第3話 何も言えない
「開けてくれ、サトシ」
都内のワンルームマンションにて、エントランスのカメラを覗き込むAZ。返答はない。
「開けてくれ。話をしよう」
やはり、反応はない。
サトシは、体は大きいが、気は人一倍小さい。天才トラックメーカーとして、世間から認知されている彼も、若いころは自分の作った音楽に自信が持てなかった。曲はいくつも作っていたが、人から酷評されるのがいやで、誰にも聞かせず、しがないクラブDJとして生計を立てていた。そんなころ、ダンサーをしていたビネガーと仲良くなる。明るく、大人的な余裕のあるビネガーとしゃべるっていると、不思議なことにだんだん自分に自身が持てるようになる。
初めて曲を聞かせたのもビネガーだ。初めて、サトシの才能を見出したのもビデガーで、グループに加入させたのもビネガーだ。
切っても切れない、絶対的な絆が二人の間にはあった。
「サトシ。ビネガーが、解雇された」
反応のないスピーカーにAZは、伝えた。
ーーー反応はなかった。
AZは、諦めてマンションを去る。
マンションの最上階。
サトシは、エントランススピーカーの目の前で、何も言えずに泣いていた。
サトシのマンションとAZの自宅は山手線に乗って二駅くらいの距離だ。いつもは電車かタクシーを利用しているのだが、AZは徒歩で帰路についていた。全身をねっとりとした疲労感が覆っている。しかし、なぜか電車にもタクシーにも乗る気にはなれなかった。体を動かしたい。じっと座っていると、気持ちが滅入る気がするのだ。
「AZさん?」
背後から聞き覚えのある声がした。
「藍子さん」
運命のイタズラ。
(こんなタイミングで、会うなんて、、、)
性格の悪い、運命のイタズラ。
彼女は、ビネガーの元妻、藍子。藍子の職業は女優で、若いころは清純派女優の代表格の一人だった。そんな彼女とちょい悪オヤジキャラのビネガーとの結婚は、当時世間の話題となった。
「随分疲れて見えますけど、お仕事からの帰りですか?」
「おーい、藍子ーはよいこー」
道沿いのスーパーから、子供の手を引いている藍子の母が彼女を呼ぶ。
「おかん!先行っといて、お友達とちょっと立ち話していくわ」
「ちょっとっていって、あんたいっつも長くなるやろ」
「ええから、先いっとき!」
母と話すとき、彼女は関西弁になる。
「大きくなりましたね」
AZが子供を見て言った。ビネガーの子供である。
「そうでしょ。子供って早いですよね。AZさんの子供は、何歳になったんですか?」
藍子の話し言葉は、標準語に戻る。
「上の子はもう14歳ですよ」
「もう反抗期ですね。大変でしょ?」
大変でしょ?という問いかけに、AZは答えることができなかった。AZは、苦笑いで返した。
「この辺りで、お仕事だったんですか?」
「いや、違うんです」
「あ、今日はオフだったんですね?」
「いや、違うんです・・・」
藍子は、首を横に傾け、(どうゆうこと?)という、そぶりを見せた。
「あの・・・」
AZはバツの悪そうな表情で、必死に次の会話の話題を引っ張り出そうとした。しかし、うまくいかない。
「元主人の事ですね?」
藍子が微笑みながら言った。
「はい」
「クビになったんですよね?」
「えっ、どうして知ってるんですか?」
「そりゃ、同じ事務所ですもん。この度は、大変、ご迷惑をおかけしました」
藍子が深々と頭を下げた。
離婚までの過程が、どれだけ過酷だったかは、想像に難くない。カオリが、毎夜、マンションの下に現れ、大声を出す、呼び鈴を鳴らす、ごみを投げ入れるといった迷惑行為を繰り返すのだ。
「どうしようもないですよね。あの人」
藍子が笑った。
AZの錯覚かもしれないが、その瞬間、心地よい夕方の風が、東京を駆け抜けた。
藍子の魅力がすうっと、AZの中に染み込んでいった。
(なんて素敵な女性なんだ)
同時に、AZの中で、ビネガーに対する激しい怒りがこみ上げてきた。
恐怖と疲労で、精神を病んでもおかしくないだろう。すぐに離婚届けをビネガーに突き付けて当然だが、彼女は何カ月も耐えた。それどころか、何とか離婚せずに事態を収めようと、必死にビネガーに連絡を取ろうとしたという。
「どうして、、、あんな状況になっても、すぐに離婚しなかったんですか?」
非常識な質問であることは、十分に分かっている。だけれど、AZは聞かずにはいられなかった。
「えっ、そりゃあ、子供の親ですし、、、昔は、好きで結婚した人ですから、、、」
「・・・今は・・・?」
(しまった!)
いくらなんでも、考えられない失言をしてしまったとAZは思ったが、藍子は笑顔で返した。
「ノーコメントで!」
彼女の笑顔は輝いていた。
「じゃあね」
彼女は去っていった。
彼女の後ろ姿を、AZはただ見つめていた。そのまなざしは、尊敬によるものだ。
AZの中で、マグマのようにビネガーへの怒りの感情がさらにこみ上げた。
(あの野郎!ぶん殴ってやる!)
先ほどのODAへの意見を自ら撤回した。
AZの中でマグマのようにエネルギーが湧き出してきたところで、携帯が鳴った。画面には「サトシ」の文字。
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