最終章
No.164:お願い事
長野の実家に残った俺は、翌週予定通り自動車学校の卒検をパスした。
そして東京へ戻るとすぐさま府中の運転免許センターの試験を終了し、無事自動車免許を手に入れることができた。
皆が東京へ帰った後の俺の実家は、広い空間だけが残って余計に物寂しい。
俺は時間が余ると、明日菜ちゃんのことを考えていた。
俺の隣で花火を見ながら、オレンジ色の光が当たったその表情は本当に綺麗だった。
川遊びに行ったときは、俺に弾けるような笑顔を向けてくれた。
バーベキューの時に明日菜ちゃんに触れられた胸や腕が、熱を帯びていた。
帰り際、「寂しいです」という彼女の肩を、そっと抱きしめたかった。
「ハァ……こりゃ、我ながら重症だな」
長野駅発新宿行きの長距離バスの中で、俺はひとりごちる。
俺は明日菜ちゃんに会いたかった。
あの笑顔を見たい。
ずっと一緒にいたい。
あの華奢の体を抱きしめたい。
週末が待ちきれなかった。
そして週末の日曜日。
いつものように俺はお好み焼きの準備をしていた。
「こんにちはー。お邪魔します」
デニムのミニスカートに、ピンクのブランドTシャツ。
今日の明日菜ちゃんは、真夏の装いだ。
その綺麗な生足に、俺はいつも以上にドキドキさせられていた。
「瑛太さん、おかえりなさいです。免許取れて、よかったですね」
「ああ、おかげさまで。でも東京で実際運転するのは、ちょっと怖いかも」
「うちの車、運転してみますか?」
「無理無理。あんな高級車、ぶつけたら大変だよ」
「案外大丈夫なもんですよ。私もまだぶつけてませんから」
多分それは自分の家の車という安心感があるからだろう。
とりあえず俺はお好み焼きの準備をする。
今日の明日菜ちゃんの差し入れは、明太子にチーズ、それとスコーンだった。
「ありがとう。いつも助かってるよ」
「スコーンはまとめて焼くだけですからね。簡単です」
俺は用意していたお好み焼きのタネに、明太子とチーズを追加する。
ホットプレートにタネを入れると、たちまち香ばしい匂いが立ち込めた。
出来上がったお好み焼きをお皿に取り分けて、二人でいただきますをして食べ始めた。
「今日はデザートも用意したからね」
「えっ? そうなんですか? 楽しみです」
「って言っても、ヴィチーノのケーキだけどね」
「えーっ? 高いやつじゃないですか。どうしたんですか?」
「いや……実は明日菜ちゃんに、ちょっとお願い事があったりして」
俺はちょっと苦笑する。
「えーっ、何ですか何ですか? 気になっちゃいますね」
「……何だと思う?」
「んー……何ですかね……もうちょっと短いスカート、履いてきたほうがいいですか?」
「だ、だから俺は足フェチじゃないって」
「違うんですか?」
「意外そうに言うの、やめてくれる?」
それ以上スカートが短いと、こっちが落ち着かなくなる。
明日菜ちゃんはお好み焼きを食べながら、「んー、何ですかねー」と首を捻っている。
お好み焼きを食べ終えたあと、俺は冷蔵庫からケーキの箱を持ってきた。
ショートケーキとチーズケーキ。
明日菜ちゃんはチーズケーキを選んだ。
ケーキをプレートに乗せて、飲み物も用意する。
明日菜ちゃんはアイスティー、俺はアイスコーヒーだ。
「んー、ヴィチーノのケーキ、やっぱり美味しいです」
「うん、チーズケーキは女性に人気だからね」
「結構ボリュームもありますしね。お好み焼きの後だと、かなりキツいかもです」
「はは、確かにね」
「それで……何ですか? お願い事って」
「ああ……」
俺は言い淀む。
「私にできることですよね?」
「明日菜ちゃんにしか、できないことだよ」
「えーっ? 何だろ……」
明日菜ちゃんは首をかしげながら、アイスティーを口にした。
俺はできるだけ、自然に言った。
「明日菜ちゃん。俺の彼女になってくれないかな?」
「ブフォッ」
明日菜ちゃんは、盛大に噴き出した。
「明日菜ちゃん、大丈夫⁉」
「ケホッ、ケホッ……もう……」
明日菜ちゃんはテーブルの上のティッシュで、テーブルを拭き始めた。
「びっくりするじゃないですか!」
涙目で訴える明日菜ちゃんは、頬がピンク色だ。
「ごめんごめん……その、嫌だったかな?」
「い、嫌なわけないじゃないですか! そ、その……嬉しいんですけど」
「……けど?」
「どうしたのかなって。何かあったんですか?」
「……」
俺は自分の感情を極力まっすぐに言語化する。
「俺さ、明日菜ちゃんと出会って仲良くなって、毎週のようにこうやってお好み焼きとか食べるようになったでしょ? でも俺の中で、それが当たり前のような生活の一部になっていたんだよ」
「はい、私もそうですよ」
「でも最近かな。こんなに可愛い女の子が俺の側にいてくれるなんて……そもそもそれは、全然当たり前のことじゃないんだよ」
「……」
「それでさ、この間皆で俺の実家に来てくれて……明日菜ちゃんも帰った後、俺、めっちゃくちゃ寂しかったんだ。あのあとずっと実家で、明日菜ちゃんのことばっかり考えてた」
「私もですよ。ずっと会いたかったです」
「あの時……帰る直前にさ、俺たち大広間で話したでしょ?」
「はい」
「あの時……俺、抱きしめそうになった。明日菜ちゃんのこと」
「……抱きしめて欲しかったです」
明日菜ちゃんは伏し目がちに、そう呟いた。
「あの時、抱きしめて欲しかったです。本当に私だけ残りたいって思ったんですよ。もちろん実際には無理でしたけど……だから」
明日菜ちゃんはそのままゆっくりと立ち上がった。
そして俺のすぐ横に移動してきた。
「だから……今、抱きしめてくれませんか?」
「明日菜ちゃん……」
「ハグしてほしいです」
明日菜ちゃんは顔を真赤にして、両手を横に広げた。
俺は立ち上がって、彼女の背中にゆっくりと手を回した。
明日菜ちゃんも俺の腰あたりに、手を回す。
そして俺の胸に頬を押し付け、両手をギュッとした。
俺も少しだけ、彼女の背中を引き寄せた。
「明日菜ちゃん」
「……はい」
「好きだよ」
「ファーーッ……」
変な声が明日菜ちゃんの口から漏れてきた。
「も、もう……そんな言葉が瑛太さんの口から聞けるなんて、思ってなかったです」
明日菜ちゃんの顔は俺の胸の中にあるから見ることができない。
でもきっと、真っ赤な顔で話しているんだろうな。
「私はもう、ずっと前から好きだったんですからね」
「……そうだったんだ」
「もう……知ってるくせに」
そう言って明日菜ちゃんは、俺の胸を拳で軽く2回叩いた。
「私、男の人とお付き合いしたことないんです」
「うん、言ってたね」
「それに私……わがままで面倒くさいかもしれませんよ」
「そうかな?」
「それでもいいですか?」
「ああ、俺は今の明日菜ちゃんが好きなんだよ。そのままの明日菜ちゃんが」
「もう……瑛太さん、やっぱり天然のタラシです」
「そんなことないでしょ?」
俺の胸の中で、明日菜ちゃんはクスクスと笑った。
俺たちはそのまましばらく抱き合っていた。
どれぐらい、そうしていただろう。
明日菜ちゃんが俺の胸から顔を離して、視線を上げた。
頬はまだピンク色で、潤んだ瞳で俺を見上げている。
可愛いと思った。
愛おしいと思った。
ずっと俺の側にいてほしいって思った。
俺は彼女の頬に、右手を添える。
二人の顔が近づいて、明日菜ちゃんは瞳を閉じた。
俺の唇と明日菜ちゃんの唇が一瞬だけ重なった。
その瞬間、彼女が俺の両肩にしがみついた。
足の力が抜けてしまったようだ。
俺は腰に手を回して、彼女の身体を支える。
「明日菜ちゃん、大丈夫?」
俺は極力優しく声をかけた。
「あ、足に……力が入らないです……」
弱々しくそう言って、俺にしがみついてきた。
「そうやってつかまってて。大丈夫だから」
「は、はい……」
明日菜ちゃんの声が小さい。
息も少し乱れている。
そういえば……ファーストキスだったんだな。
しばらくそうして立っていたら、明日菜ちゃんも落ち着いてきたようだ。
普通に立てるようになった。
それでも俺の胸に、顔をつけたままだ。
「瑛太さん、さすがに慣れてますねっ」
「そ、そんなことないよ」
ちょっとだけ面倒くさいって思ったことは内緒だ。
しばらくして、俺たちは離れた。
明日菜ちゃんの目は潤んだままで、頬もピンク色のままだった。
また二人とも席に座って、残りのケーキを食べ終えた。
食べ終えたあとの食器を、二人でキッチンに運ぶ。
俺が洗った食器を、明日菜ちゃんが拭いてくれる。
いつものルーティーンだ。
ただ食器を片付けた後、ルーティーン外のことも起こる。
明日菜ちゃんが俺の腕を取って、頭を擦り寄せてきた。
「恋人同士だったら、こういうこともできるんですよねっ」
明日菜ちゃんの声は少し恥ずかしげで、弾んでいた。
俺の左腕が、明日菜ちゃんの右の胸にしっかりと当たっている。
想像以上の大きさというか弾力と言うか……俺はたじろいでしまった。
明日菜ちゃんは恥ずかしそうに顔を赤らめ、俺の顔を見上げてくる。
多分俺の反応をみて、楽しんでいるんだろう。
俺は仕返しに、彼女の額にキスをした。
「ハウッッ」
明日菜ちゃんは顔を俺の腕にうずめて、身体を左右に揺さぶった。
それから左手で、ふたたび俺の胸をポカポカと2回叩いた。
「そういう不意打ちは反則です!」
「どっちが不意打ちなんだか」
明日菜ちゃんはキャイキャイと騒ぎながらも、右手はずっと俺の腕を取ったままだった。
とにかく……俺の彼女は、世界一可愛かった。
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