第3話 怒鳴り声と涙
その後、しばらくは目立った問題は起きませんでした。もちろん私が休んでいたときとか、見ていないところで何かが起こっていたとしてもわかりませんけれど、私の知るかぎりでは比較的平穏な日が続いていたと思います。
相変わらずアキコさんは神経質でした。でもそういう性格だとわかってしまえばつきあいづらい人ではありません。
スミコさんには正直どう対処していいものか、いい結論が出たわけではありませんでした。スミコさんのトイレの時間まで気にかけながら行動するなんていうことは、私にはできそうにありません。
悩んだ挙句、折衷案でもないんですけれど、給湯室などで見かけたときは、なるべくこちらから声をかけ、「敵じゃありませんよ」というアピールをすることにしました。内心はビクビクですが、いきなりなんの心当たりもない場面でグサッと刺されるよりはずっとましです。気にさわったことがあれば、そういうタイミングで言ってくれるかもしれません。想定できるリスクは前もって下げておくに限りますよね。これも処世術のひとつです。
効果のほどはよくわかりませんが、少なくとも面とむかって叱られるようなことはありませんでした。直属の上司だったら、この段階で耐えられなかったと思いますけれど、幸いにも直接的には関係のない人でしたから。
そうやってしばらく平穏に過ごした日々は、今から思えば、嵐の前の静けさというものだったのかもしれません。
その日、給湯室から怒鳴るような声が聞こえてきたのは、お昼休憩も終わりかけの時間帯でした。声の主は、アキコさんでした。
私は反射的にスミコさんのデスクに目を向けます。――デスクには誰も居ませんでした。もちろんお手洗いとか、外に出たとか、いろんな選択肢があるのは間違いありません。でも「もしかして……」という思いがわきあがり、すぐに給湯室に向かいました。そして私が給湯室につくよりも先に、ドアが開き、うつむきかげんのアキコさんが足早に出てきたのです。
「なにかあったんですか?」私はアキコさんに聞きました。
「――なんでもない、ですから」
アキコさんは泣きそうになっていました。どう見ても、なんでもないなんて雰囲気ではありません。そして、給湯室のドアがまたゆっくりとひらきます。出てきたのは、――やはりというべきか、スミコさんでした。こちらの様子をうかがうようにちらりと視線を向けてきましたが、そのまま何事もなかったかのように、自分のデスクに戻っていきます。でも私はそのとき、見てしまったんです。もどっていくときにスミコさん、ちょっと笑ったんです。ちょっとだけですけど、あれは絶対に笑っていました。
もう、このときはなんというか、もう本当に怖かったです。背筋をこう、寒気がはしって、とにかくその場にも居たくなくて……。大丈夫と繰りかえすアキコさん連れだってトイレまで逃げてきました。
アキコさんをトイレに連れてきた私は、改めてアキコさんになにがあったか聞きました。最初こそ、すこし悩んだようですが、結局のところアキコさんだって誰かに話したかったんだと思います。その両目からは大粒の涙が流れだし、同時に、せきを切ったようにスミコさんから受けていたいやがらせのことを話してくれました。
アキコさんが一番最初にスミコさんにされたイヤがらせ……というか要求は、アキコさんが髪の毛がさわるクセが気になるからやめてくれ、というもの。もちろん特段の理由があるわけでもなく、なんとなく気になるからやめてほしい。そんなことを一方的に言われたんだそうです。
アキコさんの髪は肩よりも少し下まであり、むすんでいるわけでもないので、作業するときなんかに、すこし髪に触るようなことは確かにあります。でもそんなのはべつに普通のことで、周りがとやかく言うような話ではありません。アキコさんももちろんそう思ったようで、「特に誰かに迷惑をかけているわけじゃありませんし、あなたにも別に関係ありませんよね」と言って、まともに取りあわなかったようです。
でもどうやらその反応がスミコさんの琴線に触ってしまったようで、その日から本格的にイヤがらせがはじまったんです。
最初は通りすがりにちょっとした悪口を言われる程度だったそうです。「相変わらず顔色悪いですね」とか、「またちょっと太りましたね」なんていう他愛もない……本当に取るに足らない内容だったようです。もちろんそれだけでも、十分いやなものですが、あまりにもくだらないと思い、最初はアキコさんは無視をしていたそうです。それで嫌がらせがやめばよかったのですが、現実はそう簡単にもいかず、むしろエスカレートしていったのでした。
もともと部署も違う二人ですから、表立って仲間外れにしたり、無理やり仕事を回したり、なんてことはなかなかできません。それでも使っていた文房具がいつのまにかないとか、自分をおとしめるような噂が流されていたり、とにかく執拗に何度もそういったことが起こりました。最近では写真を勝手に取られたあげく、それをこちらに見せつけ、「今日もブスね」なんて言われて追い回されるのだとか。さっきの給湯室でも、あまりにもしつこいので思わず声をあげてしまったそうです。
はっきり言って一つひとつは、なぜそんなことを……というような些細なものといってもよいと思います。でもどれも必ず他の人の目のないところ、もしくは誰だかわからないような形でおこなわれていました。まるで、邪気のない子供が、ただ楽しさだけのために追い回しているような……それでいて周到なしたたかさを持ち合わせているような。そんなアンバランスさがどうしても理解できず、恐怖するしかありませんでした。そりゃあアキコさんだって警戒するはずです。
「私、ちょっとスミコさんに言ってきます」
お昼の時間がそろそろ終わるのはわかっていましたが、そのまま何食わぬ顔で午後の仕事をするなんてできそうにありませんでしたから。アキコさんはそんなことはしなくてもいい、ほっておけとくり返しますが、このままでは私の気がおさまりません。つかつかと歩みよると、デスクで呑気お茶を飲んでいたスミコさんに声をかけました。
本来なら給湯室にでも来てもらったほうが良かったんでしょうけど、このときは頭に血がのぼってしまってそれどころじゃなかったんですよね。
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