第1章   同級生  ~  4

 同級生 ~ 4


 国立病院などと比較すれば、決して大きいとは言えないかもしれない。けれど個人病院として考えれば、かなり立派な方だと言えるだろう。

 若くして本田総合病院の院長となった本田幸一は当初、難病で苦しんでいる子供たちを助けたいと大学病院への道に進んでいた。ところが本来の目的に近付こうとするだけで、想像を越えて先が長いことを思い知る。あっという間の人生で、そんな時間があまりに惜しいと感じた彼は、急遽人生の舵を切った。難病に苦しむ子供らを救う夢を捨て、熱に苦しんでいる子供や、放っておけば大事に至るかもしれない病人を救う道を選んだのだ。そんなことに日々邁進してきた結果、幸一は三十七歳にして未だ独身。さらにはここなん年も、浮いた噂一つないという状況に陥っている。

「先生、お電話が入ってますけど……」

 診察中の彼に向け、カーテン越しにナースが顔を出した。本来なら診察中の外線電話など取り次がない。しかし彼は今朝に限って、ナースたちにはっきり告げていたのだ。

「ぼく個人宛の電話が掛かってきた場合、相手の名前を聞いてから、一応声を掛けてもらえますか?」         

 幸一個人宛の電話――そんなもの普通なら、病院へ掛かってくることはない。しかしわざわざ掛かってきたとすれば、それなりに重要なことであるはずだろう。

 幸一は昨日、長年使っていた携帯を水溜りに落としてしまった。

コンビニ弁当を買いに出た帰り道、彼は小雨の中にたたずむ「あるもの」を見てしまうのだ。「あっ」と思った時には携帯が滑り落ち、そうなっても視線さえ動かせない。結果、携帯はどっぷり水溜りに浸かった。

びしょ濡れになったその姿を、幸一は遥か昔にも見たことがある。それはもっと土砂降りの日で、哀しそうな目をして幸一のことを見つめていた。しかしその名を心に思ったところで、それはどこかへ消え去り見えなくなった。

 ――きっと、僕は疲れてるんだ……。

 そして今、やはりさっきの姿は一瞬にして消え去ったまま。となれば勘違いであったと思うしかないし、それ以上に問題なのはびしょ濡れになった携帯のことだ。

 そうして幸一は、生まれて初めてスマートフォンを手にするのだ。ところが説明書がない上に、IT音痴である彼はどうしたらいいかわからない。通話くらいはできそうだったが、とにかく手にしているだけで不安になった。だからまた、由子に教えてもらおう――そんなことをすぐ思って、スマートフォンをそのまま引き出しに仕舞い込んだ。

 由子とは、去年一緒に幹事をやった坂本由子。彼女はプロジェクターの使い方から編集までを、幸一にしっかりと手解きしてくれた。実際、編集だけに関して言えば、ほぼほぼ彼女一人でやったようなもの。そんなわけで、携帯が繋がらないからわざわざ病院に掛けてきた。そんな幸一への私用電話は、きっと重要かつ急ぎの用件であるはずなのだ。

「誰からだか、聞いてくれたかい?」

「ええ、でもなんだか変なんです。不幸過ぎて悲しいとかなんとか……」

「すまん、わかった……こっちで出るから回してくれる?」

 重要かつ急ぎであるはずのそれは、まるでそんなものではなかったらしい。

不幸で悲しい。きっとその続きは、そんな境遇なんだと言いたかったに違いない。  

 彼は患者に断りを入れ、机に置かれた電話に手を伸ばした。それから耳に受話器をぴったり押し当て、口元を両手で覆いながら囁くように言ったのだ。

「わかったから、どこだ? いつものところか?」

 次の瞬間、こんなやり取りを聞かせまいとする、幸一の努力も無駄に終わる。

 ――あたりでえす! 待ってまあす! 

 受話器からのそんな声が、一気に診察室に響き渡った。

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