第3話 柳橋敬忠か、または保坂恭子か

 目が覚めるとまるで洪水のように記憶が溢れ出た。それは二〇年間生きてきた柳橋敬忠としての記憶だけではなく―――前世というには未来の世界―――令和の保坂恭子の記憶も。二つの記憶が並行して展開する不思議さ。小さい頃、剣の鍛錬や儒学の講義を通じて武士としての生き方を学んだ記憶もあれば、大学に通っていた時代、男性と付き合いすぐ別れた記憶も存在する。それが不思議なことに矛盾なく敬忠の頭の中に存在していた。

 敬忠は当初はただただ混乱するばかりだったが、数日の後、あることに気がつく。それはこの精神の本体は令和のオフィス・ワーカー”保坂恭子”に根ざしていると。

 時は寛政一二年、寛政の改革は失敗に終わり松平定信も失脚したものの、後任には老中首座松平信明がその路線を引き継ぐこととなった。寛政の改革―――幕府への諸権力の集中を狙い、また倹約による財政再建、学問思想の統制を江戸市中にまで徹底させるなど、田沼時代になれた人々には冬のような時代であった。そんな改革も頓挫し、その後を松平信明が引き継ぐが、その基本路線はあまり変わらなかった。むしろ定信ほどのリーダーシップに欠けていた分、社会は停滞の様相を強めていた感じであった。

 一方、敬忠が仕えるのはその江戸より離れた駿河小島藩一万石。小なりとはいえ、甲州街道の要衝を抑える意味合いで配置された親藩である。忠敬は若くして年寄本役になるも、生活は質素そのもので文化的な刺激も何もない生活であった。そんな中での唯一の娯楽が江戸勤番であった。華やかな町人の暮らし。美味しい食べ物―――いつの間にかそれは敬忠を戯作の道に突き動かした。もっともそれを本業とするつもりは毛頭なかった。あくまでも江戸での遊行の足し、程度の気持ちである。また、そんなに売れっ子作家というわけでもない。ことがばれて大事にでもなろうことなら、安逸な武家ぐらしにも差し支える可能性があったのだ。

 しかし、二〇歳の時の敬忠の”目覚め”は彼の行動を一変させた。保坂恭子としての人生は未来ではあるが、どうやら終了したらしいことがせつせつと感じられた。よく令和の世の小説で読んだことのある『異世界転生』というやつだろう。だとしたら自分にできること―――あの『世界』の記憶を用いてこの世界で無双と―――敬忠は考えたが―――

 中堅大学の経済学部卒業の学位。

 金融関係のオフィス・ワーカーとしての僅かな経歴。

 学生時代、とあるアニメにはまり同人誌を数冊出した程度の画力。

 間違いなく、”目覚め”るまえにこっそりしていた副業―――文筆業の方が割がよいように思われた。ならば―――この副業を基本に保坂恭子の記憶を使って『プチちょっと地面に足のついた無双』をできないだろうか―――そういう結論に敬忠は達する事となる。

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