第27話 微睡む記憶
メイは森の中を必死で走っていた。
だけど、ひとりではなかったのだ。
「こわいよ、だれか……だれか…!」
『逃げて、メイ。はやく、こっちへ』
それは母か祖母の声だと思っていた。
頭の中に響いてくる声は、男とも女とも、大人とも子供ともわからなかったから。
でなければきっと幻だと…
祖母を亡くし、オオカミと初めて相見えた満月の夜。
『逃げろ、メイ』
あの時も確かに聞こえていた。
声ははっきりと頭の中に響いてきた。
幼いあの日と同じように。
しかし結局思い出すことはできなかった。
何度も、何度も、声は呼びかけていたのに。
そして始まりは、もっとずっと幼い日々に遡る。
森の中でそれに出会ったのは、まだメイが八つになったばかりのことだった。
いつものようにおつかいで隣の森にある祖母の家に向かう途中、罠にかかり小さな檻の中にいる『犬』を見つけた。
夜の闇より真っ黒で、そこらの犬より大きく立派な、だけど金色の瞳は今にも光を失いそうなほどに弱々しい。
メイは思わずバスケットを投げ捨てて駆け寄った。
「わんちゃん、だいじょうぶ?いま助けてあげる!」
黒い犬は一瞬目を見開いてメイを見る。
檻はかなりぼろくて、外からちょっと押せばメイの力でも簡単に扉をこじ開けられた。
「…はい、どーぞ!」
臆することなく中にいた『犬』を持ち上げて外に出してやると、彼はしばらく戸惑ったような様子でメイを見上げていた。
だけどメイが誇らしげに微笑んでいるのでようやく安心したらしい。
何か言いたげに尻尾を揺らして頭を少し下げると、踵を返して森の奥へと駆けていった。
「よかったぁ。……あ、パイ!」
地面の上でぐちゃぐちゃになったパイについて、あとから祖母に呆れられたことは言うまでもない。
翌日、近くの花畑でいつものようにひとり遊んでいたときだった。
何となく気配を感じて見上げると遠くのほうに黒い影が見えた。
「…わんちゃん?」
声を掛けるとそれはビクッとして後ずさったが、やがて観念したように姿を表した。
「来てくれたの!おいで、一緒に遊ぼう」
すると犬は遠慮がちにそろそろと歩いてくる。
「ねぇわんちゃん。わんちゃんのお名前はなんていうの?」
「…ウウ……」
犬は困ったように低く唸った。
「ふふ、ごめんね。しゃべれないよね。…わたしはメイっていうの。よろしくね」
満面の笑みで言うと、犬はゆらゆらと尻尾を動かす。
それが自分の言葉に応えてくれたようで、メイはなんだか嬉しかった。
その次の日も、また次の日も、メイと犬は同じ花畑で出会った。
とくに一緒に何をするわけでもなく、メイが花冠を作ったり花占いをしているそばに犬がちょこんと寄り添っているだけだ。
「…わたしね、ほんとの名前はね、アルメイジェンヌっていうの。でもそれは言っちゃいけないの。…赤ずきんの名前、だから」
ある時、メイは唐突に告白した。
犬はびくりとして彼女を見上げる。
まるで『赤ずきん』という言葉に反応したようだった。
「わんちゃんも、赤ずきんがこわい?」
いつも明るく元気なメイも、このときばかりは弱々しい表情を見せる。
その名のせいで今まで誰とも仲良くすることができなかった。
普通に話をすることすらままならなかった。
と、犬の前足がそっとメイのひざに乗せられた。
気遣わしげに金色の瞳が彼女を見上げる。
「…そっか。うん、ありがと」
彼のことばはわからない。
ただ自分は拒まれなかったのだということだけはわかった。
メイはなんだか嬉しくなって、そっと彼を抱きしめた。
それからメイは彼に色々なことを話した。
母も赤ずきんだということ、ずっとふたりきりで暮らしてきたということ、これまで友達がいなかったこと。
彼はいつも黙って少女の話を聞いていた。
そんな優しい時間がしばらく続いた頃。
悲劇は起こった。
『わんちゃん』はその日、花畑に来なかった。
いつまで経っても来なかった。
その代わりひとりの見知らぬ少年が彼女の前にあらわれた。
「はやく逃げて、ここは危ないんだ。森も、村も…赤ずきんも。きっとあいつは赤ずきんを狙ってる、だから__________」
村の子ども。
赤ずきん。
(…わたしが赤ずきんだって知ってる。殺される!)
メイは青ざめると、彼の言葉を最後まで待たず一目散に逃げ出した。
村人は誰もが赤ずきんを嫌っている。
赤ずきんがいるのを見れば理由もなく襲いかかってくる。
(こわい、きらい、大きらい!)
震える足で懸命に家まで駆けた。
手を伸ばす少年を遠くに残して。
そして、満月の輝く夜______
メイは母に逃がされる形で、森の中を駆けた。
その時に再び聞いた、知らないはずの声。
今度は頭の中に響いてくる。
はやく、そっちはだめだ、こっちへ、はやく。
それに励まされるような形で、ひたすら逃げた。
逃げて、逃げて、逃げ続けて。
色んなものを置いてきた。
幸せだった記憶すら、森の向こうへ。
そしていつしか忘れてしまった。
まだ運命のかたちすら知らなかった、幼いころの温かな日々を。
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