分けようとする瑠色に、倉松は言った。
「先に、貴女が食べられるだけ食べて下さい。残ったら、私が頂きますから」
「え、でも、口を着けてしまっては……」
「大丈夫、いいですよ。さあ、好きなだけ食べて。ゆっくりで良いですから。急激に痩せてしまっては、体力がなくなってしまいますよ」
瑠色は、この盆休みに会うことにした5人には、1月に及ぶメール交換で、自分には好きな
というのも、彼女は、いざサイトに登録してみると、男たちと会う勇気は出なかったから、ただ、腹の底に長年溜め込んできた本音を吐露することで、
ところが、それを知った上で、この5人は会いたいと強く求めてきた上、テレビマンなどは、
「その年下イケメン君に、告白した方がいい。貴女を見ていると、このままでは一生後悔すると思いますよ。
告白して上手くいっても、また僕と会って下さい。祝杯を挙げましょう。上手く行かなくても、その時は、僕との交際スタートに祝杯を挙げましょう」
と、銀座のフレンチレストランで、赤ワインが揺れるグラスを差し出し、励ましてくれさえした。
中年女の自分が、夫以外の男にこんな風に優しくしてもらえるとは、思ってもいなかった。嬉しい、ありがたい、と素直に思う。
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「妻と娘が田舎へ行ってくれて、ちょうど良かったです」
と、ハンバーガーを口に頬張りながら倉松が言った。
「黙って行かれちゃって、良かったのですか?」
瑠色も釣られて、サンドイッチをかじる。
「別に、事前の了解なんて要らないのですよ。私にはどうでも良いのです。今に始まったことではないし。ただ、お陰で貴女とこうしてまた会うことができて、本当に良かった。
今日を逃したら、いつ会えるか分からなかったから」
(倉松さんも、私のことを気に入ってくれたのね)
とは思うのだが、それにしては、今日も相変わらず
「そう言えば倉松さん、サイトに居るのは、不健全な目的からだって、おっしゃっていましたよね?」
「ああ、はい、そうです」
がぶりがぶりとハンバーガーに食らい付きながら、倉松はうなずいた。
「何ですか、不健全な目的って?」
果汁のオレンジ色が、ストローと瑠色の白い喉を染める。
「調査です。インタビュー調査」
「インタビュー?」
倉松は、いたずらっぽい笑顔を浮かべてうなずいた。
「ね、不健全でしょう?私は、夫婦関係の調査も長年しているのですよ、研究の一環でね」
「夫婦関係?倉松さんは、専門は産業経済学でしょう?」
「経済はなにも、企業活動だけではないのです。夫婦の在り方は、家庭の経済活動に反映し、それは当然、社会経済に表れてきます」
「それが、出会い系サイトとどう結び付くのですか?」
瑠色はいぶかしげに
「経済は人に支えられています。つまり、人間の"数"は重要な要素の1つです。そして、出生数は、当然に夫婦生活に影響を受けます」
「そうすると、人の夫婦生活を知るために、出会い系サイトに登録したとおっしゃるの!?」
いま一つピンと来ない、と瑠色は疑った。
「そうです。私はある調査で、既婚男性の9割が、配偶者以外と関係したことがあることを知りました。特に、風俗店の利用者が多いことに驚いたのです。私は正直、そういう所を利用したことがなかったので、専門家のくせに、そんな実態を知らなかった自分が情けなくなりました。それで、少々落ち込んでいたら、同僚の研究者が、夫婦の実態を知るのに最適な所があるよと、3年前に教えてくれたのです」
「なるほど、それが出会い系サイトだったのですね。それで、インタビュー調査はできたのですか?」
「ええ。まあ、調査と言うほど大規模にはできませんが、普通の対面アンケート調査より突っ込んでインタビューできますからね」
「でも、よくインタビューに応じてくれる人がいますね」
と瑠色が言うと、倉松は彼女を見つめて、意味ありげに微笑んだ。
「……え?私?もしかして私、インタビュー調査されているの?」
倉松は、ハハハと笑った。
(ハハハじゃないわよ)
瑠色はどおりでと、納得しながらもムッとしないでもなかった。
「まあ、調査っていうほど、仰々しいものではありませんよ。ただ、私が頼まなくても、けっこう女性から会いたいと誘ってくれるので、応じてお話を聴くという感じです。
でも、圧倒的に数が足りません。それに、精神的に病んでいる人も少なくなくて、会うと結構疲れます。その割には研究に生かせる程データを取れない。だから、そろそろ退会しようと思っていたのです」
「そうだったのですか。私も病んでいる年増の1人ね」
どこまで本当なのかしらと思いながら、瑠色は
(格好つけて、調査だなんて言っているだけではないかしら。もうすでに何人かと浮気しているのかも知れないわ。草食系な顔して、喰えない男)
しかし、昨夜、彼が専任で勤めていると言う大学のホームページを調べたら、確かに経済学部の准教授として、顔写真付きで載っていたから、少なくとも学者であることは間違いないようだ。
「貴女は病んではいませんよ。かなりストレスは溜まっているようですがね。それに、"年増"でもない」
「そうですか?」
瑠色は"年増"ではないと言われ、ニッコリした。そう言ってもらいたかったのだ。
「貴女の年齢だと、"大年増"と言いますね」
「へ?」
彼女は耳を疑った。
「"年増"というのは、江戸時代の単語で、20
あまりの言葉に開いた口がふさがらない瑠色だったが、倉松に悪気はないらしい。
「そうですか。私は大年増ね。大年増がサイトにハマっている訳か……」
「"大年増"が気に入らなければ、"
「はあ……」
何のフォローにもなっていないが、倉松は澄ました顔で続けた。
「貴女の年齢の女性は、恋をしたいと望む人が結構多いですよ。閉経が近付き、女性ホルモンが減っていくのを前にして、焦るのでしょう」
重ね重ねあんまりな言いようではないか。いくら自分を女として見ていないからと言って、失礼にも程がある。瑠色は腹が立ってきた。
「女性ホルモンが減り出した大年増が、焦って出会い系サイトに登録した訳ですね。我ながら情けないと思っていますよーだ」
瑠色はムッとすると、頬をぷくっと膨らませる癖がある。
そんな彼女の顔を、倉松はおかしそうに見やって言った。
「貴女のことを言っている訳ではありませんよ。一般論です」
倉松の物言いは淡々としていて、ただ、事実を話しているだけなのだと判る。
瑠色は、フグのように膨らませた頬を元に戻した。
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「はぁ……やっぱり、こんなに残してしまったわ。お行儀が悪くてご免なさい。以前はこれくらい食べられたのに」
瑠色は、サンドイッチとフライドポテトが大分残っている自分の皿を見て、残念そうにため息をついた。
最近はすっかり胃が小さくなったのか、少し口を付けると、それ以上はどうしても食事が喉を通らない。
「いいですよ、無理しなくて」
そう言うと、倉松は残った大サイズのサンドイッチに手を伸ばした。
瑠色は、自分の食べかけ部分をナイフで切り取ろうとしたのだが、彼は構わず、彼女の歯形が着いたところから口に入れてしまった。
そんな彼の口元を見て、瑠色は少々どぎまぎした。
🍈🍈🍈🍈🍈🍈🍈🍈🍈🍈
外に出ると、アスファルトの熱気が、ストラップサンダルの底からじりじりと伝わってくる。
今日の瑠色は、ZARAのブルーの肩ひもロングワンピースを涼しげにまとっていた。
大胆に露出した、染み1つない白い肩と胸元が、鮮やかな花柄に映えるが、上にサマーカーディガンをはおって露出を抑え、上品に着こなしていた。
この炎天下ではさすがに散策もはばかられ、2人はカフェを何軒かはしごして回った。
倉松は、メールだけのやり取りをしている間は、瑠色のプライベートなことに
他の男性は、瑠色と一緒になって憲介を責め、最後には、「旦那さんを怖がる必要はない」とか「嫌なものは嫌だと言うべきだ」と瑠色の言動を改めるよう助言したり、「とりあえず不倫して気分転換しよう」というような事を言ったりしたが、どれも、それが出来たら悩まないのにと思うことばかりだった。
しかし倉松は、憲介の悪口には同調しないが、その代わりに、「それは辛いですね」「それでは苦しいですよね」と、瑠色のしんどい気持ちを、ただ受け止め、解ろうとしてくれた。それが瑠色には、ホッとできた。
今の瑠色には、憲介に対する態度を改めよという助言や、くじけず頑張れという励ましは、弱気になるのを許してもらえない気がして、さらに辛いのだった。
「大分ストレスが溜まっているようですね。人は、"内側"つまり"心"と、"外側"つまり"言動"が不一致を起こしていると、苦しいんですよ。なるべく一致させた方が良いですよ」
と、倉松は言った。
「一致させるって?」
「貴女は、旦那さんを怖がって、敬遠している。でも表面的には、旦那さんに合わせて、上手くいっている風に振る舞っている。内側と外側が正反対に
内と外を一致させるには、五感にフォーカスすると良いんですよ。
例えば私は、お風呂に入るとリラックスできます。それは、外側つまり肉体の感覚と、内側つまり心の感覚が、『気持ち好い』で一致するからです」
「でも、お風呂に入っている時でも、夫が何時に帰ってくるのかすごく気になります。夫は連絡をくれないので、何時に帰ってくるのか、外食してくるのかも判らず、私はいつも時間を気にしながらお風呂に入るのですが、そんな時に夫が帰ってきて、ご飯をサッと用意してあげられないと、すごく不機嫌になります。だから気が気ではなくて、ゆっくり
私は、週に2日は仕事が休みですが、家にいても、夫に急に事務所へ呼び出されることもよくあって、そんな時はたいてい何か怒られるか、急な用事を言い付けられるので、夫と離れていても常に待機状態で、気が休まりません」
「う~ん……それは重症ですねぇ」
倉松は
「せめて今日は、愉しく過ごしましょう」
「そうですね。でも、そろそろ帰らないといけないです。実家の母が、息子を送り届けにくるので」
スマホの時刻表示を見ると、夕方4時近かった。
「えっ、もうそんな時間ですか!?早い、早すぎる……」
倉松は驚きの表情で自分のスマホを見た。
「……駅まで送りますよ」
声のトーンが急に落ちる。
「ありがとうございます」
瑠色は、もうこれでしばらく倉松に会えないのかと思うと、残念だった。
2人はカフェを出ると、人混みの中を駅へ向かって黙々と歩いた。
先ほどまで、はしゃぐように
「あと10分くらいで、ちょうど特急が来ます」
駅構内に入り、電光時刻表示板を見上げて、瑠色が言った。
「間に合って良かった」
そういう倉松の顔に、笑顔はない。
瑠色は券売機から戻ると、
「切符、買いました」
と言った。
「そうですか。では、これでお別れですね」
倉松は笑顔を作ってはみたが、どこか硬い。
「私、次の特急に乗ることにしました。これ、次の切符です。もう1時間くらい居られます」
「えっ、本当に?」
まるで諦めていたオモチャを買ってもらえた時の子供のように、倉松が顔を輝かせた。
「どうして?大丈夫なのですか?」
「母には、少し遅くなるって、メールしておきます。倉松さんと、もう少しお話ししたいから……」
「そうですかあ。どこに行きます?喫茶店ばかりじゃ、水っ腹になっちゃういますよね……」
倉松の声が弾む。
「カラオケ」
と瑠色が言った。
「え?」
「カラオケに行きましょ。今日は愉しく過ごしたいのですもの。私、カラオケが好きなんです。歌うと、内と外が一致できるもの」
「それは大変良いことですが、私は歌えないですからね」
「ダメよぉ。倉松さんも歌って下さらないといけませんよ」
瑠色は倉松の背中を押して促すと、駅近くのカラオケ屋に向かって張り切って歩き出した。
「いや、ダメです、ダメです。カラオケ屋なんて、人生で1度しか行ったことがないのですから。しかも、その時も歌ってませんから、事実上、カラオケで歌ったことは1度もないのです」
「では、今日が人生初カラオケになるのね」
「いや、ほんとダメですから。恥ずかしいですから。裸躍りなら見せられますが、歌を歌うのは勘弁……」
とやり合っている内に、カラオケ屋に着いた。
後で考えてみると、出会い系サイトで知り合い、2回目のデートで個室のカラオケ屋に男を誘い込むなんて、警戒心が無さすぎたかも知れない、と瑠色は思った。
しかし倉松は、瑠色に好感を持っていることを隠しはしなかったが、かといって、例の他の3人の男たちのように口説いてくる訳でもなく、指1本触れてもこず、ただひたすら会話を愉しんでいるだけで、好い茶飲み友達の様相を
彼女は狭い個室へ先に入っていくと、L字型ソファの奥、カラオケ機器の近くに座り、倉松はドア付近に座った。
瑠色は早速リモコンをいじり、曲を入れた。
彼女の声は高く、よく通る上、同じくカラオケ好きの憲介に付き合って時々歌っているから、上手い方だ。
一方倉松は、いかにも不馴れな様子で、手拍子する訳でもなく、両膝に
「はい、倉松さん、次は歌ってね。私、少し休みたいですから」
すっかり好い気分で3曲続けて歌い終えると、瑠色はカーディガンを脱いで、汗ばんだ襟足や首もとをハンカチで拭いた。外気が熱すぎて、冷房の効きが悪い。
「いや、私は本当に歌えませんから。だいたい、曲をあまり知らないし」
「音楽、聴かないの?」
「いや、よく聴きますけれど、英語の歌ばかりなんですよ」
「英語の曲も入っているから、大丈夫よ。ほらほら、ここから選んで下さい。私が入れてあげますから」
と、瑠色がリモコンを手に持った。
「えぇぇ……困ったなあ。じゃあ、1曲だけ」
倉松が選んだ曲は、瑠色が知らないものだった。
(知らない方が良いわ。きっと、よほど音痴なのでしょうから、音程を外しても判らないような曲が良いのよ。でないと、笑っちゃったりしたら、失礼してしまうもの)
そんなことを考えながら、瑠色はリモコンを操作して曲を入れてやり、マイクを渡した。
イントロが始まり、倉松が観念したようにマイクを握る。
瑠色は、第一声から音程を外されても吹き出さないようにしなくちゃと、表情筋に少し力を入れた。
倉松が歌い出す。1小節、2小節……。
(え……上手じゃない!)
瑠色はまじまじと倉松を見た。
力みもなく、サビもやたらと張り上げたりせず程よく抑制を効かせている。裏声の出し方もきれいだ。少しハスキーな
(プロみたい……!)
と、瑠色は思わず聞き入った。
曲が終わると、
「いやぁ、恥ずかしかったなあ……」
と倉松が頬を赤らめ、苦笑しつつマイクを置いた。
「倉松さん、人が悪いわ。すごく上手じゃない!」
こんなに歌の上手い人間の前で、いい気になって3曲も声を張り上げていた自分が恥ずかしくなってきた。
「とても歌い慣れているのね。カラオケで歌うのは初めてなんて、嘘ばっかりなんだから」
「いや、嘘ではないですよ。カラオケで歌うのは今日が初めてです」
「うそ、うそ。こんなに上手くて、歌ったことがないなんて、信じられない」
「いや、歌ったことはありますよ、バンドで。でもカラオケでは、ないです。カラオケって、距離が近すぎて恥ずかしいんですよね」
「へ?バンド?倉松さん、バンドをやっていたの?」
瑠色は、黒目がちの目をさらに大きくして言った。
「ええ、高校のときから数年前まで。時々友達とライブハウスで
「ちょっ……なによ、バリバリに歌っていたんじゃない」
「いや、ドラムスですから、歌ったのは時々ですよ」
「うそ。それだけなはずないわ」
「う~ん……まあ、高校時代は、親友と2人でギターの弾き語りをやっていましたが」
「映画クラブ立ち上げて、ギターの弾き語りもやっていたの?」
「まあ、勉強もせずに、好きなことばかり幾つもやってましたね」
勉強ばかりしてきたのだろうと思っていたが、どうもそうではないらしい。
そこへ、店員が苺のかき氷を運んできた。
2人とも水っ腹で、これ以上何も口に入れたくなかったのだが、最低1つは注文してくれと店が言うものだから、仕方なくこれだけ頼んだのだ。
「先に召し上がって下さい」
と言われ、瑠色は氷をつついて2口ほど口に入れると、倉松の前へ置いた。倉松も、2口、3口、口へ放り込むと、瑠色の前へ戻した。そうして交互に食べている内に、いつの間にか2人で1つのかき氷をつつき合っていた。
🍓🍓🍓🍓🍓🍓🍓🍓🍓🍓
倉松は、今日は昨日よりさらにカジュアルに短パンをはいていたが、ぬっと出た足のふくらはぎの太さが目立つ。
「倉松さん、何かスポーツもやっていました?」
「ええ、友達に頼まれて、ラグビー部も掛け持ちしていました。でも、大学に入ってからは勉強ばかりで、スポーツはやってないから、体が生っていけませんね。娘にお馬さんをやってやったり、プールに入れてやるくらいしか、体を動かさないからなぁ」
「娘さん、まだ5歳なのですよね。可愛いでしょう」
「ええ、可愛いですよ。写真、見ます?」
他人の子供の顔に興味はないが、見たくないとも言えず、
「ああ、はい」
と応えると、倉松は年季の入ったブルーのスポーツリュックからスマホを取り出し、画像を探し出すと、瑠色に見せた。
そこには、倉松に良く似た、丸顔で丸々した体つきの娘と、スラリと細身の色白な若い女が映っていた。
「これ……奥さんですか?」
「そうですよ」
倉松が屈託なく答える。
先日マレーシアの学会へ出掛けた時の写真だろうか。リゾートホテルのロビーで、おどける娘とは対照的に、女は華やかな柄のワンピースに大きいつばの帽子をかぶり、まるでモデルのように澄まして立っている。
「綺麗な奥様ですね」
十以上若い上に美人ときている。自信に満ちた顔つきは、
「そうかな」
倉松が、
(なぁんだ、自慢の奥さんなのね)
美人の妻と可愛い娘を見せびらかしたかったのか。
この
とその時、ドア近くの壁に備え付けられた電話器がプルルルッ、プルルルッと、けたたましく鳴った。倉松は受話器を取ると、
「はい……はい、分かりました」
と答えてから受話器を置き、「はあっ……」と大きくため息をついて壁に手をつくと、肩を落とした。
ずいぶん大げさなジェスチャアだと思うが、本人はいたって真面目なのがおかしく、瑠色はクスリと笑った。
「どうしたの、倉松さん?そんなにガッカリして」
「あと10分で時間だそうです」
倉松が、泣きべそをかくような顔をした。
「もう1時間も経ったのですね」
倉松といると、飛ぶように時間が過ぎる。
「貴女といると、時間が経つのが早すぎます」
「そうですね、本当に。でも、またその内会えますよ」
そう言うと瑠色は、バッグと、脱いだカーディガンを手に持って立ち上がり、ドアへ行こうと足を踏み出して、倉松が立つのを待った。
ところが、片方の腕を強く下へ引っ張られて、倉松の隣に座り込んでしまった。瑠色は、倉松に抱きすくめられていた。
「倉松さん……」
予想外のことに、かすれ声しか出てこない。
胴にしっかと回された両腕と、合わさる胸から、倉松の必死さが伝わり、瑠色は何やら
すると、一瞬体を離した倉松が、顔を近付けてきた。瑠色は目を閉じた。
10年ぶりのキスだった。
そっと舌が侵入してきたのには少々面喰らったが、嫌ではなかった。不思議なくらい、ちっとも嫌ではなかった。
倉松は、瑠色の透き通る様な白いうなじや胸元に、遠慮がちに唇を当てた。
(気持ちいい)
瑠色は思わず、倉松の背中に指を立てた。
初めて会ってから12時間ほどしか一緒に過ごしていない男に、突然こんなことをされていながら、心地好く身を任せている自分が信じられなかった。
倉松は、再び瑠色の唇を丁寧に吸うと、片方の手を彼女の背から胸に移し、ワンピースの薄い生地の上から優しく揉んだ。
「あっ……」
思わず洩れる自分の声に、自分で恥ずかしくなる。
瑠色は、全身の力が抜けていくのを心地好く感じていた。
倉松は、何か自信を得たように、瑠色の額、鼻先、頬、唇、うなじ、肩、胸元と、およそ肌が出ているところ全てに口付けし、手を胸から下腹、太腿へと滑らせていく。
「あっ……あっ……」
と洩れる声をさえぎるように、彼は何度も、瑠色の唇に自分のそれを強く重ねた。
「もう……部屋を出ないと……」
瑠色はやっとのことでそう言った。
「ああ、そうでした」
倉松も我に返ったように、ようやく体を離した。
2人は個室を出てエレベーターに乗り、1階へ向かった。
倉松はドアへ向き、その後ろに瑠色が立って、2人して黙りこくっている。
(憲介さんが帰ってきたら、しばらく逢いにくくなるわ)
と瑠色は考えていた。倉松も、同じことを考えているようだった。
エレベーターは3階から2階を通過し、1階へ差し掛かる。2人きりの時間も、これでおしまいだ。
ドアが開く直前、倉松はくるりと瑠色を振り返ると、素早くキスをして、エレベーターを降りた。
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