No.170:キスしたい
真一郎さんと晴香さんは、二人の馴れ初めを話してくれた。
二人は明青大の同じテニスサークルだった。
晴香さんが入学したときには、真一郎さんは別の女性と付き合っていた。
でも2年の終わりに、その女性には振られたらしい。
同じサークルで仲が良かった晴香さんが慰めているうちに、恋仲になったということだ。
そのまま付き合いは順調だった。
卒業後、真一郎さんは家業を継いで晴香さんは就職したが、すぐに結婚。
以来晴香さんは退職して専業主婦だが、たまに伝票整理の手伝いをしているということだった。
そんな背景があるからなんだろう。
明日菜ちゃんのご両親は二人とも、俺との交際にはとても好意的だ。
俺としても本当に助かる。
逆に言うと、期待を裏切るようなことは絶対にできない。
オードブルが片付くと、テーブルの中央にスペースを作った。
晴香さんがオーブンから、大きな七面鳥の丸焼きを持ってきた。
その存在感が半端なかった。
その七面鳥を真一郎さんが自ら取り分けてくれた。
俺が手伝いましょうかと聞くと、「これは僕の仕事だからね」と笑顔で言われてしまった。
晴香さんと明日菜ちゃんが、キッチンからビーフシチューを運んできてくれた。
「瑛太君、来年は就活だね。そろそろ準備をしないといけない頃なのかな?」
切り分けた七面鳥を食べながら、真一郎さんは俺に訊いてきた。
「そうなんですよ。実際一部の会社ではインターンが始まっていて参加したりもしたんですけど……メインは3月からの採用情報解禁以降になると思ってます」
「ああ、そっか……大手企業はそうだよね」
「はい。やっぱり就職先は安定したところがいいかなと思ってるんです。自分の場合奨学金の返済が始まるので、返済ができなくなってしまったりすると困るので」
「そうだったんだ。だったら尚更だね。でも……なにかやりたい仕事とか業種とかは、あるのかな?」
「やりたい仕事、ですか……人と関わるのが好きなので、自分では営業とかの適性はあるんじゃないかと思ってます」
「ああ、ごめんごめん。なんだか面接みたいになっちゃたね。とりあえず料理を食べようか。晴香のビーフシチューは美味いんだよ」
「はい、頂きます」
俺はビーフシチューを食べながら、心の中は複雑だった。
きっと真一郎さんが聞きたかったことは、そういうことじゃない。
そして……俺が言いたかったことも、そういうことじゃなかった。
でも……俺はやっぱり大手企業に就職したいと思っている。
その方が明日菜ちゃんのご両親だって、安心してくれるんじゃないか。
そんなことを考えていた。
『やりたい仕事』
真一郎さんの言葉に、あの光景が頭の中をよぎる。
活気あるデンパサールの街並みや屋台村。
日本ではあまり目にしないような美術品や民芸品、家具や雑貨、スーパーの食材。
『日本にいたら逆の仕事もできるよね』と笑顔で言ってくれた、香織さんとの出会い。
でも……それらのことは、今話題にするのには不適切だろう。
「ビーフシチュー、美味しいです。隠し味は赤ワインですか?」
「そうそう、赤ワインとお味噌よ。やっぱり自炊してると違うわね。真一郎さんは全然気づかないわよ」
「あ、赤ワインぐらいはわかるよ」
真一郎さんは、バツが悪そうにそう言った。
「でも大手はいいよなぁ……うちの会社なんか、優秀な大卒学生とか全然来てくれないからね。やっぱり社員70人くらいの中小企業だと、見向きもされないよ」
「そうなんですか?」
「ああ、大卒であれば誰でもいいって訳にもいかないからね。それこそ一般常識がなかったり九九もろくにできない学生とか来られても困るしね。優秀な人材確保というのは、どの会社も頭痛の種だと思うよ」
「やっぱり経営者の方は、大変なんですね」
「大変だよー。それこそ従業員を路頭に迷わす訳にいかないからね。でも逆に自分の考えでいろんなこともできるから面白いよ。もちろんその分リスクを取らないといけないけどね」
「そうなんですね」
経営者の苦労……たしかにプレッシャーが大きいだろうな。
俺なんかじゃ、とても想像がつかない。
七面鳥とビーフシチューと堪能すると、俺は本当に満腹になった。
最後のコーヒーとヴィチーノのケーキは、かなり無理をして食べることになった。
夜9時を過ぎたので、そろそろ失礼することにする。
明日菜ちゃんのご両親に心から御礼を言った。
「また遊びにいらしゃい」と真一郎さんは言ってくれた。
玄関から外に、明日菜ちゃんは見送りに来てくれた。
俺は明日菜ちゃんにも、改めてお礼を言った。
「クリスマスプレゼント、本当になくてよかったの?」
俺はやっぱり心配になって、そう尋ねた。
『今年のクリスマスプレゼントは、ナシにしてくれませんか?』
そう言い出したのは、明日菜ちゃんの方だった。
『どうして?』と訊いてみると『その分来年買ってほしいものがあるんです』ということだった。
『え? 何? 教えてよ』と聞いても、明日菜ちゃんは『内緒です』と言うばかり。
ということは……それなりに高いものかもしれない。
そんなわけで今年はお互いのプレゼントはナシにして、また俺が料理を作って明日菜ちゃんがケーキをもってくるというパターンとなった。
まあ金銭的に余裕のない俺としては、助かっているのだが。
「また来年も一緒にクリスマス、お祝いしましょうね」
「ああ、そうだね」
明日菜ちゃんは小指を出してきた。
俺はそれに自分の小指を絡める。
「明日菜ちゃん」
「はい」
「キスしたい」
「ふえっ? い、いいですけど……」
「でも小春ちゃんが見てる」
「えっ⁉」
明日菜ちゃんが振り返って、二階部分を見上げる。
小春ちゃんがハッとした表情で、急いでカーテンを閉めた。
「も、もう! 小春ったら」
「はは。とりあえず今日は帰るね」
「えっ? は、はい……」
あからさまに明日菜ちゃんはシュンとなった。
「また俺の部屋に来たら……できるでしょ?」
「そ、そうですけど……」
「それ以上のことも」
「そ、それは言っちゃダメですっ」
暗がりでも、明日菜ちゃんの顔が赤くなったのがわかる。
俺は別れを惜しみつつ、冬の夜道を歩き始めていた。
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