第19話 オオカミの行方

あれからメイは、セシルの店で働く日常に馴染みつつあった。

満月の夜まであと七日。

忘れてはならないと戒めながらも、外界からすっかり隔絶されたこの場所では、切迫した感情が遠いものとなっていくようで居心地が悪い。


からんからん、と店の扉に付いた鈴が鳴る。

「お客ね。メイ、お願い」

言われなくとも案内は慣れたものだった。

だけど最近はもう一つ、頭を過ぎることがある。

(ルヴァンは…今日は来ないかな)

セシルの看病以来、彼とはぎこちないながらも言葉を交わす機会が増えた。

彼は月が夜空に昇りきる少し前には店に来て、ブラックコーヒーを一杯注文してから帰る。

その度にセシルに『うちは酒場よ』と文句を言われる。

あまりにいつも同じものを頼むので、ある日メイがコーヒーが好きなのかと尋ねると、彼は首を横に振った。

「好きじゃない」

「は?…どうして好きではないのに飲むの?」

「安心、するんだ。俺にも苦手なものはあるんだと」

「何それ」

メイは彼の奇妙な答えに思わず吹き出す。

だけどすぐに真顔になって、

「苦手と思って飲み続けるのは、コーヒーにも淹れてくれるセシルにも失礼よ。今度からは好きなものを頼んで」

そう言うと、彼は驚いた表情をする。

そんなこと初めて指摘されたと言うように。

『…そうだな。確かに…失礼だ。考えてみる」

素直な態度の青年に、メイはますますおかしさを覚えるのだった。


そんなやり取りも、いつしか当たり前のものになっていた。

「いらっしゃいませ」

引き摺られそうになる意識を慌てて現実に戻す。

ドアの奥から現れたのは二人連れ、小太りな中年の狩人たちだった。

「お、今日もいたんかい、いかつい笑顔の姉ちゃん」

随分と不名誉な渾名を付けられてしまったものだ。

メイは接客の際にこれでもかなり頑張って笑顔を作っているのだが、それが余計不自然なようで、こうして数少ない常連客の笑いものにされていた。

「…冷やかしなら帰っていただきますけど」

ムッとしてメイが返すと、もう片方の男性が連れを嗜める。

「ったく年頃のコをからかうんじゃねえよ。悪いね、姉ちゃん」

「いえ…」

二人は案内されたテーブル席に腰掛けると早々に、それまでしていたらしい会話の続きを始める。

「…でさあ、妙なんだとよ。見た奴はいんのに、……ってさ」

「んな話…って、…『オオカミ』…だろ」

唐突に耳に入ってきた単語にメイは思わず動きを止める。

聞き間違えでなければ_____今確かに、彼らは『オオカミ』と言った。

それはメイの魂に刻みつけられた名前。

忘れるはずもない、だが安らかな日常の中でほんの少し影の薄れていた名前。

「聞かせてもらえば?」

セシルはこちらには背を向けたまま言う。

「でも」

「いいわよ。アンタの本業でしょ」

「……ありがとう」

メイは頭を下げて、狩人たちの方へ向き直る。

「すみません。いま、オオカミって…」

「おや、興味があるのかい?けどまぁ、若い嬢ちゃんにはつまらねえ話だと思うぜ」

狩人は気の抜けた調子で笑う。


彼らが語った内容はこうだった。

数年ほど前から、このあたりで黒い獣が見かけられるようになった。

それは狼のような、しかし明らかに大きく異質な瘴気を纏った魔の気配。

それは満月が近くなると様々な森から目撃情報が相次いだ。 

情報の出処は安定しない。

次はうちの村の近くに来るのではないかと人々は怯え、近隣の狩人たちに助けを求めた。

もちろん狩人も、戦々恐々としながら時に十数人がかりで捜索にあたることもあった。

しかしそれらしい姿を見かけたのはただの一度きりで、以降その森にオオカミが出ることはとうとうなかった。

そうしている間に他の森で目撃情報が出る。

イタチごっこだった。

狩人たちも苛立ちと不安を募らせたが、一年経つ頃に、どうにも奇妙な事実に気がつく。


これほど色々な場所で見かけられているにも関わらず、オオカミによる被害の情報は一件もない。


近隣の村人に聞けば、奴はきっと森で行方知らずになった子どもを食べているのだという話もあった。

だがそれも正直なところ、遺体が見つからなければ喰われたのかどこか遠くで飢え死んでしまったのかは判断がつかない。

どうやら地元の人々は、このように消息の分からない人間だったり犯人の分からない怪事件だったりを全て『オオカミのせい』としているらしかった。

「そのうち俺らは疑い始めたんだよ。オオカミなんてもうどこにも居やしないんじゃないか、ってね。聞けば数年前オオカミは既に一度退治されてるらしい。赤ずきんとかって英雄の手でな。もう幕は降りたんだよ。この前も見かけたって話を聞いたが…やっぱり被害の報告は聞かねえ。これ以上、無害な獣に躍起になるのも…」


ひと通り話を聞いて、メイは信じられない思いで彼らのもとを離れる。

(オオカミはいない?まさか!だって私は見たもの。一ヶ月前、ウィザの村の森に現れたあいつを)

空気を震わせるその咆哮は、思い出すだけで身の毛がよだつ。

その立派な鉤爪は、大きく開いた口に生え揃う牙は、少し触れただけでたやすく命を奪うことができるだろう。

あれは間違いなく一族の敵であるオオカミだ。

母を襲った怪物と同種のものだ。

見間違えるはずがない。

(じゃあ、もし彼らの言うとおり『無害な獣』だったら?)

ふと過ぎる小さな心の声にメイはハッとする。

(オオカミが滅ぼすべき悪ではないとしたらどうするの?)

あり得ない。

だけど、もしそれが本当なら、メイはまた一つ罪を重ねることになる。

今までオオカミを殺すこと自体に躊躇いはなかった。

彼は悪い奴で、殺さなければ他の誰かが傷つく。

大義名分を掲げるのは嫌だったけれど、無意識にそこに縋っていた。

だがその前提すらも間違っていたのだとしたら。

(…だとしても、殺さなくては)

彼女のために死んだ人々が次々と頭に浮かんでくる。

メイの母、祖母、名も知らぬ村の人々、復讐鬼と化した哀れな青年マーカス……

彼女の足元には骸が幾重にも折り重なっている。

彼らは夢の中で囁くのだ。

『オオカミを殺せ』と。

今さら背を向けることはできない。

選ぶべき道など残されてはいない。

(どちらを選んでも先に待つのは罪深い魂としての死だけ…とっくに、覚悟を決めたはずだったのに)


「メイ」

優しく呼ぶ声が聞こえて、メイは現実へと帰ってくる。

すぐ近くにはガラスのような瞳で彼女を見つめるセシルの姿があった。

「大丈夫?」

「…ごめんなさい。平気」

青白い顔で少女は呟く。

半ば自分に言い聞かせるように。

「ふうん」

セシルは大して興味も無さそうにグラスに目を落としながら、やがて思い直したように言葉を繋げた。

「ねぇ。オオカミの居場所、教えてあげようか」

「………え?」

あまりに唐突な、そしてとても重要なことを言われた気がしてメイは動きを止める。

「…どういうこと?知ってるの?」

「銀の森の洞窟に今も潜んでいるはずよ。まぁ今日は月が出てないから分からないけど」

メイは顔を俯ける。

何故、今なのだろう。

今の自分に彼と向き合う資格があるのだろうか?

するとセシルは唐突に細い指先をメイの頬に伸ばし、強く引っ張った。

「い、いひゃいっ」

「しっかりしなさい。アンタがずっと追ってきた獲物よ。今さら何を迷うことがあるの?殺すと決めたならそうすればいい…それとも、その意志は他人のせいで揺らぐほど甘いものだったのかしら」

彼も狩人たちの会話を聞いていたのだ。

その瞳はどこまでも真っ直ぐで、メイの揺らぐ心など芯まで見通すようだった。

「…どうしよう」

メイは頬をさすりながら泣きそうな声を出す。

「オオカミの…被害があった話は、ひとつも聞こえてこないんだって。あいつは殺さなきゃいけない。それが…使命で、復讐だから。…でももし、あいつが悪いやつじゃなかったら。他に道はないのだけど…ないのかな…もう、わからないの。どうするのが正しいのか、どうすれば…」

解放されるのか。

言葉にしてメイは改めて自覚する。

(結局私はずっと、私の自由を願っていた)

ただ自分ひとりが満たされる道を模索していた。

だからこれほどまでに迷うのだ。

『自分のためでも、運命を正せるならそれでいいんじゃないか』_____前に弱音を吐いたとき、ルヴァンはそんなことを言っていた。

だけど一番大事な『オオカミへの殺意』が揺らぎはじめた今はそれすら危うい。

無意識に頭を押さえると、セシルは微笑む。

「ようやく二足歩行を始めたってとこね。それならいいわ。考えなさい。運命を悲観するにはまだ早すぎる。物語はまだ紡ぎ直すことができる」

歌うように言いながら、ワインの並々注がれたグラスをメイに突き出す。

「月が南の空に昇りきる頃…そこが絶好の機会よ。いつでも休みをあげるから、一度行ってくるといいわ。銀の森の洞窟に」

メイは呆然としたままグラスを受け取る。

(行って、私は……どうするの?)

答えはまだ見出せない。

しかし変わり始めた現実が、じりじりと鼓動を加速させていくのがわかった。

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