第9章   もうひとつの視点 〜 3

 3




「でも、よかったじゃないか、美津子は最後にはちゃんと、彼女に謝っていたんだから」

 美津子は薄暗い中、ポツンとソファに座っていた。背もたれに寄りかかるでもなく、かと言って背中も丸めず、背筋をピンと伸ばしてまっすぐ前を見つめている。

 そんな姿に、幸喜も黙ってすぐその隣に腰を下ろした。すると美津子が「ふー」と大きく息を吐いて、ここぞとばかりに幸喜は声を掛けたのだった。

「それも、一緒に鎌倉にまで行ってさ、なかなか、できることじゃないよ」

「でも、どうしてなんだろう、わたし、見事に忘れてた。鎌倉のことだって、彼女が一緒だったなんてまるで覚えてなかったし、他にもいろいろ、おかしいって思うくらいに、彼女のことだけがすっぽり抜け落ちちゃってたわ」

「そんなの、誰にだってあることだよ。小学校の名簿見てたって、あれ? こんな名前いたっけ? とかさ、後からこうだったって言われたら、ああそうだったそうだった、なんてのはさ、けっこうザラなんだと思うよ」

 この時幸喜の頭には、ひと月ほど前の由子とのやり取りが浮かんでいた。

 幸喜もそこで問われなければ、美津子同様忘れ去ったままでいただろう。

「人生ぜんぶは、覚えてなんかいられないだろ? 楽しいことも辛かったこともさ、大きくかたよらない程度に忘れていくから、そこそこ思い出を懐かしむことができるんだよ。きっと頭のどこかに天秤ばかりの役目があってさ、残すべき記憶を計ってるんじゃないのかな? あ、これ以上だと、辛い記憶が重くなる、ってな感じでさ」

「じゃあ、わたしの天秤ばかりは、きっと壊れてたんだね。だって、バランスぜんぜんよくないもの。なんたって何もかも、せーんぶ忘れちゃってたんだから……」

「それだけ彼女との思い出に、かなりの後悔があったっていうか、ものすごく辛いものだったって、ことなんじゃないかな……」

 ――俺も、そうだったんだろうか? 

 ふと、そんな思いが浮かび上がるが、すぐさま心の奥に追いやった。

「彼女を思いやる気持ちと、申し訳ないって気持ちが合わさって、一種の防衛本能が働いたんだよ。意識しないまま、辛い記憶にはフタをして、心の奥底に押し込んだのさ、そうしてやっと、心のバランスは保たれた。もちろん、それは若かりし頃の話だよ。でも、その後大人になっても、特に思い出すキッカケがなかったろう? 今回のことが、あるまではね……」

「そうかしら……」

「そうさ、そうに決まってる」

「でも、何がどうあれ、わたしは彼女に連絡を取っていない。ひと月やふた月で忘れちゃうわけはないんだから、それってやっぱり、ひどいよね」

「それはどうかな? 美津子だって、単に連絡を取らなかったわけじゃないと思うんだ。これはあくまでも想像だけど、きっと何度か連絡しようと思ったはずさ。でも、美津子は知ってたんだろ? 入院することとか、その病気がそこそこ大変なやつだって。だから、きっと悩んだんだと思うよ、で、結局連絡しないまま、少しずつ、忘れていった……」

「よく、わかるのね」

「そうだろ? わかるよ、そうに決まってるもん」

 夏休みが終わって学校が始まり、半年とちょっとで中学校へ進学する。そんな新しい生活の中では、忘れるしかなかったんだと自信満々幸喜は言った。

「それにさ、幸一じゃないけど、何もかも二十年以上前のことだよ」

 そう言いながら立ち上がり、彼はキッチンの方へ歩いていった。

「そう言えば、美津子、覚えてるかな?」

 そんな声とともに戻ってきて、再び美津子の隣へ腰掛ける。

「五年でさ、同じクラスになった山本裕行っていたろ? あいついっとき、美津子のことを追いかけ回してたよな」

「追いかけ回してたあ? わたしを? そんなことあったかしら?」

「ほらな、覚えてないだろ? 一応モテたんだからさ、いい方の思い出のはずだろ? そんなんでも、けっこう忘れちゃってたりするんだよな」

 美津子の驚く声を聞いて、幸喜はまさに嬉しそうだ。

「あいつ下着屋からまた転職してさ、なんだかっていうワインの会社に入ったって、この間わざわざ、何本か送ってくれたんだよ。これがその中の、最後の一本でございます」

 そう言って、彼はワインボトルを高々掲げ、もう片方からグラス二つを差し出した。

「あいつ、今度の同期会には出席するって言ってるからさ。ホント、ここで出せてよかったよ、なにかの拍子でさ、ワインの味は? なんて美津子に聞いたらどうしようって、ここんとこずっと思ってたんだ」

 そう言いながらボトルを開けて、二つのグラスへワインをゆっくり注ぎ入れた。それから美津子のグラスに己のグラスを傾けて、小気味のいい音を響かせる。そして顔だけで「乾杯」と告げて、ワインを一気に流し込んだ。

 きっといつもの美津子なら、何に乾杯するのよ? くらいは口にしていたに違いない。

 しかしまるでそんなことなど聞かれずに、妙に静かに、ポツリと響いた。

「ねえ、本当はどうして、会社、辞めようって思ったの?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る