幕間

第31話 教会

それは古びた教会だった。


ウィザの村にも何人か傾倒する者がいたらしい____「女神信仰」というもの。

たったひとりの女性の姿をした超常的な存在が、混沌に満ちるこの世界を浄化し、数多の生命を生み出したのだという。

大抵はそのあとに、混沌に潜んでいた魔物を制御しきれなかった女神が眷属たる英雄を遣わし、彼らが正義の名の下に世界を統治するようになった…などという物語が付け加えられる。

人々はこの後半部分をより重視し、いま世界を席巻するのは言わずもがな英雄信仰である。

彼らの上に立つ国の統治者たちにとっても、こちらの方がよほど都合が良かった。


話を戻して、ウィザから少し離れた森の奥にある、壁中に蔦が這い所々損傷すらしているみすぼらしい様子の箱型の建物。

それは紛れもなく、女神を崇拝するための教会であった。

そしてその前に今、月明かりに照らされ黒く巨大なシルエットが浮かび上がる。

彼は黄金の瞳だけをぎらつかせて、教会を上から下までじろじろと眺めていた。

どれほど経ったろうか____

やがて注意深く辺りを見回しながら、のそのそと建物に近づき、扉の位置を探り始める。

民家の扉のように小さく簡素なそれは、事もなげにギイイと音を立てて開いた。


中は外から見た以上にこじんまりとした空間だった。

木製の長椅子が所狭しと並べられ、奥には祭壇のようなものがある。

その上には恐らく女神を象ったと思われる彫像が目を閉じて微笑んでいる。

そこに射すのは壁際の窓から覗く月の光。

どことなく幻想的な光景だった。

彼は鈍い動作で、扉から一番近い長椅子の端に腰掛ける。

そして顔を項垂れ、女神がそうしているように静かに目を閉じた。

(ああ、やっと落ち着いた)

彼___ルヴァン・フォルモントは、内心ほっとしながら思考を巡らせる。

(危ないところだった。洞窟すらないとは。ここなら流石に誰も来ないだろう)

女神の聖域に魔者たる彼が入るのはとんだ罰当たりかもしれなかった。

しかし彼自身に害をなす気は無いし、それでも問題ならばこの場で裁いてくれたって構わない。

彼は既に自らの生も死も諦めていた。

剛毛に覆われた辛うじて人の手の形をしたそれを組み合わせて、祈るような体勢を取る。

(…女神様、俺はもう疲れました。永遠の安息は望まない。ただこの夜だけは休ませてください)

疲れ果てた脳裏に浮かぶのは、自分をどこまでも追い立て、同時に恐れ慄く人間たちの姿。

そして思い出の中の少女。

(メイは…アルメイジェンヌはどうしているだろうか。元気だろうか…俺を殺しに来るだろうか。もしそうならこちらから出向いてやるのに)

「その日」の想像は嫌というほどしてきた。

彼女が復讐のために彼のもとを訪れるのならばそれは本望で、もっとも幸福な結末だ。

しかし彼の身体はとてつもなく頑丈だった。

自分で試した百を越えるどの方法をもってしても、死神の気配はまるで感じられなかった。

人間の姿の時に死を試みても気が付けば狼の姿で寝転がっていたりする。

もし無意識の間に暴れているようなことがあったらと考えるとあまり無謀なこともできない。

(そうだ、銀の森だ。あの森は魔者を殺すと誰かが言っていた。どこにあるかも知らないが…もし彼女が来なかったり、失敗するようなことがあれば探しに行こう。今度こそ…)

考えているうちに意識が遠のいてくる。

この時期は月の力が強いのか一際刺激されやすく、連日のようにオオカミに姿を変えては人に見られぬよう逃げるのを繰り返していた。

眠れない夜が続き、変化による膨大な疲労も重なって限界が近い。

このまま死ねるならそれもいいか、そんなことを思いながら意識を手放そうとした、その時だった。

「誰かいるのですか」

人間の、声がした。

ルヴァンは反射的に顔を上げて立ち上がる。

「…あ、あ………」

声の主は部屋の奥、隠れるようにあった小さな扉を開けて出てきている。

白髪に眼鏡をかけ、黒いローブに身を包んだ老人だった。

そして今は目の前の巨大なオオカミの姿を認めてわなわなとランタンを持った手と細い足を振るわせている。

「…おお女神よ……私をお導きください。どうぞ魔の手から私を護り、貴女の御許へ……」

目を瞑りぶつぶつと唱えるそれは祈りの言葉のようだった。

そこからは聖なる気が放たれているようで、ルヴァンは肌が粟立つような居心地の悪い感覚を覚える。

「…グ、ゥゥ……」

彼はよろめき椅子の背に手をつきながら、後ずさって扉の方に踵を返そうとする。

だが老人の言葉が重なるうちに身体が重くなり、やがてどさりと崩れるように扉の前に倒れた。

これでは本当に「魔物」だな、と彼はどこか他人事のように考える。

それを見て我に返ったのか、老人は言葉を止めて慌てたようにオオカミへ駆け寄った。

「す、すみません。大丈夫ですか」

ルヴァンは横になった状態のまま、瞳だけを老人の方に動かす。

相変わらず恐怖に震えながらも、僅かに心配が勝ったというような表情だった。

とはいえ、下手に動けば刺激しかねない。

早く立ち去らなければ…そう思うが身体に力が入らなかった。

代わりにずるり、ずるりと巨体を引きずるようにして老人から距離を取る。

その様子を見て老人はむしろ安心したらしかった。

「怖がらせてしまいましたか。申し訳ありません。ああ珍しくないのですよ、ここも人が来なくなってからは魔者や動物の棲家に……しかしあなたのような、その、大きな方はこれまでいなかったので」

彼は獣に伝わるかもわからない言葉を次々に並び立てる。

「先ほどから気配は感じていたのです。動かない様子なので、きっと祈りを捧げているのだろう、邪魔しないようにとは思ったのですが」

なおも言葉を続ける彼にルヴァンは妙な心地になって、同時に段々と力が戻ってきたのを察して床に手をつき身体を起こす。

「…ウゥ……」

当たり前だがこの状態で人の言葉は話せない。

ただ頭を下げ身体を縮め、どうにか謝罪の意志を示そうとする。

「おや…」

老人は少し驚いたように目を見開くも、やがて意図を理解したように微笑んだ。


「ここは元々小さな神殿でしてね。人が訪れるようになってからは、教会として教えを広める場に変わりました。とはいえ最近はめっきり人も来なくなり…私は何の肩書きもなく、ただのフィリップとお呼びください」

長椅子に並んで腰掛けながら、フィリップはゆったりと昔話を披露していた。

彼の肝の据わり具合は見事なものだった。

ルヴァンのこの姿を見た者は大抵は先ほどのフィリップかそれ以上の反応を見せ、出会い頭に発砲してくる者とて少なくはない。

しかし彼は一瞬驚いたきり、旧くからの友のようにこうして隣で話し続けている。

ルヴァンは静かに耳を傾けながら、どことなく安らいだ気持ちで女神像を見上げていた。

「貴方は随分と大人しいですねぇ」

フィリップはすっかり緊張も解れた様子で言った。

「先ほども話しましたが、ここには動物も魔者も色々と来ます。その度に家中を荒らされたりもしたのですよ。でも貴方はただ女神を見上げるだけだ。まるで神の遣いのように」

まさか、とルヴァンは心の中で全力で否定をする。

神の遣いは人を出会い頭に恐れ慄かせたりしないものだ。

「どうでしょうか。威厳あるその姿に平伏した人間も多いと聞きますよ」

まさか____と思いかけたところでルヴァンはハッとした。

(言葉が通じた?)

フィリップは相変わらず微笑んだまま、しかし眠いのか一度欠伸をするとうつらうつらと船を漕ぎ始める。

(…まさかな)

釣られるようにルヴァンも目を閉じた。


夜が明けると、ルヴァンはフィリップに悟られぬうちに急いで教会を出た。

衣服がなくては人の姿に戻れないので取りに戻らねばならなかったのだ。

不運にも誰かに見つかって盗られていなければの話だが。

幸運にも女神像近くの演台に筆記用具が置いてあったので、どうにか走り書きを残しておいた。

『ありがとう。助かりました』

人の姿の時のように器用には書けずみみずの這うような文字になってしまったが。

どうにか伝わるように、祈りを込めながら。


_______...........


「ここがその教会なのね?」

メイとルヴァンが共にジルバの街を抜けて数日が経った。

ようやく心境的にも落ち着いてきたあたりで、ルヴァンは自分たちが歩いているのが少し懐かしい場所であったことに気付いた。

「ああ。変わり者の…親切な人だった」

しみじみと古びた教会を見上げる。

「…でも、ここからは人の気配は感じられないわ」

メイは訝しげに言う。

「俺もそう思っていた。だけど入ってみたら居たんだ」

「ふうん。じゃあ、入ってみましょう」

ふたりは小さな扉をギイイと開けて中へ入る。

彼の記憶に間違いはなく、所狭しと並べられた長椅子に微笑みの女神像、窓から射すのはまだ高い太陽の光。

「その奥から現れた」

ルヴァンが部屋の奥を指差すと、メイはそろりそろりと、しかし臆せずそちらに進む。

そして扉に手と耳を当てた。

「やっぱり人なんていなさそうだけど」

「…そうか」

出掛けているのだろうか。

それとも、もうここには居ないのだろうか。

「でもよかった。ルヴァンのことを分かってくれる人がいて」

メイはルヴァンの方を振り返ると微笑む。

彼女の笑みもこの数日でだいぶ柔らかいものへと変化していた。

ルヴァンもぎこちないながら微笑みを返す。


それからふたりは並んで長椅子に腰掛け、目を閉じて祈りの姿勢を取った。

教会を出れば再び旅が始まる。

果てなく、命の危険が常に隣り合わせの旅が。

しかし今だけは________

互いの温度だけを感じられる穏やかな時間が、何物にも邪魔されることがないよう願うのだった。

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