第28話 アッシュの決断

「アッシュ!無事ですか、アッシュ!」

鬼気迫るような声に、アッシュはようやく身体を起こす。

「…ああ、ユキ。ようやく名前で呼んでくれたね…」

「何死に際みたいな台詞言ってるんですか、いくらシンデレラと呼んでも起きなかったからですよ。それより…オオカミを逃がしました。赤ずきんもです。今すぐ追わなければ」

「そこに、金髪の青年は居たか?」

「ええ、出くわしていたのですね。彼は吸血鬼、同じく特級の魔者でした。不意を突かれた隙に、獣に赤ずきんを攫われて…申し訳ありません」

「そうか」

アッシュは静かに呟くと、視線を遠くへ移す。

(後悔させないでくれよ)


アッシュの銀の剣先は確かにオオカミに届いた。

しかしそれはものの見事に弾かれて、気付けば組み伏せられる形となっていた。

すかさず拳で反撃しようとしたがそれも押さえられた。

まあ、最初から分かっていた話だった。

英雄と言えどただの人間であるアッシュに、オオカミの攻撃は防ぎきれない。

ただの時間稼ぎだった。

(しかし、思ったよりキツいな。瘴気の侵食が激しい。意識が飛びそうだ)

ここでアッシュが死んだところで結界は破れない。

オオカミは結界から出られない。

良くて討伐、悪くて心中というわけだ。

「あきらめろ…獣。私は、噓をついた。私を倒したところでこの結界からは出られない」

殆ど独り言のつもりだったが、オオカミは明らかに動揺したように瞳を揺らした。

そして押さえつけられた拳が徐々に緩んでいく。

(こいつ、私の言葉がわかっているのか)

確かに知性があると聞いてはいたが。

あの人間の青年の姿も完全にまやかしというわけではないらしい。

その時、どこからか争うような音が聞こえた。

「…けれど、…なら……を呪うことね」

「それなら…から…ていたわ」

ユキとメイの声だ。

(ユキ、まさかメイに傷をつけているわけじゃないだろうな)

気付けばオオカミも声の方向をじっと見ている。

なにか焦っているようだった。

その時。

小さな叫び声が聞こえた。

(メイ!)

悪い予感が的中したのだ。

少女の気配が薄くなっていく。

それはつまり生命力が弱まっているということだ。

英雄どうしは目に見えぬ糸で繋がっている。

彼女の状態が手に取るようにわかる________

早く身体を起こさなくては。

しかし思うように動かない。

アッシュは昔から、瘴気の類には極端に弱かった。

それでも彼女は強かった。

魔者との戦いはいつも短期決戦、影響を受ける前に決着はついていた。

だが目の前にいるのは銀ですら太刀打ちできない特級の魔者。

さらにここは人の魔力すら奪うという銀の森、結界という密閉空間の中。

熱を逃がそうにもどうしようもない。

汗を滲ませながら視線を動かすと、オオカミがやはり必死な様子で壁に体当たりを繰り返していた。

「ガアアッ!!!」

吐き出すように吼えるのは、獲物を目の前にして何もできない悔しさだろうか。

しかしそれにしては悲壮感が伝わってくるような…

「ルヴァン!」

まったく聞き覚えのない別の声が飛んできて、アッシュもオオカミも同時にそちらへ振り返る。

「なにちゃちな結界なんかに閉じ込められてるのよ。今の悲鳴聞いた?早くメイを探さないと」

そこに立つのはバーテンダーのような衣装に身を包んだ金髪の青年。

威勢のいい声を張り上げながら、彼にもこちらの様子は見えていないらしくきょろきょろと辺りを見回している。

「…あなたは、メイの知り合いか?」

どうにかアッシュが問うと、青年は振り返る。

「誰?英雄?…ってことは、アンタがそいつを閉じ込めたってわけ?」

「そうだ、赤ずきんを守るためにな」

「じゃあ奇遇ね、アタシたちも同じよ。さっさとこのムカつく壁を解除してくれない?その獣が必要なのよ」

「でもこいつは…メイの命を狙っている」

「そう見える?」

視線を移すと、オオカミは未だ悲鳴の聞こえた方を見据えたまま、透明な壁に鋭い爪を立てるばかりだった。

食いしばる歯の間から荒々しく息が漏れている。

やはり危険な存在にしか見えない。

そのはずなのに__________

(『早く、助けに行かなければ』)

不意に、感情が共鳴するかのような奇妙な感覚を覚えた。

強い焦燥感がありありと伝わってくる。

どこから?

この獣から?

まさか!

英雄が魔者の心に共鳴するなどあり得るものか。

(落ち着け。何かの罠かもしれない)

壁向こうの青年だって信用ならないのだ。

選択を間違えてはならない。

そう考えているうちにも意識が遠のいていく。

ああ、この身体の自由さえ効けば!

すると青年が困ったようにため息をつく。

「…信用できないならそれでいいわ。でも事は一刻を争うのよ。こうしている間にもメイは…」

「分かってる!」

アッシュは吐き出すように返した。

大きくひとつ深呼吸をする。

少し頭が冷えてきた。

選択肢などなかったのだ。

最初から。

「……約束してくれ、彼女に手出しはしないと……私の命を引き換えにしてもいい。だがもし、彼女に何かあれば……協会が、お前たちを……」

「大袈裟ね、そんな真似しないわよ。あの子は大事な店の従業員なんだから」

軽やかに彼は言った。

きっと、彼らは嘘をつかない。

頼りない直感を今は信じるしかなかった。

アッシュは必死の思いで詠唱を始める。

残りの力すべてを振り絞るように_____


そして気付けばユキの腕の中にいた。

「ユキ、頼みがある」

「はい?」

「今すぐ本部に戻ってくれ。これは私の失態だ。私が片を付ける」

「しかし!あんな危険な魔者を貴方ひとりに任せるわけにはいきません。それに貴方は一度相手に敗北しています。私も残って_____」

「問題ない、考えがある。それに失態を犯したのは君も同じだろう。私は赤ずきんを傷つけるなと言ったはずだ」

その言葉にユキは気まずそうに視線を逸らす。

「あれは彼女が反抗したから…後から治療を行うつもりでした」

「それでも、だ。今度こそ言いつけを守ってくれ、私たちの信頼関係のために」

ユキはなおも何か言いたげだったが、やがて渋々頷くとその場を立ち去った。


(さて、どうするか)

アッシュはメイの気配を感じ取っていた。

そう遠くないところに彼女はいる。

目に見えぬ糸が、先ほどよりは幾ばくか強く少女の心音を伝えている。

生きてそこにいる。

オオカミと吸血鬼の青年も一緒なのだろうか。

だとすれば、それは英雄としては許されないことだ。

赤ずきんは彼らを打ち倒さなければならない。

たとえどんな状況であっても。

(でもそれが大きな枷になっていたのだとしたら)

アッシュはメイを救いたかった。

英雄『赤ずきん』として本来得るべき名誉を受けてほしいという思いも勿論あったが、それ以上に哀れな少女に幸せを与えてやりたいというのが本心だった。

英雄協会は自らの意志で逃亡した赤ずきんを無理矢理本部へ連れ戻そうとしていた。

あの魔者たちは純粋に彼女を救おうとしていた_______信じ難かったが、今ひしひしと感じる彼女の生きた気配がそれを証明している。

どちらが彼女を『幸せ』にできる?

(やはり、私がすべきことは一つなのだろう)

アッシュは小さく詠唱を始める。

唇に悔しさを滲ませながら。

やがて宙にぼうっと小さな魔法陣が浮かび上がる。

「…こちらシンデレラ。赤ずきんが逃亡しました。彼女は魔者たちと共にいます。もはや英雄として連れ戻す価値はないかと…」


夜が明けぬうちに、協会からは新たな指令が下された。

”赤ずきんから『英雄』の資格を剥奪する。

同時に___新たなる『魔者』として恒久的に討伐対象として定めるものとする。”

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