第1章   同級生 -  2

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 一般的に年の瀬を意識し始めるのは、ニュースなどで紅葉を伝えるようになってからだろう。山々から徐々に身近な周辺が色づき始めて、人はやっとそんなことを思うのだ。しかし彼は、ようやく九月になろうかという時期に、年の瀬を迎えているような慌ただしさを感じていた。時の経つのは早いもので、十回目となる同期会開催日が、もうすぐ目の前に迫っていたからだ。

 ――あと、ひと月半しかないんだ……。

 そんな同期会が終わってしまえば、あっという間に年の瀬が押し寄せる。そんな切羽詰った気持ちになって、その日やっと、なかなか言い出せなかったひと言を口にした。

「もう明日から九月だし、そろそろ場所くらい決めてさ、みんなに連絡していかないとまずいよな……」

 向井幸喜はそう言って、妻である美津子に声を掛けた。

しかしいくら待ってもなんの反応もないままだ。

「なんとか、言ったらどうなんだ?」

 声が大きくならないよう、それなりに気を使ったつもりだった。それでも背中を見せっぱなしの美津子には、どうしたって非難するような口調になる。

 土曜日だというのに、きっと会社へ出るのだろう。すでに彼女の格好はくつろぐものではなくなっていて、さらに無言のまま立ち上がり、空になったコーヒーカップを流しへ置きに行こうとするのだった。

「おい、ちょっと待てよ」

 そんな声にも、美津子は立ち止まろうともしなかった。

「じゃあ、いったいどうする気なんだ! 仕事に行ってる場合じゃないだろう!? 同期会なんだから、俺達二人だけのことじゃないんだぜ!?」

 仕事に行ってる場合じゃない……きっとこの部分に反応したのだ  

言い終わった途端に美津子が勢いよく振り返る。幸喜をキッと睨み付けて、それでも充分冷静であろう声を出した。

「ちょっと、あなたと一緒にしないでくれる? わたしはね、幹事なんて引き受けた覚えはありませんから。あなたが勝手に、任せとけって、あの日軽々しく言いふらしたんでしょ? それにわたしは多分、今年は仕事で出れないと思うから……」

「ちょっと待てよ! 幹事が欠席って、なに言ってるんだよ。それにこんな間近にそんなこと言い出して、みんながどう思うと思ってるんだ?」

「みんながどう思おうと関係ないわ。とにかくわたしは知りません。なんなら前回の二人にでも頼めばいいじゃない? お二人とも、気ままな独身貴族だし、由子なんか、働きもせずにブラブラ遊んでるんだから。そうよ、由子と一緒にやりなさいよ。お二人とも、時間なら充分おありでしょう……」

 一瞬、驚いた顔のまま固まった。それからほんの少しの間を置いて、

「今さら、そんなことが言えるかよ!」

 やっとそんな声を出すことができた。しかし絞り出したその声も、すでに玄関を後にした美津子には届かない。

 ――本当なら、同期会なんかに構ってる場合じゃないでしょう!?

 それはまさしく幸喜に向けての気持ちだが、美津子自身についても同じような思いがあった。結婚して一度退職した美津子は、数年前に元いた職場に復帰していた。当初はアルバイト扱いだったが、彼女の頑張りが評価され、今や小さな部を任されるまでになる。そこは文芸書を扱う小さな出版社。時間は不規則で大変だったが、それなりにやり甲斐を感じる職場でもあった。

 今から五年前、二人は三十二歳を迎えて検査を受けた。子宝に恵まれなかったため、近所にあった国立病院を夫婦揃って受診したのだ。

 ――二人の間には、万が一にも子供の誕生はあり得ない。 

 そんな検査結果を聞かされて、幸喜もそれなりにショックを受けた。思い描いていた未来の一部が消え去った瞬間で、今でもその日のことは心の隅に突き刺さったままだ。さらにその時、美津子の見せた落胆ぶりは、幸喜の想像を遥かに超えるものだった。数日で普通に戻ったが、間違いなく幸喜以上にショックを受けていただろうと思う。それから少し経って美津子は会社に復職し、結婚前とは比較にならない頑張りを見せた。休日出勤などざらで、夫婦一緒の時間はあっという間に激減してしまう

それでも、今ある関係よりは大きくマシであったのだ。

 そんな朝の揉め事から一年くらい前のこと、幸喜は美津子に相談もせず、勤めていた会社を辞めてしまった。

「どうしてよ! いったい何があったの?」

 しばらくコンビニでアルバイトでもする。突然そんなことを言い出す夫に、心から裏切られた気持ちになったのだ。

「どうして辞める前に、ちゃんと相談してくれなかったのよ!?」

 さらに理由を聞いても話そうとしない。

「そんなの、おかしいでしょうよ……」

美津子は呆れるようにそう言い放ち、その後しばらく口を聞こうともしなかった。

 幸喜の勤め先は大手証券会社で、同世代で比較すればかなりいい収入の方だろう。それをいきなり捨て去って、しばらく考える時間が欲しい――などと言い出した。

 確かに彼の仕事は朝が早く、夜もしょっちゅう遅くなる。だから辞めたいと思うことだってあるだろうと少しは理解できるのだ。だからと言って、なんの相談もなく退職し、その理由さえわからないでは納得しようもありゃしない。

 結婚したての頃だったが、彼は事あるごとに言っていたのだ。

「社長は無理だとしても、最低でも取締役は保証するよ!」

 ――結局、挫折したんじゃない……。

 そんな過去を思い出し、いつの間にか美津子の足は止まっていたらしい。行き交う雑踏の中、改札手前でしばし立ち尽くしていたようだ。慌てて硬直する顔を弛ませて、美津子はゆっくり歩き出した。そして改札へ吸い込まれる流れを眺めながら、以前心に誓った気持ちを思い起こしていくのだった。

 ――もう関係ない。そんなことは、もう、どうだっていいわ……。

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