【第1章】第5話 恋を焦る女

💎前回までのあらすじ💎

【結婚以来20年近く、姑に仕え、夫の事業を支え、家庭円満の為に尽くしてきた大河瑠色(おおかわるい)は、ある日出会い系サイトに登録し、夏の盛りに、複数の男とデートする】



       【本  文】



電車がホームへ滑り込んできた。

「今日はありがとうございました。愉しかったです。それでは、これで」

瑠色は、少し弾んだ声でそう言うと、右手をすっと差し出した。倉松は慌ててその手を取り、握手すると、

「いやぁ、すっかり遅くなってしまいましたね。あっという間でした」

と照れ笑いを浮かべた。

 瑠色も笑顔を返すと電車に乗り、空いている席を探した。かろうじて座ることができ、ホッとして顔を上げた。倉松に、窓から会釈えしゃくしようと思ったのだ。

 ところが倉松は、すでに反対側のホームへ向いていて、こちらに背を見せていた。

(まだあちら側の電車は来ていないのに……素っ気ない人)

 昨日までに会った3人の男たちは皆、改札の向こうで、瑠色の姿が見えなくなるまで見送ってくれたものだが、倉松はつくづく自分に関心がないのだ、とわかる。

 スマホの時刻表示を見ると、7時を回っていた。

(ほぉんと、すっかり遅くなっちゃった。まあ、家には誰もいないから良いけれど)

家で夕飯を待つ子供や夫がいないのは、なんて気が楽なのだろう。

 思えば、1人で夜まで出掛けたのは何年振りか。少なくとも、幸介を生んでからはなかった気がする。それ以前も、姑と同居していたから、嫁である自分が夜まで家を留守にするなんて許される雰囲気ではなく、数えるくらいしか出られなかった。

 

 帰りは特急に乗れなかったものだから、電車がちまちま各駅に停車するのがまどろっこしかった。瑠色は長年の癖で、「早く帰らなくちゃ」とつい焦る。

(そうそう、今夜は焦らなくて良いのだっけ)

と肩の力を抜いて、手持ちぶさたにスマホをいじった。

 メールの受信通知に気付き、メールボックスを開ける。

 明日デートする予定の最後の-つまり5人目の-男性から、時間と場所を確認する連絡が届いていた。

(今夜は帰りが遅くなっちゃったから、明日またこっちの方までランチに出掛けて来るのは、さすがに疲れるな~)

瑠色は小さくため息をついた。正直言って、億劫おっくうになってきたのだ。

 今日のデートは、予定では、1~2時間で切り上げるつもりだった。 

 倉松以外の4人の男性たちとは、万が一が起きて、デート時間が長引いても良いように、正午前後に待ち合わせ時刻を設定していた。

 でも、倉松とはまず何も起きないに違いないから、午後遅い時間から会い、せいぜい2時間程度お茶して、早々に帰るつもりだったのだ。

 ところが気付いてみれば、今まで5時間あまりも一緒にいたことになる。

(初対面なのに、よく2人きりでこんなに長くしゃべっていたものね)

思いの外話が合ったのだ、と改めて思う。

(でも、やっぱり何もなかったけれど)

 2人で境内けいだいを散策し、喫茶店でお茶をし、さてそろそろ帰ろうとしたところ、隣駅の新しいランドマークタワーへ行かないかと倉松に誘われ、まあ観ておいても良いかと着いていった。

 タワーの展望デッキ内をぐるぐる何周もしながらお喋りし、さすがに同じ景色にも飽きて、帰りますと言おうとしたら、

「お腹空きませんか?」

とにこにこ顔で訊かれたものだから、思わず「はい」と返事をして連れて行かれたのは、地下のフードコートだった。

 瑠色はさすがに呆れたが、まあ、彼ははなからデートだと思っていないのだからこんなものだろう、と大して気にしなかった。

 2人で食券とお盆を持ってカウンターに並び、おばさんから蕎麦そばを受け取ると、家族連れや学生でごった返すなか、長テーブルの一角に空いている席を見付けて座り、すすった。

 ロマンチックの欠片かけらもなかったが、何が嬉しくて長々とお喋りしていのだろう?と、瑠色は自分でも首をかしげたくなった。

(倉松さん、色々な事を沢山知っているから、面白かったけれど、それにしても長く一緒にいたものね。女として見られていないから、気楽で居心地好かったのだわ、きっと。全然気を遣わずに済んだもの。まあ、ドキドキ感は皆無だったけれど)



    ♠️♠️♠️♠️♠️♠️♠️♠️♠️♠️



 倉松は映画にも詳しかった。

 高校時代は映画クラブを立ち上げ、自分で1本撮ったと言っていた。ナンセンスギャグを散りばめた作品で、文化祭で上映したが、自他共に認める駄作で、この1本で才能の無さを思い知り、映画監督になる夢をとっとと諦めたそうだ。

 しかし、小学生の頃からミニシアターに毎週通っていたというマニアックさに加え、油絵を幼い頃から習っていたこともあり、映画の観方みかたが独特で、出演俳優やストーリーよりも、画面構成や色の出し方に注目しているのが、瑠色には新鮮だった。

「倉松さんが勧めて下さった、ヴィム・ヴェンダース監督の『パリ、テキサス』を観ましたよ」

と瑠色が言った。この作品は、カンヌ国際映画祭で最高賞を受賞した作品だ。

「え、ほんと?」

と、倉松は意外な顔をした。

「あの映画、私が勧めても観る人なんて今まで1人もいなかったのですよ。それで、どうでしたか?かったでしょう?」

と、嬉しそうに訊いてくる。

 確かにこの作品は、ド派手で分かりやすいハリウッド映画に慣れているアメリカ人や日本人には、一般受けしなさそうだ。映画好きの瑠色でさえ、途中から飽きてしまった。

 しかし彼女は映画ファンとして、どんなにつまらなくても最後まで観ることにしている。最後まで観てみなければ、その作品を評価することはできないからだ。

「う~ん……なんだか、ずうっと砂漠が映っていてほこりっぽくて、暗くて、面白くなかったですぅ……」

と、瑠色は少々申し訳なさそうに正直な感想を言った。世辞は言えないたちなのだ。

 倉松は、ハハハと愉快そうに笑った。

「そうですか?砂漠の“赤”の色使いが、すごくいんだけどなぁ」

「赤?気が付きませんでした……ああ!そう言えば、ナスターシャ・キンスキーのあかいサマーセーターが目に鮮やかでした。そうそう、それで思ったのですけれど……」

「なに、なに、何ですか?」

倉松が興味深げに訊いてくる。

「私ね、ヴィム・ヴェンダースは、実はストーリーなんてどうでも良かったのじゃないかと思ったんです」

「どういうことです?」

倉松が箸を置いて、身を乗り出す。

「倉松さん、この映画を観て、ナスターシャ・キンスキーのファンになったって、言っていたでしょう?」

「そうですね」

「私もね、鮮やかな紅色のセーターを着た彼女がこちらを振り向いた時、その美しさに、心臓が止まるかと思ったの」

ふむふむと、彼があんまり真剣に聞いてくれるものだから、瑠色は嬉しくなって続けた。

「その時解ったんです。ヴィム・ヴェンダースは、彼女のためにこの映画を撮ったのだって。彼女のこの場面を撮るためだけに!」

「へぇえ~、なるほどぉ」

倉松は破顔はがんした。

「いやぁ、面白い。そんな風には観なかったなぁ。だいたい、この映画を観てくれたことが嬉しいですよ」

「そうなのですか?奥さんとは、一緒に映画を観ないのですか?」

瑠色はちょっと探りを入れてみたくなった。倉松は全く意に介すことなく答えた。

「1度も観たことはないなあ。奥さんは月9ドラマなんかが好きで、映画には興味がないんですよ。私の方は、テレビは見ないので」

「へぇぇ。私もテレビは見ないな……。でも、奥さんとは、何とかって云うジャズシンガーが好きで、気が合ったのでしょう?」

「確かに、同じ歌手が好きで、そのファンクラブで知り合いましたが、娘が生まれてからは1度もコンサートへ行ってないです。そう言えば、彼女は音楽も聞かなくなったな……」

そう言うと、倉松は丼の底に残った最後のそばをすすり上げた。



    ♣️♣️♣️♣️♣️♣️♣️♣️♣️♣️



 特急よりずっと長い時間掛かって、ようやく自宅の最寄り駅に着き、それから車で家へ帰り着いたのは、8時過ぎだった。

 口うるさい夫と小学生の子供がいる主婦が、夕飯時を過ぎた時刻に、何の気兼ね無く玄関に入れるのが気安くて良い。

(“自由”って、いものね)

とつくづく思う。

 連日こんなに伸び伸びできるのは、独身の頃以来だ。

(この自由も、明後日には終わるのかぁ……)

明後日には憲介が帰ってくる。帰ってきてしまう。そう思うと、体がきゅっと硬くなる。

 瑠色は家に入り、バッグからスマホを取り出すと、さっそく倉松にメールを出した。

『今日は長時間お付き合い頂いて、ご馳走にもなりまして、ありがとうございました。愉しいひとときでした』

 メールボックスには、昨日までに会った男たちから、次のデートを催促するメールが何通か届いていた。

『夫と息子のスケジュールを確認してから、改めてご連絡しますね。もう少しお待ち下さいませ』

と、3人に同文のメールを返した。

 彼らの文面から、少々いているのが読み取れる。サイト内の他の男と会っているのではないかと、いぶかっているようだ。まあ、その通りなのではあるが。

 瑠色は、バブル期に青春時代を過ごしたが、その頃流行はやった“キープ君“など持ったことがなかったから、

(結婚後に、この歳で、3人の男の人をキープできるなんて、思いもしなかったわ)

と、我ながら自慢に思えた。

 彼らは瑠色に会うと、一様に「貴女なら信用できるから」と名刺をくれ、本名と身分を明かした。  

 それぞれ、テレビ局のプロデューサーや都市銀行の執行役員、WEBデザイン会社の経営者と立派なもので、感じも好く、外見も好ましい男たちだった。

 瑠色は、少なくとも自分の夫より見劣りするような男と、わざわざ危険を犯してまで会おうとは思っていなかったから、その点でも満足だった。

 子持ちの年増としま女の自分が、彼らのような目の肥えた男たちに女として求めて貰えるのは意外だった。

(とっくに"女"は終わったと思っていたのに、私もしかして、まだまだイケるのかしら)

と、ついにやけてくる。

 しかし、それにしても、浮気へ向けて、なぜか今一つ心が動かない。

(どうしよう……とっても嬉しいし、ありがたいのに。2回目のデートに応じたら、今度は食事だけでは済まなそうなのだもの)

彼ら3人ともが、初対面を果たしたその日にもう、瑠色をホテルへ誘ってきた。

 彼らとは話も良く合った。肉欲だけで寄ってくるようなサイト内のピラニア男達と違って、肉体だけを目的にしているのでは決してないことも、1月に及ぶ毎日のメール交換と実際に会って話した感じから、充分判っていた。

 でも瑠色は、お互いに恋しいと思えるかどうか曖昧あいまいなまま、裸で抱き合う気にはなれなかったのだ。

「そういうことは……あの……お互いの気持ちが判ってからで……」

と戸惑う瑠色に彼らは、

「『恋してから』なんて、女子高生みたいなことを言っていたら、我々のような歳で恋愛なんか永遠にできませんよ」

と、そろって苦笑した。

「肉体から始まる恋愛もあります」

と、当たり前のように付け加える者もいた。

(そんなものかしら?をしている内に、恋心が芽生えてくることもあるのかしら?)

 瑠色は、交際した男も少ない上に、セックスは憲介としか経験がなかったから、こういう事にはからきしうといのだ。

 しかし、抱かれたいという気持ちが湧いてこない内に抱かれるのは、もう嫌だった。そして、これまで交際した男たちに抱かれたいと思ったことは、ほとんどなかった。

(頭で恋をするのは、もうやめるの)

と、瑠色は自分に言い聞かせていた。 

 これまでは、条件が好ましいからと好感を抱いたり、熱心にアプローチされるからと情が湧いたりして、それを恋愛感情だと思ってきた。

 だから、今までの瑠色であれば、好ましい条件が揃った男たちから強く求められているのだからと、その中から最も条件の好い男と交際したに違いない。

 しかし、加納健かのうたけしに出会い、片想いとはいえ4年近くも秘かに恋心を積もらせてきた今では、好感を持ったり情が湧いたりすることと、恋する気持ちは、似て非なるものだと知っていた。

(私は結局、加納先生を忘れさせてくれるひとを求めているのだわ)

と思う。

 そうであればやはり、その相手に恋をしなければ、加納を忘れることなどできないし、新たに恋するには、その相手が加納よりも全てにおいて魅力的であること、つまり、若く、賢く、美しい男でなければならないだろう、と瑠色は思った。

(そんなひと、そう簡単にいるはずないじゃない。万が一出会えたとしても、私を好いてもらえるとは、全然限らないのよ)

虫が良すぎることを考えている自分は、本当に女子高生みたいだと、自分の幼稚さに呆れた。



 憲介とは、お互いカラオケやお笑いが好きだし、金銭感覚や価値観も合うし、何と言っても、結婚相手として条件が良かったからプロポーズを受けたが、仮に今別れることになっても、悲しくはないと思う。経済的に困窮することが心配なだけで、むしろ精神的にはホッとできるだろう。

 大学から社会人時代に、熱心にわれるままに交際したボーイフレンドたちについても、今思えば、ちやほやしてくれるのが気持ち好くて付き合っていたと思う。だから、振っても振られてもさほど落ち込んだり、傷付いたりすることはなかった。

 ところが、加納に対しては違った。

 瑠色は、夫以外の男を好きになるなんて、どだいテレビドラマの中でしか起こらないことだと思っていたし、そもそもそんなことはあってはならないと信じていたから、初めは、加納に惹かれていることを自覚していなかった、というより、認めなかった。

 でも、加納が入ってきてしばらくすると、彼のことばかりやたらと気にしている自分に気が付くようになった。

 オフィスではこれまで、仕事のことしか考えたことがなかったのに、加納が来てからは、彼に会うことが愉しみで事務所へ行くようになった。

 瑠色は元々お洒落しゃれ好きであったが、普段の服選びを一層愉しめるようになったし、以前から何となく取り組んでいたストレッチと筋トレを、毎朝真剣にやるようになった。

 しかし、いかんせん、夫の憲介が所長として同じ職場にいる。まして憲介は、女性スタッフ達が、男前おとこまえの加納にデレデレし、露骨に特別扱いしているのを苦々にがにがしく思っていたから、瑠色は、自分も彼に好感を抱いているなどと、おくびにも態度に出すわけにいかなかった。

(私は加納先生の単なるファンだもの。だから、憲介さんのもとで彼が頑張れるように陰ながら応援するくらい、何の問題もないわ。それ以上の気持ちはないのだから)

瑠色は何度も、そう自分に言い聞かせた。

 そして、独身時代と同じように、女性スタッフ達が加納を囲んではしゃいでいるのを遠巻きに見やりながら、所長の妻として淡々と接していた。むしろ、素っ気ないくらいだった。そうでもしないと、敏感な憲介にさとられそうで恐かった。

 そんな中でも、たまに仕事のことで、加納と短い会話でもできようものなら、胸が弾んだし、憲介が事務所を留守にしている時に、世間話や冗談を交わすことができたりすると、ふわふわっと天井まで舞い上がってしまうのではないかと思われた。

 ある時、加納に書類を渡そうとした際、紙の下に回した指先同士がしっかり触れ合ったことがあった。

 A4サイズだから、普通手が触れることはないのだが、加納は、瑠色の手がある側に自分の手を差し出し、しかも書類の真ん中を掴んで、紙の下側にある瑠色の指先に、自分の指先をそっと重ねたのだ。

 瑠色はドキリとして、思わず加納を見た。加納も瑠色の目をしっかり見ていた。

「これ、お願いしますね」

「はい」

と返事をしながら、加納はまだ、触れる指を離そうとしなかった。故意なのか、たいして気にしていないのか。

 加納の長い指にずっと触れられていたいと思いながらも、瑠色は名残惜しく書類から手を離した。憲介の視線が気になる。

(いえ、大丈夫。憲介さんからは、私たちの指先まで見えないわ)

 瑠色は、脚の間が熱くなっているのを感じた。



    ♦️♦️♦️♦️♦️♦️♦️♦️♦️♦️



「加納に辞めて貰うことにしたよ」

そう憲介から聞いたのは、2ヶ月前の梅雨の頃のことだ。彼が入所してから3年半が経っていた。

「アイツ、すんなり受け入れたよ。もちろん、クビにするとは言ってないぜ。『そろそろ独立したらどうだ?』って勧めたんだよ。そうしたら、ホッとした顔をしてたな……俺と合わないのを、感じていたのかも知れない」

 それから1ヶ月の間に、瑠色の体重は5kg落ちた。

 この勢いでこれ以上痩せたら体を壊しそうだったから、無理して食べた。

 姑と別居したとたんに、姑の分まで気難しく、厳しく、怒りっぽくなった憲介と、家でも職場でも一緒にいる緊張した日常生活の中で、加納の存在は瑠色にとって、秘かな歓びであり、張りになっていた。

 憲介は、自分で採用したくせに、加納を早々に気に入らなくなった。

 若いのに堂々としていて、所長の憲介に対しても、誰に対してもへつらうところが全くなく、またとにかく、どこに居ても女性のとろけそうな視線を集めずにはおかない容姿で、女性裁判官にまで特別扱いされる加納を、憲介は憎々しく思っていた。

 それで、憲介は家に帰ると、瑠色によく加納の悪口を聞かせた。

 暗に同意を求められ、瑠色はうん、うんとうなずきながら聞く毎日だったが、徐々に同意するのが辛くなり始めた。

「アイツは感謝が足りねぇんだ。俺が教えてやったことを、客の前ではさも自分が始めから知ってたような顔して、すましやがる。客は俺じゃなくて、アイツが解決したと思っているんだ」

「アイツは実力もないくせに、イケメンなもんだから、裁判所の女の書記官に管財事件を多く回して貰えるんだ」

「アイツは損得勘定ばっかりしてる男だから……」

うんぬんかんぬんと、加納の悪口を聞かぬ日はないくらいだ。

 瑠色はそんな憲介の悪口にずっと付き合い、彼の機嫌を損ねたくないばかりに「そうよね」と同感してみせ、時に自分も悪口を言ったりさえした。

 そんな瑠色を見て、憲介は満足そうだった。

 瑠色は、こうすることで、夫以外の男に惹かれている後ろめたさを相殺そうさいできる気がしていた。

 さらには、加納は憲介が言うとおり実は悪い男なのかも知れず、そうならばいっそ嫌いになれて楽だと考えたりした。

「そうだろ、瑠色、お前もアイツをどうしようもねぇ奴だと思うだろ?あんなカッコばっかりの能無し男に、なんで給料をくれてやらなきゃならねぇんだよ、なあ?」

 書類の下で、瑠色と加納の指先が触れ合った日の夜も、憲介は家に帰るなり、彼をののしった。

 始めはいつものように、うんうんと聞いていた瑠色だったが、この日はだんだん胸が苦しくなってきた。

 耳をふさぎ、黙って!と叫びたくなる衝動に駆られた。

 憲介の止まらぬ悪口を聞きながら、瑠色は今にも泣き出しそうになるのを懸命にこらえつつ、台所に立って夕食の用意をしていたが、

「そんなに悪いところばかりではないんじゃない?」

と、つい、口をついてそんな言葉が出てしまった。

「……なに?」

憲介が、分厚い眼鏡の奥にある小さい目を、ギロリとこちらへ向けた。

瑠色は(しまった!)と思った。

「人の悪いところばかり見ていては、誰のことも雇えなくなっちゃうわよ。加納先生にも、少しは良いところがあるんじゃない?」

マズイと思っているのに、瑠色は自分の口を止めることができない。

 憲介の顔がみるみる赤くなった。

「……アイツを……かばうのか?」

ゆっくりと噛み締めるような物言いは、憲介の怒りが大きいことを感じさせる。瑠色は慌てた。

「そうではなくて、一般論を言っているのよ。誰にでも長所と短所が……」

「お前……」

いつも高い声でまくし立てる憲介が、太く低い声で瑠色をさえぎった。

「お前、アイツを好きなのか?」

赤黒い般若はんにゃのような形相ぎょうそうでこちらをめ付ける憲介に、瑠色は震えた。

 憲介のこんな表情を見るのは、瑠色が姑とうまくいかず、同居をやめて憲介の実家を出ることになった時、彼に「お前を恨んでやる」と言われた時以来だから、数年振りだ。

「そんな訳ないじゃない。人を使う立場として、一般論を言っているだけよ」

と瑠色は懸命に否定したが、憲介はふんっとそっぽを向いて黙った。

 それから1週間ほど、憲介に無視された。瑠色が「お早う」と言っても「お帰りなさい」と言っても、一切反応しなかった。

 無視されるのはよくあることで、慣れている。虫の居所が悪くなると、人を無視するのは昔からで、姑と同じだ。親子でやることがよく似ている。

 それにしても、加納への気持ちを気付かれたのではないかと、瑠色は内心冷や冷やしたが、1週間も過ぎると憲介の機嫌が直ったので、胸を撫で下ろしていた。

 それから1ヶ月後、憲介は加納にクビを言い渡した。



      ★★★★★★★★★★



 以来、瑠色は毎日、1人になると、壊れた蛇口のように涙がこぼれてくるようになって困った。

 職場でさえ、給湯室やトイレで1人になると、ぶわっと涙が溢れてくる。ひどい時は、デスクのパソコンへ顔を向けたとたんに涙がにじんでくることもあった。

 人前でも、腹に力を入れていないと、ふとした瞬間に目に涙がたまってくる始末で、ほとほと閉口した。

 瑠色の勤務は週に3日で、1日4時間程度だったから、こんな異変も辛うじて周囲にさとられずに済んでいた。

 加納がことに決まった秋が日に日に近付いてくるにつれ、瑠色は耐えがたい辛さを感じるようになっていた。

(せっかく恋をしたのに、せっかく触れ合えたのに……せっかく……せっかく……もうこの恋を諦めなくてはならないなんて……人に恋をすることなんて、これで最後に違いないのに……)

 瑠色は、あと5年で50歳になってしまう自分に、本気で恋する機会が再び訪れるとは思えなかった。

 こんなに素晴らしく、歓ばしい気持ちに、蓋をして終わらせなければならないのだろうか。

 思いがけずうちに咲いた、恋の花だった。

 このまま誰にも知られることなく、加納本人にさえ認めてもらうことなく、しおれていくしかないのだろうか。それとも、いっそ加納に打ち明けようか。

 しかし、加納の瑠色に対する態度は、憲介が独立を促した日から、明らかによそよそしくなった。

 瑠色に対しては、言葉も必要最小限しか発せず、目も合わせなくなった。

 それはそうだろう、と瑠色は思った。

 加納からしたら、自分は憲介と同じ立場の人間だ。経営者として一心同体に見られても仕方ない。

 しかし、これでは、想いを彼に打ち明けるなんてことをできるはずもなかった。

 瑠色は来る日も来る日も泣いた。

 泣きたいと思っている訳ではない。自然と涙がこぼれ落ちてくるのだ。

 瑠色は、加納が微笑みを返してくれたとき、目を合わせてくれたとき、指に触れてくれたとき、そのよろこびを子宮で感じていた。  

 それは、これまでに感じたことのない、強い衝動を伴う歓びだった。

(加納先生に、抱かれたかった。1度でいい、抱かれたかった。好きな人に、抱かれたかった)

 瑠色には、加納への恋を諦めることは、女を終えることと同義だった。

 加納が去ろうとしている今、朝起きる度に、日一日と歳を取っていく自分に恐怖した。まともに恋を知らないまま、女を降りていくのが恐ろしかった。

(私は、好きなひとに抱かれる歓びを知らないまま、女を終えていくのだ。このまま老いて、死を迎えた時、私はついに恋を知ることがなかった、惚れた男に抱かれる歓びを知り得なかったと、どんなにか後悔するに違いないわ)

瑠色は、死にぎわに後悔するなんて真っ平だと思った。

 そして次の瞬間、彼女はスマホを開き、出会い系サイトを検索していた。

 誰にでも良いから抱かれてしまえ、と思ったのだ。



    ☘️☘️☘️☘️☘️☘️☘️☘️☘️☘️



 シャワーを浴びてパジャマに着替えると、瑠色はテレビマンがプレゼントしてくれた映画のDVDを、彼が勤めるテレビ局のロゴマーク入り紙袋から取り出し、プレイヤーにセットした。 

 『ニューシネマ・パラダイス』だ。

 観始めると、恋の話だと分かってきた。公開時にはカットされたらしい最後のシーンでは、主人公の男が、今は人妻となっている初恋の女性と再会し、若者のように車の中で結ばれ、これから秘かに関係を育んでいくことを予想させる場面で終わるのを見て、瑠色は、

(私には結局、浮気はできそうにないわ)

と自嘲した。

 昨日までに会った男たちとは、次に会う気がしなかった。

 次に会った時には当然にセックスするものと、彼らが期待しているのが分かるから、それが負担だった。

 出会い系サイトのような場所で出会った以上、それは“大人の常識”というものだと、WEBデザイン会社を経営する男にさとされたが、瑠色にはそうは思えなかった。

 誰でも良いから抱かれてしまえば気が済むと思ったのに、それを自ら拒否しては、何も起こりようがない。自分のかたくなさを恨めしく思う。

(柄にもなく浮気だなんて、やっぱり私には向かないのよ。それでもけっこうな冒険ができたわ。もう充分よ)

と自分を慰めた。

 そういう意味では、倉松はそんなプレッシャーを少しも掛けてこない男だから、2度でも3度でも気楽に会えそうだが、せいぜい、良き茶飲み友達にしかならなそうだ。

 そして、明日会う予定の航空会社の管理職らしい男性には、さきほど、『体調を崩したので』と、デートの延期をお願いしたところだった。

 連日酷暑の中を都内まで出向いていたし、今日の帰宅時間が予定よりだいぶ遅くなってしまったから、すっかり疲れた。

 それに、この男性とは、メールでの会話がさほどしっくり来ていたわけでもないから、急いで会いたいとは思わなかった。

 明日はゆっくり家にいて、実家の母親が送り届けてくれる幸介を迎えてやろう、憲介が留守の最後の日だから、母娘孫おやこ3人で共に気楽に夕食を食べよう、と思った。

 瑠色の母親は、憲介が嫌な顔をするから、普段は遠慮して、娘の家へ滅多に来ないのだ。

 さて、本でも読みながら寝ようとソファから立ち上がる。倉松からは、瑠色が先ほど送ったお礼のメールへの返信はまだない。

(ま、私に興味ないものね)

ホームで別れたとき、早々にこちらへ背中を向けた、倉松の後ろ姿を思い出す。

(余韻もなにも、ありゃしないわ)

その時、メールの受信通知が鳴った。

 倉松からだった。

『今日は私もすごく愉しかったです。確か瑠色さんは、今夜もお家にお1人だとおっしゃっていましたよね?今、お話しできますか?』

瑠色は一瞬考えてから、メールを返した。

『はい。明日の夕方まで1人です。お話って、メールでですよね?』

すると、すぐに折り返しが来た。

『いや。お電話して良いですか?声を聞きたいのです。ご迷惑でなければ』 

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