第23話 人狼

洞窟にオオカミの姿はなかった。

まだ少し早かったか。

(それにしてもどこかに姿を隠しているはず。でもどこに?)

考えてみればおかしな話だ。

彼ほどの魔力の持ち主が完全に気配を消すことなどできないはずだ。

しかしこれまでも、月の出る夜以外にメイが彼の存在を感じることはとうとうなかった。

まるで完全に姿を消してしまうかのように。

(…私の気配を警戒して別の場所に向かったと考える方が自然だわ)

その時、数日前のオオカミの様子が思い浮かぶ。

人里に行くなと叫んだとき、彼は明らかに動きを止めた。

そして別の方角へ鈍い足取りで向かったのだ。

思い出しながらメイの足もそちらへと向かっていた。

銀の森の向こう側、人の棲まない廃墟の方へ。

そんなところに行ったって、オオカミには何の得もない。

まさか本当に逃げているだけ?

今のメイにはどんな可能性にせよ否定することができなかった。

すべてはこの目で確かめるまで。


今日の空気はいつもより一層澄んでいる。

この清浄な空気は月明かりが運んでくるのだろうか。

だとしたら銀の森はそうとう月に愛されているらしい。

静寂の中、響くのは自分の足音だけ。

意図的に外界から遮断されたように。

森の中なのに、深い水中を歩いているような気分になる。

濃い闇の気配が覆っていく…

その時だった。

メイは顔を上げる。

(誰か、いる)

姿は見えない。

しかし人の気配を感じた。

どこかの茂みの裏で、もぞもぞと動くような。

(…どこ…?)

狩人だろうか。

確かに入口の方にはいくらか居たが、魔者も動物もいないこのあたりに人など来るものか。

いや、構っていられない、とメイは首を振る。

自分がいま追うべきなのはオオカミの気配、それだけだ。

再び足を進めようとする。

と、気配が動いた。

「う……ぅう………ぐ………」

小さく呻き声のようなものが聞こえる。

苦しげな、熱にうなされるような声。

どこかで聞き覚えがある。

店の客だろうか?

だとしたら放っておくのはまずい。

この辺りにはオオカミがいるかもしれないのだから。

もしかしたら、襲われている只中ということだってあり得る。

なのに…

(分からない。見えない。どうして?)

すぐ近くに気配はあるのに、どれほど目を凝らしても、何の姿も認められない。

そのうちに様子が変わっていく。

「ぐ……ああっ…」

ずざざ、と地面を蹴るような音。

ついでに一層苦しげに響く声に、呼応するように禍々しい瘴気が満ちていく。

骨が立て続けに折れるような歪な音が鳴り響く。

(何……?)

何が起こっているのかまるで分らない。

しかし反射的に閉じた瞼の裏で、人の肉体が脆く崩れていくさまが浮かぶ。

そしてそれが湧き出したばかりの黒い瘴気に覆われていくのが…

まるで、人間が魔者に変化していくかのように。

(何を考えているの)

突拍子もない妄想に、しかしメイの鼓動は早まっていくばかりだった。

(止まって、お願い、止まって)

祈りながらあたりを見回しても、やはりそこだけ霧に覆われたようで、とうとう居場所を特定することはできない。

「…ああ…あ……ガア…グオオオオ……」

確かに人の声だったはずのそれは、気づけば獣の唸り声に変化していた。

その気配にも咆哮にも、確かに聞き覚えがあった。

思い浮かぶのは、ひと月前、そしてつい数日前にも目にしていたその姿。

そう、それはまるで__________

「人狼」

氷のように冷たい声がメイの後ろに立つ。

メイがびくっと体を震わせてそちらを見ると、全身真っ黒な男のような服装に身を包んだ女性がそこに立っていた。

「オオカミの正体が人狼だったとは。協会がこれまで深く介入してこなかった理由がようやく分かりました。生半可に知性のあるモノは対処が難しい」

「…あなたは、…まさか…」

メイは今まで感じたことのない威圧感に声を震わせる。

女性は眉をピクリと上げた。

「えぇ。私は英雄協会所属の『白雪』です。赤ずきんが入会した際はその教育係を務める予定でした。…まあ、それも人魚のごとく水の泡になりそうですが」

すると彼女はほんの一瞬のうちに胸元から小型のナイフを取り出すと、メイの首元に突きつけた。

あまりに俊敏な動作にメイは息を呑む。

「私は貴女を迎えにきました。抵抗すれば異端者として処理します。お分かりですね」

「でも、そこにオオカミがいるの。確かめないと。そのあとはどうなってもいいから」

「安心なさい、別の英雄が結界内にいます。あれの捕縛は彼女に一任して問題ないでしょう」

「結界?」

「…そこからですか。邪魔が入らないよう、この辺りに魔力障壁を張らせていただきました。魔力を感知されないよう、ごく小さなものですが。ここは結界外ですので中の様子は見えません。しかしあれはそこにいるし彼女も控えています」

彼女、繰り返すその言葉にメイは嫌な予感を覚える。

「それって、まさか…アッシュ…?」

白雪は苛立ったように唇を嚙む。

「『シンデレラ』とお呼びなさい。英雄たるもの、軽々しく自らの名前を口にしないことです」


「これは…驚いたな」

目の前で起こった光景に、流石のアッシュも腰が引けていた。

つい先ほどまで軟弱そうな青年と思っていたモノが、月の光を浴びて、みるみるうちに禍々しい黒い獣へと変化していくそのさまに。

図体も大きく変貌したそれは、息を荒げ肩で呼吸をしながら、ゆっくりとこちらへ頭をもたげる。

「…フーッ……」

黄金色の瞳がアッシュを射抜く。

そして警戒するように一歩、二歩と後ろへ下がる。

アッシュは我に返って、腰からすらりと長い剣を引き抜く。

「止まれ、獣。私が来たからにはもうお前の好きにはさせない。…と言っても、言葉は通じないか」

宝石のように輝く碧の瞳に、既に迷いはなかった。

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