第29話 夜明け

真っ暗な地下に騒々しい足音が響く。

幼い頃の記憶を辿っていたメイは慌てて意識を引き戻した。

「アンタたち!まずいわよ、協会の奴らがこっちに……って、お取り込み中だった?」

派手にドアを開けて入ってきたのはセシルだった。

「セシル?どうしてここに…」

「どうしてって、自分の家に入っちゃいけない道理がある?」

えっ、と振り返るとオオカミが物言いたげに彼を見つめている。

そこでようやくメイは理解する。

ここは酒場の地下だ。

やはり二人は知り合いだったらしい。

オオカミはセシルの許可を取ってメイをここに匿ったのだろう。

「…協会が、来てるの?」

話を戻すとセシルは頷く。

「赤ずきんも『魔者』として捕獲対象に切り替えたんだって。面倒なことになったわね。ウチにいるのがバレるのも時間の問題だし、夜が明けたらすぐにでもここを出た方がいいかも」

後ろのほうで気配が動いた。

彼も動揺しているのだろう。

メイにとっては想定していた事態だった。

振り返って、もう一度オオカミの目を見据える。

「オオカミさん。…私あなたに謝らなきゃいけないことが沢山ある。お礼を言いたいことも…だから」

きっと、とても図々しいことを言おうとしている。

それでも思い出してしまったのだ。

温かな日々を、二度と失いたくない記憶を。

ここで協会に捕まるわけにはいかない。

唾を呑み込んでメイは続ける。

「夜が明けたら、私と一緒に逃げてほしいの」



結局、その夜のうちに英雄協会が攻め入ってくるようなことはなかった。

「あっちも夜が明けるのを待っているのかしら。やっぱり夜のうちに出ていけば」

店の窓から白んできた空を見やりつつ呟くメイに、セシルは首を振る。

「ダメよ。アイツもあの姿じゃ目立つし」

「…それはいつ出ていっても同じでしょう?むしろ昼間の方が目立つんじゃ」

「アラ、全部思い出したんじゃなかったの?」

問われてメイはきょとんとする。

全部?

彼にはもう一つ別の姿があるとでも____

そして唐突に「あっ」と思い当たった。

(そうだ、あの花畑で会った男の子)

村の子どもだと思っていた彼こそが『わんちゃん』…オオカミの化身だったことが今ではわかる。

親切な忠告を、先入観ゆえの恐怖心からろくに聞かずに逃げ出してしまった。

つまり彼は人の姿も取れるということだ。

「陽の光の下だと、人間になれるの?」

彼と本当に話ができるかもしれない。

途端に鼓動が早くなる。

思えば彼女の心臓は最近ずっとこんな調子だった。

でも今回のそれはまったく別の意味合いだ。

それはオオカミを宿敵と認識していたときからずっと望んでいたことだから。

「そうねぇ、そろそろ戻ってるんじゃないかしら。ここはアタシが見張っとくから様子見てきたら」

メイは頷くなりキッチンへ駆けていき、奥にある重たい扉をゆっくりと開けた。

ただの物入れだと思っていたこの扉がまさか地下に繋がっているなど考えもしなかった。

オオカミは元からこの場所を知っていたのだろうか。

(…そんなに仲が良かったのなら、先に言ってくれていればよかったのに)

こつこつと足音を響かせながら心の中で呟く。

とはいえ、気持ちの整理のついていない状態でそんなことを言われたところで全く動じないという自信もなかった。

これが最善だったのだろう。

階段を下りていくと、しかし昨夜この辺りに満ちていた禍々しい気配は奇妙なほどに感じられない。

だが無人というわけでもなさそうだ。

微かだが衣の擦れる音が聞こえる。

薄く開いた地下室の扉の前に立ち、メイは緊張しながらノックをする。

「…入っても?」

小さな音がぴたりと止まる。

しばらくして、控えめな声が返ってきた。

「どうぞ」

聞き覚えがある気がする。

小さなころの記憶だろうか?

訝しみながら扉を開いて____息を呑んだ。


聞き覚えがあるどころではない。

昨日自分が寝ていたベッドに腰かけているのは、よれよれの白いボタン付きのシャツを着た、ぼさぼさの黒髪の青年…

「ルヴァン?」

呼びかけられて彼は怯えたように顔を背ける。

「…あなたがオオカミさん、なの?」

途端、これまでのメイと彼とのやり取りが走馬灯のように駆け巡る。

メイを避けている様子なのに会えば何かと世話を焼いてくる。

話すたびに違和感と妙な懐かしさを覚える。

時々頭の片隅を過ぎっては気になって仕方ない。

段々と重なっていく現実と記憶の中の花畑、そこに立つ少年の姿……

すべてが繋がった。

「ごめん」

ルヴァンは目を伏せる。

「ずっと…騙していて、ごめん」

消え入りそうな声にメイは慌てて首を振った。

「騙されたなんて思ってない。むしろあなたで安心したわ」

思わず本音が口からこぼれる。

「私のほうこそごめんなさい、今まで冷たい態度を取って」

「それは俺の台詞だ。君を遠ざけるために酷いことを言った。…それより」

ルヴァンは少し思案したあと、意を決したように口を開く。

「呪いは、オオカミを殺さなければ消えないだろう。俺はいつでも覚悟はできてる」

その目にはいつになく真剣な色が宿っている。

悲しくなるほどに真っ直ぐな、とうに覚悟を決めた者の瞳だった。

「できないわ」

だからこそメイは強い口調で否定する。

「ずっとそうすべきだと思っていたし、私の使命が…これまで生きてきた目的が消えてしまうのは怖い。それでもこの不安をあなたに向けるのだけは違うと思うの。今さら、だけど」

溢れそうな感情をどうにか押し殺しながら、一歩、一歩とルヴァンのもとに歩みを進める。

「あなたは私を救ってくれた。私があなたを忘れても、この手で殺そうとしたときも」

見上げると彼は緊張した面持ちで少女を見下ろしている。

金色の瞳は奥まで透き通るようで美しかった。

「洞窟で会った夜、あなたは人里に行かなかったでしょう。オオカミの時はいつもああして篭っているの?人間を襲いたいと思ったことは?」

「まさか。理性の無い怪物になるつもりはないよ。…いや、怪物は怪物か」

自重気味に笑って目を伏せる彼の頬に、メイは思わず手を伸ばす。

途端びくっと肩を震わせて、戸惑ったように彼女を見つめ返した。

昨日オオカミがそうしたように。

姿かたちはまるで違えどやはり同じなのだ。

その事実にようやく安心した。

「わんちゃん」

記憶を辿って呼びかける。

「…覚えてたんだな。随分昔のことなのに」

「あなたのおかげで思い出したの。あなたはオオカミじゃない、私のはじめての友達になってくれた真っ黒なわんちゃん。私はそれを勘違いで殺そうとした愚かな赤ずきん。そういうことに、ならないかな」

「君の母さんが浮かばれないだろう。天敵に情けをかけたと知ったらきっと天国で悲しむ」

「それなら、死んだ後で謝りに行くわ。地獄に落ちてもいい。また取り返しのつかない過ちを犯すよりずっと」

淡々と、しかし真摯に言葉を重ねていく。

想いが伝わるように祈りながら。

やがて、ルヴァンの顔から険しさが消えていくのが分かった。

代わりに浮かぶのは迷子の少年のような幼い表情。

「…本当は」

彼は小さく口を開く。

「もっと君と、話がしたかった。お礼を言いたかった。君のおかげで俺は人の心を失わずに済んだんだ」

触れた大きな手から温もりが伝わってくる。

メイよりも少し低い、だけど人のそれと変わらない優しい感触。

赤ずきんもオオカミも、人も魔者も、そこに明確な違いなどなかったのだ。

呪いは完全には消えないのかもしれない。

またいつか遠い子孫がいがみ合う日が来るのかもしれない。

だけれどこうやって、また手と手を重ね合うことさえできれば____

「うん。ありがとう」

メイはぎゅっと一層強くその手を握った。


時間とは残酷なものだ。

にわかに上が騒がしくなり、しばし二人の世界に浸っていたメイとルヴァンは旅立ちの時が来たことを悟る。

「まさか、協会?」

「…気配は感じない。多分セシルが急かしているんだろう」

結局、二人でジルバの街を出て、ほとぼりが冷めるまでは人目を避けつつ国を出るように進む方向で調整していた。

どこか遠く、協会の目の届かないところへ。

本当なら別々に行動を取るのが最善策なのだろうが、傷の完全に癒えていないメイの身体ではどこまで行けるかという不安もあった。

「何ならオオカミの姿でメイを乗せながら移動するのもアリかもね。瘴気が漏れて位置バレする危険はあるけど」

セシルの提案にルヴァンは頷く。

「そうだな。いざというときは俺を囮にすれば」

「やめて、できるだけ安全策でいきましょう」

自らを投げ打つことに関しては全く抵抗のないルヴァンなので、既に旅路に不安が募るメイだった。


「行くのね。寂しくなるわ」

最低限の荷物を詰んだ小さな皮袋を持って、二人は今まさにキッチンの窓から外へ出ようとしている。

「また戻ってくるから」

メイは半ば自分に言い聞かせるように言う。

正直自信はない。

次に会う時は協会の地下牢の中かもしれない。

それとも____

「そんな不安そうな顔しないでよ。ルヴァン、その子を頼んだわよ」

「もちろん。…アルメイジェンヌ、何があっても俺が君を守る」

「何があってもは駄目、私もあなたを守るから」

「ったく、見せつけてくれるわねェ」

やっと三人気兼ねなく話ができるようになった。

しかしその嬉しさも儚く、生まれたばかりの日常はあっという間に遠ざかる。

だからこそ約束をするのだ。

いつか現実となるように。

「じゃ、行ってらっしゃい」

「行ってきます」

東の空に浮かぶ太陽の光を背に受けて、長い旅路は密やかに幕を開けた。

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