No.197:ポンコツ
金曜の夜に綾音のマンションで血を吐いてぶっ倒れたオレは、そのまま救急車で運ばれて5日間の入院となった。
いちおう水曜日に退院したが、医師からはとりあえず今週いっぱいは会社を休んで来週からも決して無理をするなと言われた。
薬も処方してもらって、これからも定期的に通院しないといけない。
会社には既に連絡済みだ。
課長は「お大事にな」とは言ってくれていたが、内心いい気はしていないだろう。
両親には仕事が大変だとだけ話してある。
具体的に何が大変とか話したところで、何の解決にもならない。
かえって心配事を増やすだけだ。
綾音は病院に、毎日見舞いに来てくれた。
そして退院してからもオレの家に毎日来てくれて、夜にオレの両親と一緒に4人で食事をして帰っていった。
オレだけ別メニューで、お粥と煮魚と胃薬だったが。
綾音は、もうほとんどオレ達家族の一員だった。
オレの両親も、綾音に感謝していた。
一週間の休みが終わり、いよいよ月曜の朝会社へ行く時間になった。
もちろん体調は本調子じゃないが、これ以上会社にも迷惑をかけられない。
軽めの朝食を取り、JR三鷹駅まで歩いていく。
歩きながらいろんなことを考える。
会社に行ったら、なんて言われるだろうか。
先週オレが行かなかった担当先は、誰がカバーしてくれたのだろうか。
そしてまた課長から『吊し上げ』が始まるのか。
休んだりしてたら、余計にノルマから遠ざかるじゃないか。
頭が沸騰しそうだった。
少しめまいがした。
駅の改札にICカードをかざして通り抜けた瞬間……
「ウッ……」
胃から酸っぱいものがこみ上げてきた。
ヤバい。
オレは小走りに、駅のトイレに駆け込む。
個室に入り、便器に手をかける。
朝食に取った僅かな食べ物が、すべて口から出てきてしまった。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
オレは腕時計を見る。
ダメだ、遅刻するぞ。
オレは気合を入れ直し、中央線快速上りの7番8番ホームへ向かう。
なんとか会社にたどり着かないと。
ホームに入ってきた電車に、オレはふらつきながらなんとか乗り込む。
もちろん席なんか空いてない。
ドアから一歩中に入って、銀色の細い柱の部分に背中を預ける。
こんな身体で、仕事ができるだろうか。
でもただでさえ、人員が足りない。
オレが行かないと、チームにさらに迷惑がかかる。
いろいろと考えているうちに、全身から変な汗が出てきた。
めまいがして、息苦しい。
身体がふらつく。
すると突然、胃に激痛が走った。
両手を腹の中に入れられ、胃を強くねじられるような……。
綾音のマンションの洗面所で襲われた、あの感覚だ。
電車はどこかの駅に着いたようだった。
オレは開いた電車のドアから、飛び出した。
ホームの端の柱に手をかけ、吐瀉物を吐き出そうとする。
しかし胃からは何もでてこない。
内容物は三鷹駅のトイレで全部出してきたからだ。
口から出てくるのは、胃酸だけ。
地獄のような苦しみに、オレは襲われていた。
オレを避けるように、周りには空間ができた。
多分朝帰りの酔っぱらいだと思われているかもしれない。
オレの吐く声が、あたりに響いていた。
「ハァ、ハァ、ハァ……うぅっ……」
椅子に座りたい。
オレは力を振り絞り、ホーム内の椅子に移動してドカッと座った。
意識が朦朧とする。
ここはどこの駅なんだ?
会社は間に合うのか?
オレは呼吸を整えることに集中する。
どれくらい時間が経っただろうか。
少しだけ気分もおさまった。
しかし、みぞおちの辺りがまだキリキリと痛む。
ゆっくりと周りを見渡すと、駅名の「中野」という文字が目に入った。
ダメだ。
これではとても仕事どころじゃない。
オレは仕事に行くことを諦めた。
しばらくすると、駅員さんがやってきた。
大丈夫ですかと言われたが、オレは休憩していれば大丈夫ですと答えた。
オレは立ち上がって、改札に向かって歩いた。
改札を出て、そのまま中野中央記念病院を目指す。
途中の自販機で水を買って飲んだが、胃はキリキリと痛いままだった。
診療開始より1時間くらい前だったが、病院の自動ドアは開いてくれた。
受付で診察券を入れたあと、オレは待合室のソファに座る。
課長に電話して、電車の中で気分が悪くなったことを報告した。
また今日も一日、会社を休むことにした。
そのままソファでうとうとしていたら、名前を呼ばれた。
診察室に入ると、入院した時にお世話になった内科の先生がいた。
オレはその先生に、今朝の出来事を話した。
「うーん……一度心療内科で見てもらったほうがいいかもしれないね」
そう言われて、看護師さんの案内で心療内科の診察室の前まで移動した。
名前を呼ばれて診察室に入ると、男性の優しそうな先生が診察してくれた。
オレはもう一度、今朝の出来事を話した。
先生はモニターに書かれているオレの電子カルテを時間をかけて見ながら、質問してきた。
オレは胃潰瘍や十二指腸潰瘍の原因は、まず間違いなく今の仕事にあること等、すべて包み隠さず説明した。
先生はずっと聞き手に回っていてくれていた。
不思議なことに全てを話し終えた時、心なしかオレは身体が軽くなったような気がしていた。
「詳しくはもうちょっと調べないといけないのですが……会社での不安やストレスが原因で、パニック発作を引き起こした可能性がありますね。新藤さんの場合ストレスの原因はかなりハッキリしています。難しいかもしれませんが……しばらくお仕事をお休みされることをおすすめします」
オレの話を全て聞いてくれたあと、先生はそう説明してくれた。
「あの……なんとか発作を起こさないような薬はないんですか?」
「内服薬はあるにはあるのですが……現状新藤さんは胃潰瘍と十二指腸潰瘍を患われています。しかも状態はあまりよくありません。パニック発作の薬は胃腸に負担がかかり、副作用として嘔吐感が出る場合もあるんです。従っていまの状態では、投薬はおすすめできません。それよりもストレスの原因となるものから、しばらく距離を置くほうが長い目で見れば回復へ近道だと思いますよ。進藤さん、今の会社でしばらく休職されることは難しいですか?」
「休職……ですか……」
オレはしばらく考えたが……それは難しいだろう。
ただでさえオレの部署は、現状人員が少ない。
これ以上、会社に迷惑はかけられない。
オレは考えてみますと先生に答えて、そのまま診察室を出た。
会計を済まして、駅まで歩いた。
中央線の下りに乗って、家に戻る。
身体は石のように重いが、今朝のような発作の症状は全く出なかった。
普通に電車に乗れている。
やはり……会社に行くときだけ、ということなのか?
家に着くと、オレは自分の部屋で横になった。
母親は心配していたが、会社を早退したとだけ話した。
オレはひどく疲れていて、泥のように眠った。
夕食の時間に起きて、軽めの食事を取る。
お粥、煮魚、胃薬だ。
夜には綾音から連絡があった。
どうだったと訊かれたので、具合が悪くて会社を早退したとだけ答えた。
綾音には……余計な心配をできるだけかけたくない。
翌日、いつものように起きて軽く食事をした。
なんとか会社に行かないと……そんな義務感が強かった。
自宅を出て三鷹駅へ歩いて向かう。
課長は怒っているだろうか。
チームの他のメンバーに、迷惑がかかっていないだろうか。
休んだ期間の資料整理、大変だろうな。
どれぐらい時間がかかるんだろう……。
ずっとそんな心配をしながら、歩いていた。
そして三鷹駅の改札口に着いたときだった。
「ウッ……」
ヤバい。
昨日と同じだ。
オレは歩いてきた道を、反対に駆け出す。
道を一本入って、人気のない場所を探す。
そして電柱に手をかけたまま、口の中から朝食を全て吐き出した。
「ハァ、ハァ、ハァ……なんなんだ、これ……」
ダメだ。
これはダメだ。
「会社へ行く電車に……乗れなくなっちまったのか?」
そんなことがあるのか?
オレはそんなに弱い人間だったのか?
「ふっざけんなよ!」
オレは電柱を手のひらでぶっ叩いた。
グーで叩かなかっただけ、まだ理性が残っていたのかもしれない。
やっぱりこれはダメだろう……。
会社に行く電車に乗れない。
たとえ無理して行ったとしても……おそらく会社で使い物にならない。
「オレは……こんなにポンコツだったのか?」
オレは呆然自失だった。
そのまま電柱にもたれて、天を仰いだ。
電線には残飯を狙ったカラスが何羽も止まっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます