第2章 埋れていた記憶 〜 1(2)

 1(2)

 


「吉田さん!」

 放課後の教室で、美津子は突然直美によって呼び止められた。

 その瞬間、教室に残っていた女子が皆、何かが起きる――そんな感じをきっと思ったに違いない。三名の女子が動きを止めて、ほんの数秒二人の様子に目を向けた。そしてそれからすぐに、逃げるように教室から出ていってしまう。

 二人だけになった教室で、直美はゆっくり美津子の前へ歩み寄った。そして美津子が「何か用なの?」と声にする寸前、そんな言葉を遮るように直美の声が響くのだった。

「わたし、夏休みに入院しなければいけなくなって、もしかしたら今度は、少し長くなるかも知れないの……」

 この段階で、美津子は不思議なくらいに心乱れた。だから何よ――そんな言葉が浮かんだが、とても声にしてしまう勇気が出ない。

「でね、夏休み終わっても、わたしは転校しちゃってると思うから、だから吉田さん、その前にわたしと、仲直りして欲しいの……それで、これ……」

 直美はそう言ってから、両手で抱えていた本を美津子の前に差し出した。

 入院……長くなる……仲直り……。 心の中で、直美の言葉がぐるぐると回った。

 ――転校する? それなら別に、仲直りしたって構わないか……。

 そのまま素直にそう思え、美津子は差し出された本を受取ろうとした。ところがその手を伸ばしかけた時、直美の肩越しにその姿が目に飛び込んだ。

 ――ゆかり!

 彼女と一瞬目が合って、美津子は思わず叫びそうになる。

 ゆかりが教室の入口から、ひょこっと顔をのぞかせていた。ところが直美がいると知ったせいか、すぐにその顔を引っ込めてしまう。その途端、穏やかだった心が波打ち始め、特別だったはずのこの空間が、いつもの日常へと舞い戻ってしまった。

「入院! いいんじゃない!? 」

 思わず、声になっていた。

「なんなら一生入っていればいいのよ! だったらいつかみんなで、お線香を上げに行ってあげるわ! もちろん、病院の霊安室にね! 」

 美津子がそう言い放った時、すでに直美の手に本はない。美津子が一度は本をつかみ、そのまま床に叩き付けたのだ。そして床から響き渡った音を合図に、突き刺すような感情を直美に向けて声にした。

 その時、直美がどんな顔をしていたか、美津子はまるで覚えていない。ただその去り際に、声にしていた己の言葉は不思議なくらいすんなり思い出せた。

「あ、あなたの机ね、私が捨てといてあげるから、だから……」

 そこで一瞬、躊躇した自分がいたように思う。

 しかし次の瞬間には、それは言葉となってしまうのだ。

「……安心して、死んでちょうだい! 」

 すでに歩き出した美津子の、それは背中を向けながらの言葉だった。

言ってしまってから、微かに胸が痛んだような記憶はある。けれど扉の影にいるだろうゆかりを思うと、とても振り返る気になどなれなかった。

 そして夏休みが終わり、やはり戻ってこなかったのだろう。それ以降の記憶に、直美の存在は感じられない。

 彼女はあの時確かに、転校するからと言っていた。けれど由子はそうじゃなかったと言い張っている。もしも由子が言うように、転校したのでないのなら、

 ――まさか……本当に、ずっと入院していたの? 

 溢れ出した涙を拭おうともせず、美津子はじっと彼女の写真を見つめ続けた。

写真の中で、直美は恥ずかしそうに笑みを浮かべ、その前日にあったことなど微塵も感じさせないでいる。

 ――あなたはどうして、あの時何も、言い返さなかったの? 

 さらにどうして、自分はこんなにまで忘れ去っていたのか? もしかしたら、忘れ去るしかないような辛い記憶が、この先にまだまだ潜んでいるのかも知れない。

 ――これ以上……もう、たくさんよ……。

 そんなふうに感じて、美津子はそれ以上考えるのを止めた。

 日が昇り始める時刻まで、もう二時間ほどしか残っていない。今さら風呂に入る気にもなれず、美津子はそのままソファの上で横になった。

 そしてふと、気配を感じて目を開けると、心配そうな幸喜の顔がすぐ目の前にあったのだ。

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