23 百万回の好きを貴方へ

 シザーリオ公爵邸を出たキャロルは、フラフラした足どりで町を歩いていた。

 夜通し歩いて、ようやく黒霧の森の近くまで来られたものの、ここまで体力がないとは思わなかった。


(はやく、はやく思い切ってしまわないと、レオン様が探しにいらっしゃるわ……)


 屋敷を出る前に、『好き』と言った回数が見えると懺悔する手紙を、マルヴォーリオにたくしてきた。

 あれを読んだら、いくらレオンでも怒るだろう。

 キャロルに十二夜の薔薇を贈ろうとは、二度と思わないはずだ。


 大好きな人に愛想を尽かされて、平然と生きていけるほど、キャロルは図太くない。

 だから、こうして死に場所に向かっている。


 どうして黒霧の森なのかというと、噛み木がいるからだ。


 かつて、噛み木に噛まれて生死の境をさまよった経験があるキャロルは、次に同じ毒を体に流し込まれることがあったらショック状態におちいって死ぬと、医者に忠告されていた。


 令嬢育ちのキャロルには、他に自分の命をうしなう方法が分からない。なので、噛み木に「噛んでください」とお願いしようと思っている。


「急がなければ……。ですが、足が、重たい……」


 歩き続けたキャロルは、限界を迎えていた。

 どうにも体が重い理由は、それだけではない。


 キャロルの心が、レオンのそばに、いたがっているからだ。

 彼から離れたくないと、悲鳴をあげているからだ。


 胸が苦しくなった。心臓のうえを手で押さえながら、キャロルは前に踏み出す。


 このままでは、噛み木にたどり着くまえに、レオンに捕まって醜態をさらす。

 どこかに身を落ちつけて、揺らぐ覚悟を立て直さなければならない。


 町外れなこともあり、入れるような店はない。

 仕方なく、目についた小さな教会に入った。


 古びたベンチが並んだ奥には、毒を消す泉があった。人気のない礼拝堂には、清らかなせせらぎの音が反響している。


「ここは、たしか解毒の泉で有名な教会ですわね」


 喉を渇きを覚えたキャロルは、石で囲まれた泉のそばに膝をついた。

 冷たい水を手ですくって飲むと、ほのかに甘い余韻がのこる。


「おいしい……」

「お飲みになるなら、こちらのグラスをお使いください」


 声を掛けられて振り向くと、壮年のシスターがいた。とても小柄な人で、ベンチの背もたれにすっぽりと体が隠れている。


「ありがとうございます。いただきます」


 キャロルは、今度はグラスに泉をくみ取って、ひといきに飲み干した。


「――ぷはっ! 生き返りましたわ!!!」

「それはようございました、シザーリオ公爵令嬢キャロル様」

「わたくしをご存じなのですか?」

「存じておりますとも。昔の話になりますが、噛み木に噛まれて、この教会に運ばれてきたキャロル様に、泉をおかけして応急手当を施したのは、この私でございます。それから、毎日の礼拝のたびに、快癒なさいますようにと祈りを捧げておりました」

「まあ!」


 思わぬところで命の恩人に再会できた。キャロルは、巡り合わせに感謝しながら、シスターの前に膝をついて両手を組み合わせた。


「わたくしのために祈りを捧げてくださり、ありがとうございました。おかげさまで、この通り健康に暮らしております」

「私のおかげなどではありません。シスターとして、ここで祈りを捧げるつとめをしたに過ぎませんから。神が聞き届けたのは、かの人の祈りの方でございましょう」


「かの人、とは?」

「レオン王太子殿下でございます」

「え……」


 目を丸くするキャロルに、シスターは顔の皺を深めて、柔らかく微笑んだ。


「殿下は、キャロル様が噛み木に噛まれたと知り、毎日この教会を訪ねてきては礼拝の列に並んで、祈りを捧げておられたのです。ここは、病気や怪我で苦しむ人やその家族のために、誰でも礼拝に参加できるように門を開いておりますので」


 レオンは、毒におかされたキャロルのため、城から離れたこの教会まで毎日のように足を延ばして、民草に混じり無事を祈ってくれていたのだという。


「レオン様が、わたくしのために、そんなことを……」

「それはもう熱心に祈っておられましたよ。当時の殿下はまだ子どもでしたが、快癒を願う文言もすぐに覚えておいででした。さらに、神に思いを届けるにはどうしたらいいかとお尋ねになったので、コツをお教えしましたわ」

「コツがあるのですか」

「ええ。上手くできる人も、できない人もいる方法ですが」


 懐かしそうに、シスターは教えてくれた。


「神に祈りを届けるために必要なのは、気持ちです。文言の一字一句に気持ちを込めて唱えることで、熱意におされて神が聞き届けてくださるものなのです。そう申し上げましたら、殿下は、こうおっしゃられました」


 ――では、おれは『好き』の気持ちを込めよう。


「毒に苦しむキャロル様を神に救ってもらうため、殿下は、文言の一字一句に『好き』のお気持ちを込められたのです。キャロル様がご快癒されたのも、その甲斐あってのことでございましょう」


「そ、その文言は、拝見できますか?」

「そちらに刻んでございますよ」


 シスターが指した先には、巨大な石版があって、神への祈りの文章が刻まれていた。かなりの長さで、一回祈るだけでもへとへとになりそうだ。


「それを朝と夕、そして眠る前に唱えます。殿下は、一日も欠かさずにこなしておいででした」


 レオンが、この文言全てに、キャロルへの『好き』を込めて、一日三回唱えていたとしたら。


「レオン様の好きの回数が『∞』なのは、ひょっとして――」


 毒に倒れたキャロルを案じて、毎日のように、神に祈りを捧げてくれていたからでは。


(レオン様は、わたくしを好きでいてくださったんだわ)


 今はどうだか分からない。

 けれど、昔は、たしかにキャロルを好きでいてくれた。

 思いを伝え合ったことはないけれど、キャロルとレオンは両思いだったのだ。


「……うれしい……」


 涙がこぼれ落ちそうになって天井を見上げたキャロルは、泉の精が描かれたステンドグラスに目がとまった。

 水色のガラスが、朝日を受けてキラキラと輝いている。


 同じ色を瞳にもつ王太子に、猛烈に会いたいと思った。

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