No.206:すっかり忘れていた。


 それは3月最初の金曜日だった。


 オレは改装予定の酒屋の店舗に立って、サイズを測りながら新しい店のイメージをしていた。

 事業計画を立てた段階で、大まかな席数は決めてある。

 おそらくカウンターと4人席が4つに2人席が1つ。

 店全体で、25席前後といったところだ。


「厨房のスペースも必要だから……うん、やっぱそんなところだよな」


 そんなことを考えていると、店の固定電話が鳴った。

 おそらく配達の注文だろう。

 オレは受話器を取った。


「はい、新藤酒店です」


「ああ、どうも。高崎ですけど……えっと、誠治君かい?」


「はい、そうですけど……えっと、高崎さん……あっ、弥生ちゃんの?」


「ああ、そうだ。ご無沙汰してるね。体調の方はどうだい? 随分大変だったみたいじゃないか」


「はい、すっかりご無沙汰してます。おかげさまで、少しづつ良くなってきてます」


 電話の相手は、弥生ちゃんのお父さんだった。


「配達のご注文ですか? おうかがいしますよ」


「いやそうじゃねえ。誠治君、そこのお店を改装して飲食店か何かを始めたいっていうのは本当かい?」


「えっ? あ、はい、そうなんですよ。ちょうどその内装工事の……あーー!!」


 オレはつい大きい声がでてしまった。

 すっかり忘れていた。

 弥生ちゃんの家は、自営の内装関係の工務店じゃないか。

 配達の時に『高崎工務店』と書いてある看板を見ていた。

 なんで忘れていたんだ?


「弥生から聞いたんだが、できるだけ安く済ませたいんだろ? ちょっと俺に見積もらせてもらえねえか? 気に入らなきゃあ、断ってもらえればいい」


「本当ですか? 是非お願いします。借金の額をできるだけ減らしたいんで、初期コストを抑えないといけなくて……見積もりをお願いしても、いいですか?」


「わかった。明日は土曜日だけど、都合はどうだい?」


「あ、はい。大丈夫です」


「わかった。じゃあ明日、そうだな……10時ぐらいにお邪魔するよ」


「わかりました。お待ちしてます。ありがとうございます」


 灯台下暗しだった。

 これは本当に助かる。

 弥生ちゃんのお父さんだから、少なくともボラれることはないだろう。


 そして翌日、高崎さんはやってきた。

 綾音も来てくれて、二人で一緒に話を聞くことにした。


 高崎さんは店を見渡して、サイズを測りだした。

 そしてオレと綾音からカウンターの位置やテーブル席の位置、他にもいろいろな店のイメージを高崎さんに伝えた。


「誠治君、工事は急ぐ必要ってあるのかい?」


「いえ、まだメニューとか飲食店の許認可とかやらないといけないことが多くて……だからそれほど急ぐ必要もないです」


「そうか。であれば……誠治君、工事を手伝えるかい?」


「え、オレがですか? できますかね……」


「まあ力仕事中心に手伝ってもらうことになる。重要な作業は、俺のほうでやるから。ていうのはな……コストを抑えようと思うと、使う『人足』を抑えるのが一番なんだ。人足が増えれば、それだけ給料を払わないといけなくなるだろ? だからコストはどうしたって高くつくんだよ」


「なるほど……そうですよね」


「そこでこの規模の工事だったら、俺一人でなんとかなりそうなんだ。そのかわり誠治君には一緒に資材を運んだり、力仕事の部分やペンキ塗りとかも手伝ってもらう。そうすれば材料費と俺の小遣い程度の料金でいいぞ」


「え? 本当ですか? それだったら、なんでも手伝いますよ。オレでできることでしたら」

「ウチも手伝います!」


「おー、彼女さんの方が頼もしいじゃねえか。それにな、土日は弥生がボランティアで手伝いに来てくれるぞ。あいつ大工道具は一通り使いこなせるからな。そこらの新人よりは、よっぽど使えるぞ。あいつが高校のときから、俺が仕込んでたからな」


 そう言って高崎さんはニヤッと笑った。


「いや実はな。弥生のヤツが『誠治さんを手伝ってあげてほしい』って……俺に頭を下げてきたんだよ。あいつ親に頭を下げてきたことなんて今まで一度もなかったから、俺もびっくりしちまってな」


「弥生ちゃんが……」


「ああ。それで話を聞いたら、店を改装して新しいことを始めるってんだろ? それじゃあ俺も応援させてもらいたいなって思ってな」


「そうだったんですね……ありがとうございます。弥生ちゃんにも、お礼を言わないと」


「とりあえず見積もりを出すのに4-5日、時間をくれるかい? 一応携帯の番号と、メールアドレスを聞いておこうか」


「はい」


 オレは紙に携帯番号とメールアドレスを書いて高崎さんに手渡すと、高崎さんは「それじゃあ、また連絡するから」と言ってそのまま帰ってしまった。


「ほらね。みんな誠治のこと、助けてくれるじゃない」


「ああ、そうだな。本当にありがたいよ」


「それにさ、店の改装を手伝えるんだよ。それってなんかいいよね。手作り感があってさ」


「そうかもしれないな。自分たちの店っていう愛着が湧くかもしれない」


 オレと綾音はもうこの時点で、すでにワクワクしていた。

 そして次の週の水曜日、オレのメールアドレスに見積書が送られてきた。

 中身を見て、オレはひっくり返りそうになった。

 オレと綾音が当初見積もっていた金額の、およそ半分だった。


「高崎さん、この金額……なにかの間違いじゃないですか? いくらなんでも、安すぎませんか?」


 オレはたまらず、高崎さんに確認の電話をした。


「ははは、いや間違っちゃいねぇよ。まあちょっと早いが、俺からの開店祝いみたいなもんだ。それに新藤酒店には昔からお世話になってるからねぇ。そのかわり誠治君、こきつかってやるから覚悟しとくんだぞ」


「は、はい。頑張ります。じゃあこれでお願いしていいですか?」


 オレはもうこの場でお願いすることにした。


「わかった。ただ3月中は俺も現場があって、忙しいんだ。キリもいいし4月の頭から工事開始ってことでどうだ?」


「はい。親父にも確認しますけど、それでいいと思います。酒屋の方も酒の在庫処分をしないといけないので、ちょうどいいと思います」


「じゃあそういうことにしよう。細かいことはまたこれから詰めていくってことでいいかい?」


「はい、よろしくお願いします。本当にありがとうございます」


 電話を切った後も、オレは興奮冷めやらなかった。

 いよいよオレの……いや、オレと綾音の店作りが始まるんだ。

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