第20話 邂逅 Ⅰ

月の出る夜を、これほど待ち遠しく思ったことはない。

セシルに休暇をもらったその足でメイは銀の森の洞窟に向かった。

しかしその日の空はどんよりと厚い雲に覆われ、月が顔を見せることはなかった。

オオカミが出るのは月の出る夜。

正確には満月の、ということだが、セシルの話ではここ最近は毎晩のように姿を見かけられたという。

赤ずきんがそばにいる影響だろう。

とはいえこうも暗い空のもとでは、流石のオオカミも活動することができないらしかった。

次の日も、また次の日も、逸るメイの心など露知らず、月は姿を隠し続ける。

そして、三日後の夜。

月が南の空に輝く頃。

そう、確かに輝いていた。

店の窓からも確認できるほどに、膨らみ始めた月が煌々と。

「ごめんセシル。今日も…」

「いいわよ。行ってらっしゃーい」

セシルは相変わらず軽い調子でメイを見送った。


今はまだその時ではない。

護身用の小さな銃だけを胸元に潜めて、心は急きながらもなるべく音を立てずに、目的の場所へと駆けていく。

洞窟は森の奥深く、見知らぬ草木が辺りを覆うあたりにある。

白い光を放つような澄んだ空気はそのままに、しかし生きた動物の気配のないこの辺りはとても不気味だ。

魔物蔓延る『普通の』森のほうがよほどマシだと、メイは心の中で毒づいた。

しかし他に生きているものの気配がないということは、それだけ標的を探しやすいということでもある。

勿論、相手からもこちらの存在が悟られやすいはずだ。

気配を隠す練習は幾度となく行なってきた。

赤ずきんであるメイにとって、それは生きていくための術でもあった。

ただ息を潜めて周囲に溶け込むようにすればいい。

自分自身が、自分自身であることを忘れるのだ。

最初から大気の一部であったかのように。

慎重に歩を進めて、やがてようやく洞窟のすぐそばまでやって来る。

昨日も一昨日も、そこはしんと静まり返っていた。

セシルは嘘をついているのではないかと疑いをもってしまうくらいに。

(それでも、いまは信じるしかない)

近くの茂みに身を潜める。

瞼を閉じて、神経を集中させる。

もしかしたら今日も駄目かもしれない。

弱気な思いが湧き上がるのを懸命に抑える。

研ぎ澄まされた感覚は視覚よりもずっと正直だ。

信じて、ただ信じて、闇の中を心の目で見据えるのだ。

(……いる!)

稲妻のような感覚は唐突に訪れた。

メイは息を吞んで、しかし気配を漏らさぬよう手で口を押さえる。

(洞窟の奥だ…感じる、澱みのようなものが)

見える、聞こえる、感じる。

そのどれでもなく、どれでもある。

気配とはいつも口では言い表しがたいものだ。

しかし確かに異質な、この美しすぎる森にはまるで似つかわしくない、白い衣に落とされた一点の黒い染みのような存在感。

目を閉じて耳を澄ませる。

気配はより一層強く感じられる。

肌がぴりぴりと痛いような感じがするのは、奴の放つ瘴気のせいだろうか。

それでもメイは冷静さを保っているつもりだったが、次第に鼓動は早まり、手は震え、言い知れない寒気が腹の底から湧き上がってくる。

これはきっと、本能的な恐怖だ。

メイは拳を握り締める。

大きく一度、深呼吸をする。

(落ち着いて。まだその時じゃない。私は確かめにきただけなんだから)

心の中で繰り返していた、その時だった。

「……フーッ、…フーッ……」

聞こえてきたのは呼吸音。

歯の間から漏れるような、時々獣の唸り声が混じる浅い息遣い。

聞き覚えがないはずもない。

(ああ、間違いない)

ようやくメイは覚悟が決まるのを感じた。

手足の震えがおさまってくる。

(奥にいるのは間違いなく、オオカミだ。…何をしているの?)

同じ体勢のまま、一切物音を立てず気配も漏らさずにその場に潜み続けるなど到底無理な話だ。

メイとて自信はなかったが、対話が出来るはずもなし、こうして様子を伺うしか真実を確かめる方法はなかった。

そっと中腰の姿勢から片足を折って、獣の気配だけに神経を集中させる。


「……ゥゥ……グルル………」

あれから一時間ほどは経っただろうか。

しかしいつまで待っても聞こえるのは唸り声と息遣いだけ。

時々動いた気配がした思っても、洞窟から這い出てくる様子はない。

どうやら体勢を変えただけらしい。

先ほどからずっと呼吸はひゅうひゅうと苦しげな様子だった。

(月はだいぶ膨らんできているのに、まだ調子が悪いのかしら)

無害な獣。

酒場の狩人たちの話が頭をかすめる。

(もし本当にそうだとして、私はこいつを見逃していいの?…これからどうなるかなんてわからない。今はまだ機を窺っているだけってことも)

と、唐突に近くの別の茂みがガサリと揺れた。

メイは驚く。

自分ではない。

オオカミは?

明らかに動揺したように気配が動いた。

(まずい、気づかれた)

思う間もなく、揺れた茂みから影が立ち上がる。

「…おお、嬢ちゃんじゃないか。久しぶりだねぇ」

気の抜けた声、穏やかながら剣呑な光を宿した瞳。

いつかこの『銀の森』の存在を教えてくれた、狩人のおやっさんだった。

「なっ…何で、あなたがここに?」

ちらりと洞窟の方を窺いながら、メイは小声で尋ねる。

「いやな、ちょいと仕事で立ち寄る用があってな。ジルバに入りたかったんだが、どうやら道を間違えたみたいで…出ていこうにも抜け出せねぇんだ。どうしたもんかねぇ」

「ええと…とりあえずここを、月が見えるのと反対方向に真っすぐ進んでください。もうすぐ街が見えてくるはずです。私の名前を言えばセシルが…酒場の亭主が、入れてくれるはずなので」

早口で説明すると、おやっさんはおおそうかい、ありがとうよ、と呑気な声で礼を言った。

「ひょっとして、邪魔したかい?」

「…い、いえ…」

完全に邪魔されていた。

勿論、恩人にそんなことは口が裂けても言えないが。

「じゃぁ先に行ってるよ。頑張ってな」

様子を察したのか、おやっさんはひらひらと手を振って去っていった。

メイは見送るなり慌てて洞窟の方を振り返る。

そこに________黒い影が見えた。

一瞬、金色の光と目が合った。

と思えば『それ』は風のような速さで、月の輝く方へと走っていく。

「待って!」

目にも留まらぬというのはこういうことを言うのだろう。

巨体に似合わぬ俊敏な動きで、黒い獣は四つ足で地を駆けたかと思うと、起き上がって近くの木の枝へ飛び移る。

そしてそのままさらに遠くへと…

(まずい、この先には大きな街があったはず)

メイはさっと血の気が引くのを感じた。

やはり、やはり人を襲いに行くつもりなのだ。

油断していた。

少女は祈るように叫ぶ。

こうなればなりふりかまっていられなかった。

「お願い、行かないで!『赤ずきん』はここにいるわ!だからどうか、村や街の人には…」

その時、一瞬、獣の動きが止まった。

木々のカーテンの隙間から、鋭い光がメイを捉えている。

メイも立ち止まって息を切らしながら、しかし決してオオカミから目を離さない。

やがて、ズン、という地響きとともに大きな身体が地面に着地した。

そしてのそのそと身体の向きを変えると、目指していたのとは別の方角へ歩いていく。

まるでメイの言葉を理解して、従うかのように。

「…どうして…」

メイは呆然と立ち尽くす。

いま彼の行先に人里はない。

無理に追いかける理由はない。

(でも…追いかけなくちゃ。あいつの目的を、確かめなくちゃ)

自分を叱咤すれど、もう足は一歩も動かなかった。

影は遠くなっていく。

何もできぬまま、遠ざかっていく。


満月の夜まであと四日ほど。

(何もわからない。なのに、対峙しなければならない夜が来る)

月の出る夜を、これほど恐ろしいと思ったことはなかった。

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