第49話 潮騒ダンジョン⑩

【魔空壁】によるダメージ軽減効果があったとはいえ、利き手である右手で攻撃を受けたのがいけなかった。完璧に感覚が消え、思うように動かせない。というか、ぶらりと垂れ下がり、重力にあらがうことすら許されない様子だった。


「いっ……、てぇ」


 ――手が思うように動かせない。やばい。左手で剣を持っても、全然戦えるイメージがわかない。逃げ出してしまいたい。


 頭の中にだんだんと黒い感情が湧き始め、心を、そして体を蝕んでいく。

 手だけじゃない。足も動かなくなってくる。別にけがをしたとかダメージを負ったとかじゃない。ただ、恐怖におびえているのだ。理屈とか、頭とかじゃない。ただ、体が、生のもっとも根源的な恐怖が自然と、俺の体のいたるところに強張りを与えていた。


 ――どうしようもないのか。


 恐怖はだんだんと諦念へと変貌していく。

 もう無理だ。なんにでも勝てると思っていた俺の甘さが今俺に牙をむいている。


 ヌシはゆったりと、勝ち誇った様子で俺のもとへと近づいてくる。


 ――このまま、こいつに食われたら、どれほど楽になれるだろうか?


 俺が黒い思考に捕らわれていると、いきなり空を切る音が聞こえてくる。


 ビュゥゥゥ。ヒュンッ


 一本の矢が勢いよく、ヌシの頭に向かって飛んでいく。

 ヌシはヌルヌルがあるから、本来、その攻撃を避ける必要がない。が、あえて上体をわずかにうねらせ避ける。


「何、ボケッとしてんのよッ」


 猪貝の甲高い声が俺の脳に響き渡る。


「早く、戦うのよ。今までのあんただったらできるでしょ」


 ――どうやって?

 物理攻撃はヌルヌルでほとんど防がれてしまうし、魔法だって水魔法で防がれてしまった。何ができるというのだろうか? 


「ほんのちょっとの敗北なのに、あんたは諦めちゃってるの? 私よりあんたは雑魚ってことでいいのかしら?」

 

 あまりにも見え透いた挑発。おそらく俺にやる気を出させようと猪貝なりに頑張って考えた方法なのだろう。俺には、それに応じる気力すら湧かない。


――ごめんな、猪貝。


 でも、そんな猪貝のほうをよく見てみると、手が、足が、体全体が小刻みに震えているのがわかった。

猪貝だって怖くて怖くて仕方がないはずなのに何とかして俺を奮い立たせようとしてくれたのだろう。


――そんなに震えているのになんで……?


「ばぁーーか。私より強いのに簡単にあきらめんじゃねーー。あんただって私に言ってたじゃんか」


 だけど、その意気を無下にしちゃいけない。

 黒く靄のかかっていた心にかすかながら光の刺すような感覚。

 

 やってやる。やってやる。


「――ねぇし」

「えっ」

「俺は断じて雑魚じゃねぇっ」


 黒い靄がかかっていた俺の視界、そして心が、いつの間にか晴れ渡り、先ほどよりもはるかにクリーンになり、細かいところもよく見える。


「どうかしてたな。いつも明るい俺があんなに暗くなるなんて。キャラに合わないな」

「そうよ、その意気よ」


 そして、俺は一つだけ打開策を見つけた。

 それは初歩的で、あまりにも当たり前すぎて見落としていたあの攻撃方法を。


「“できない”って思いこむことがいけなかったんだ」

 

 短剣を取り出し、左手で構えて

「【跳躍強化】ッ」


 大きくその場で飛び跳ね、ヌシの顔に向かって飛ぶ。


「さっき、顔への攻撃を避けただろ? それがヒントになったんだ」


 唯一ヌルヌルのない場所、いや、使えない場所――つまり目が弱点だったんだ。


 俺の刃は、ヌシの目に刺さり、血が噴き出る。


 ギャァァァ。


 ヌシの大きなうめき声がダンジョン内にこだました。

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