第2章 埋れていた記憶 〜 2

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 どうせ食べやしない。けれどもし、彼女が席に着いたなら……そんなことをつい思い、幸喜は毎朝二人分の食事を準備する。そして決まって残る一人分を、彼はいつも夕食に加えて胃袋に収めた。

 スライスしたオニオンやピーマンなどに、新鮮なトマト、そして軽く湯がいたブロッコリーをのせる。そんなサラダが身体にいいと、彼はここ一年毎朝決まって作り続けた。

 さらに緑黄色野菜をジューサーにかけ、そこに青汁と、りんご酢や蜂蜜なんかも加えるのだ。りんごは皮を剥かず切り分けただけ。もちろんパンなどの炭水化物は一切取ろうとは思わない。

「俺たちくらいの歳になったら、炭水化物を控えた方がいいんだってよ」

「わたしはね、朝は普通にパンが食べたいの! それに冷たいものばっかりじゃ、お腹ばっかり冷えちゃうじゃない! 」

 そう言っていた美津子はここ数ヶ月、家で朝食を食べていない。

ところがこの瞬間、彼女が幸喜の前で自家製サラダを食べていた。オリーブオイルに塩だけで、さっきから黙々とサラダを口に運んでいる。幸喜はとっくに食べ終わり、そんな美津子の様子を不思議な気持ちで見守っていた。そうしてサラダを完食し、美津子はフーッと大きく息を吐いた。それから正面に座る幸喜を見つめ、静かな声を上げるのだ。

「今日って……確か、あなたお休みよね?」

 何事かと思いながらも、幸喜は声を出さずに顎を二度だけ引いて答えた。

「じゃあ、ちょっとお願いがあるんだけど……」

 そんな美津子の声は、ずいぶん久しぶりに聞いたような気がする。

 ここ数ヶ月、美津子は土曜日に家にいたことがない。だからキッチンに現れた時、幸喜の驚きもそこそこのものだった。

 朝、幸喜が目覚めてリビングにいくと、美津子がなんとソファなんかで眠っている。こんなこと結婚して初めてのことだ。それから寝室で横になったようだが、きっとろくに眠れてないのだろう。暗く沈んだ顔で幸喜の前に現れて、「せっかくだから、それ、頂くわ」と、手つかずのサラダを見つめ、静かに幸喜向かってそう呟いた。

 二人はそれから一時間ほどして、幸喜の運転で二人の育った地元へ向かった。

「さて、このパーキングの裏辺りがそうだと思う。とりあえず、降りて歩いてみるか……」

 幸喜は車をコインパーキングに停めて、スマホの画面を見ながら歩き出した。

 美津子の頼みとは、幸喜にとってあまりに意外なことだった。

「矢野さんが、今、どこでどうしているか……知りたいんだけど」

 そう告げる美津子へ、幸喜はただただ黙って頷いたのだ。そして今、スマホに映し出される地図を見ながら、二人は目的地に近付いている。

「ここだ……ここが彼女の家だった。でももう、違う人が住んでるみたいだな」

 由子から聞いて知っていたが、幸喜はあえてそんな言葉を口にした。家は新築のように新しく、表札の名前もまったく違う。

 さて、どうする? ここまでずっと無言のままの美津子に向けて、幸喜はそんな顔をしてみせた。すると表札をジッと見て、美津子がいきなり玄関に向かって歩き出すのだ。

 途中、一回だけ振り返り、

 ――ちょっと待ってて……。 

 口の動きだけでそんなことを伝えてくる。そして躊躇することなく玄関チャイムを二、三度押すが、しばらく待っても反応はないままだ。ところが留守かと諦めかけた時、いかにも面倒くさそうに中年女性が顔を出した。

 ――なに? なんの用なの?

 声にすることなく、顔付きだけでそう言ってくる。美津子は突然の来訪を詫びてから、ずっと頭にあった言葉を女性に向けて投げ掛けた。

「以前矢野さんというお宅が、こちらにお住まいだったはずなんですか、今はどちらにいらっしゃるか、すみません、ご存知じゃありませんか?」

 そんなこと!? 一瞬そんな感じに顔が歪んだ。それでも自分は知らないが、向かいの家なら知っているかもしれないと、面倒臭そうにだが教えてくれる。言われた通り向かいの家を訪ねると、そこそこ高齢の女性が矢野家のことを覚えていてくれた。

「確か、こっちに越してくる前に、どこかの病院で手術してね、一度は普通に生活できるようだったのよ、でも、かわいそうに……また再発しちゃって、確かそれで、またこっちでも入院しなくちゃならなくなったの。ほら、今は子供専門になっちゃってるけど、前は普通の国立病院だったところ……」

 それからなん年かして、直美の家は何も告げぬまま引っ越したらしい。

「すごくね、手術代にお金が掛かったらしいのよ。まあ、噂なんだけど、家もそのために売ったってことらしいわ。かわいい子だったのにねえ……今ごろあの子、どこでどうしてるんだろう……」

 七十にはなっていないのかも知れない。それでも還暦はとうに過ぎているだろう女性が、向かいの家にたった一人で住んでいた。

「ちょうど娘が結婚した頃でね、そんな時に直美ちゃんが引っ越してきて、わたし本当に嬉しかったのよ。だから消息がわかったら、ぜひこのおばちゃんにも教えてちょうだい」

 そう言って頭を下げた後、彼女はちょっと待ってと言って奥へと消えた。そして蒸かしたサツマイモ二本を手にして、再びニコニコしながら現れる。

「今の時代に、こんなのって思うでしょうけど……」

 そう言いながらサツマイモを新聞紙に包み、彼女は二人へ差し出した。それから二人は近くにあった公園のベンチに腰掛け、二人並んで黙々とサツマイモを頬張った。

 あの家を後にして、美津子はずっと泣き続けだった。それなりに人目はあるのだが、そんなこと以上に心が震えてしまったのだろう。かなり思い出したという彼女は、それなりに悲しい結末を覚悟していたはずなのだ。それでも実際に言葉にして聞かされると、想像を超えてショックが大きかったに違いない。

 今現在、子供専門となっている国立の病院。老女が言っていた病院は、直美の家だった場所からその気になれば歩いてだって行けた。だからきっと彼女の言うことは本当で、そして美津子も同じように思ったのだろう。

 落ち着きを取り戻した美津子は開口一番、その病院へ行ってみたいと言い出した。

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