姫君の七ツ宝具
ここプロ
第1話 小さな刃
煉瓦の壁に肩をあずけながら、おれは身体を引きずっていた。
人けのない夜の路地裏。進む先には瓦礫とごみが散らかっている。
ときどき足をとられて転びそうになる。それでも、おれの足は進むのをやめない。
かすんだ目に、町の灯りがぼんやりと映る。きーんと鳴る耳に、人々の賑やかな声が聞こえる。
おれの知らない世界がこの先には広がっている。
食べ物があって。
住む場所があって。
温かい灯りのある世界。
そこは、きっと楽園なのだろう。
城下町の果てに広がる貧民街。人々が奪いあい、傷つけあって日々を生き残る場所。そんな場所でおれはずっと生きてきた。
ゴミ箱の残飯と、くすんだ色の雨水がおれたちの生命線。暴力と略奪に怯えながら、食べるものを探して駆けずり回る。それがここでの日常。
住めば都、なんて言葉は嘘だ。生まれ育ったこの場所に愛着を感じたことなんか一度もない。いつだって逃げ出したいと思っていた。
しかしそれが不可能なことはわかっていて、だからこの貧民街で生きるしかなかったわけだし、逃げ出そうともしなかった。
金も力もない者に、居所を選ぶ権利などない。
貴族は死ぬまで貴族。
貧民は死ぬまで貧民。
親のないおれでも知ってる、この国の不文律だ。
おれはきっと一生をここで終えるのだろう。受け入れる覚悟はできていた。夢なんて見なかった。見てもきっと空しいだけだから――なのに。
おれは今日、楽園に向かって一歩を踏み出していた
自分でも何を思ったのかは、よくわからない。というよりも全くわからない。
めまいはするし、腹はねじきれるくらい苦しいし、もう何かを考える余裕さえなかったんだと思う。
頭にあったのはひとつだけ。“何か食べなければ”。それだけだった。
おれはどうしようもなく飢えていた。極限まで。死ぬすれすれのところまで飢えていた。
冬の寒さで体を壊し、食べ物の奪い合いに敗れ、つまりは生存競争に敗れ、こんな状況に至った。
こんな状況。
貧民街の外の世界に、最後の可能性を託すしかなくなった状況だ。
無謀なのは承知の上だった。向こうの世界で、おれたちが人間の扱いをされていないことは知っている。
それでも足は止まらなかった。
豊かな人生を諦めることはできても、生きることそのものは諦めきれなかった。
生きたい。その一心が身体を動かしていた。
お腹がすいた。
空っぽの胃袋が力なく泣いた。最後に食事を取ったのはいつだろう。
両手の指を折り曲げてはみたが、途中で数えるのをやめた。
わかったところで腹は膨れない。食べ物を手に入れなくては。
限界は近い。やらなきゃおれは死ぬ。
停止に近づきかけた心臓が急に熱を帯びたのを感じながら、錆びたナイフを握る手に力を込めた。
次にここを通った人間を殺して、金を奪おう。
視線を上げた時、光の向こうに小さな人影が見えた。
ドレスの輪郭。九歳のおれと変わらない背丈。女性にしても小さい。
姿が確認できるほどに近づいてきた相手は、女の子だった。
陶器のように白い肌。金のように輝く髪。身なりや装飾品を物色するまでもない。
その顔を一目見ただけで、女の子が頂点に近い身分であることがわかった。
そんな相手が一人で裏路地に入ってきた。
命の尽きる最後の最後、極上の獲物がやってきた。
神様は自分を見捨てていなかった。
神なんて一度も信じたことはないのに。
目尻に浮かんだ涙を拭いながら、おれは小さく感謝の言葉を呟いた。
そんなことなど知るよしもないまま、女の子は足音の届く距離にまでやって来た。
“狩る“瞬間までの行程をイメージしながら呼吸を整える。
立ち上がる。刃物を突きつける。
そして言うんだ。
金を出せと。
「これ、ドーナツだけれど……よろしければいかが?」
——え?
手にした紙袋を差し出しながら、先に声をかけたのは女の子の方だった。
「その、お金は持ち合わせがなくて。それでもお腹が空いているように見えたから」
「——見えた?」
「その大通りから。体を引きずってるあなたの姿が見えたから」
無数の人間が彼の前を通った。彼に視線を向けた人もいるにはいた。
それでも、気にかける人は誰もいなかった。
驚いたせいなのか。あるいはそれ以外の感情のせいかはわからない。
立ち上がりかけたおれの体は、痺れて動くことができなくなった。
「食べられる元気がないのね。ごめんなさい、遅くなってしまって」
おれの手に握られたナイフを見て、女の子は声を絞り出すように言った。
「小さくちぎってみたわ。どうかしら。これなら食べられそう?」
「きみは……?」
「え? あ……」
おれの反応に、少女はばつが悪そうに頬をかいた。
「そうよね。知らない子が来ていきなりこんなことされても不安だよね。
わたしは」
「姫君」
どこからか声が響いた。
静かな、しかし夜の空気すらも凍てつかせるような音だった。
はじめ、おれにはその音が人間の声だとわからなかった。
少女の背後数メートルの距離に立つ人影が見えるまで。
闇に溶けるような燕尾服を身に纏う男が、おれたちを見つめていた。
「——手に握っているものを隠して。早く!」
額に無数の汗を浮かべながら、女の子は囁いた。小声ながらも、その剣幕に押されてナイフをポケットにおさめた。
均質なリズムで革靴の音が迫る。
音が一つ耳に届くたび、踏みつけられるような重圧を感じた。
「父君に土産を買いたいとおっしゃったかと思えば、店の手洗いを借りたいと言い出し、私の目を盗んで窓から脱出。そしてこんな所へ。
やんちゃが過ぎます。姫君」
姫君。
王様の娘がそう呼ばれるアレ。
おれにドーナツを渡したこの子が姫君?
「ごめんなさい。もうしないわ、クロード」
姫君と呼ばれた女の子は視線を彷徨わせながら応じた。
「そのお言葉は何度目でしょうか。それに私を謀ってまでやろうとしたことが、このような者への施しとは。
それだから、危険な目にもお遭いになる」
見下ろす視線は、ポケットに隠れたおれの手元へ向けられていた。
この闇夜の中だ。ナイフそのものが見えていたとは思えない。
しかし男は、ほとんど確信をもって見抜いているように思えた。
「姫君への脅威は全て排除します。それが私の仕事ですゆえ」
排除という言葉。聞き慣れた言葉ではなかったけど、おれの頭はすぐに理解した。
きっと殺されるんだろうと。
言い逃れはできない。この男の言っていることは事実だ。ナイフという動かぬ証拠もある。
気づくとおれは瞼を閉じていた。せめて最後は眠るようにと、そんなふうに思ったのかもしれない。
しかし次に耳に届いたのは、予想もしていない少女の言葉だった。
「待ってクロード。わたしは彼に何もされてはいないわ」
震えていて、それなのに毅然とした少女の声。
少女はおれの前に両腕を広げて立っていた。
「何もされていないのだから、あなたの言う脅威なんてここにはない。敵意をおさめなさい」
「それは調べてみれば分かる事。もし彼が凶器を所持した上で姫君に近寄ったのであれば、それは立派な反逆罪。
脅威と呼ぶには十分です」
「ではもし何も出てこなかったら?」
間を置かずに女の子が返した。おれがナイフを隠していることは知っているはずなのに。
女の子が唾を飲む音が微かに聞こえた。
「姫君たるわたしが誤解だと言っているのに、あなたはこの国の大切な民に手を出そうとしている。
それこそ立派な反逆罪ではないの?」
あなたのことは誰よりも信頼しているわ。
そんな前置きをして、女の子は続けた。
「信頼しているからこそ、本当はこんなこと言いたくない。
クロード。あなたもわたしを信じて」
男は表情一つ変えずに女の子の青い瞳を覗いていた。まるで、その心の奥を覗き込むかのように。
それから力なく佇んでいるおれの手がポケットから滑り出たのを見て
「承知しました。姫君の命令に従うこともまた、私の仕事ですゆえ」
そう言って、恭しくお辞儀をした。
言われたことを真に受けた様子じゃない。だが男はそれ以上の追求をしてこなかった。
今のおれには凶行に出る気力がないと判断したか。あるいは、何かする前に取り押さえる自信があるのかもしれない。
いずれにしてもそんな大人を相手に、女の子は最後まで一歩も退かなかった。
「すごいんだね、きみは」
腹の底から漏れた呟きだった。その呟きに、女の子はちょっぴり照れた顔で胸を張った。
「そうなのよ。わたしはすごいの。なんたっておひめさまなんだから!」
先ほどまでの口調はなりをひそめていた。子供らしい、とは違う。子供に合わせた口調。
遥か高いところにいながらおれに合わせてくれているのがわかった。
「だからこのくらい……」
相変わらず口数の多い女の子だったが、そこで初めて言葉を濁らせた。そして。
「おひめさまなのに、今はこのくらいのことしかできないけど」
一瞬だけ透き通った瞳を逸らすと、ばつがわるそうに笑った。
「でもわたしが大人のおひめさまになったら、この国をきっとすてきな国にするから。
食べ物もいっぱいで、お父様やお母様がいない子も困らずに暮らせる国にするから。
あなたのことちゃんと助けてあげられるおひめさまになるから。
約束する。わたし、頑張るからね。
だからちょっとだけ待ってて」
そう言って女の子は再び紙袋からドーナツを取り出し、おれの口に向けて差し出した。
十数日ぶりの食事。
何年振りかの、誰かから与えられる食事は、温かくて、ほんのり甘くて、やさしい味がした。
涙があふれて止まらなかった。
一心不乱にドーナツをかじって飲み込む。「お行儀がわるいのね」女の子は微笑んで、おれの涙と口を拭ってくれた。
――その日。おれは生きる目的を見つけた気がした。
この国の“おひめさま”を名乗る女の子。彼女はこの国を変えると言った。
わたし頑張るから。だから待ってて、と言った。
だったらおれはもう少しだけ生きて、彼女の作る世界を見たいと思った。
彼女に出会わなければここで終わるはずだった命。
叶うのなら、彼女の願い事の一部になれたらいい。
見上げた空には、無数の星が輝いていた。
それから数年後。ひとりの少年が、王宮の門を叩いた。
鍛えられた剣の腕前。そして類まれなる“魔術”の素質を買われ、少年は姫君の護衛“七ツ宝具”のひとりに数えられることとなる。
姫君、キャロル=ソレイユ
姫君の盾
姫君の鏡
姫君の籠
姫君の錠
姫君の秤
姫君の冠
そして、姫君の剣。
これは国を変えようとするおひめさまと、彼女を慕う護衛たちの物語。
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