第18話 セシルの不調 Ⅱ
メイが店のキッチンで鍋を借りて作ったのは、昔母に教えてもらった『寝起きが良くなる薬』。
出来上がった薄緑色の液体をルヴァンと共にセシルの部屋に運ぶと、彼は寝ぼけ眼で『あら、仲直りしたの』などとわけのわからないことを呟いていた。
「…森の空気にあてられたのか?」
ルヴァンは低い声で尋ねる。
やはりセシルの不調が不思議らしい。
今さらだが、セシルの正体を知っているルヴァンは何者なんだろう…とメイはぼんやり考えていた。
「このアタシがそんなので参るわけないでしょ。考えられるのは…英雄の影響かしらね」
メイはどきりとする。
自分のことだろうか?
するとルヴァンの方が眉を顰めた。
「あんたほどの実力者が、英雄の一人や二人で影響を受けるはずもない」
「来たのよ。協会の奴が、ついこの前ね。その時おかしな魔法でも撒いていったんだわ」
セシルは億劫そうに言った。
これにはメイもルヴァンも同時に目を見開く。
「英雄協会が…この酒場に?」
セシルは頷く。
「ま、アンタたちが気に病むことじゃないわ。元々目つけられてたのよ。銀の森なんてオイシイ場所に巨大な魔法障壁を張られて、入るのにもいちいちアタシの許可がいるなんて。面白いはずがないわよねぇ。それで今回、とある英雄の捜索にかこつけていよいよ乗り出してきたってワケ」
やはり自分のせいだ、とメイは顔を伏せる。
自分がこの森に来さえしなければ。
「…私、出ていくわ。これ以上ここに迷惑をかけるわけにはいかない」
「俺も出ていく」
重ねるように言葉を発したのはルヴァンだった。
メイは驚いて隣の彼を見上げる。
「どうして?……もしかして、あなたも英雄なの?」
ルヴァンはまさか、と首を振る。
「俺は違う。でも…奴らには追われてるんだ。元々ここにも長居するつもりはなかった。今度はもっと、人里離れたところに行く」
それに対して訳知り顔で返したのはセシルだった。
「今どきどこも英雄の監視下に置かれてるわよ。それもないような田舎には厄介な『言い伝え』が残ってる。…身をもって知っているでしょうけど」
ルヴァンは苦い顔をする。
と思うと矛先はメイにも向けられた。
「それはメイ、アンタも一緒よ。…大丈夫。アタシのバリアは賢者仕込みよ。簡単に破られたりしない。それより下手にここから出ようとすれば、隙を狙って奴らが入り込むかもしれない。そっちの方がよっぽど危険でしょう?」
病人のはずのセシルに言い聞かせるように諭されて、二人はただ黙りこくるしかなかった。
睡眠の邪魔だと揃って部屋を追い出されたメイとルヴァンは、店のカウンター席とテーブル席にそれそれ腰掛け、微妙な距離を保っていた。
「…ごめんなさい」
メイはぽつりと呟く。
「さっきの話で分かったと思うけど。私は裏切り者の『英雄』なの。お尋ね者は私のことよ。私のせいで…何も関係のないあなた達を巻き込むことになってしまった」
「それは違う」
ルヴァンが言葉を遮る。
「関係無くはない、俺は…。…君は、宿敵を倒しに来たんだろう。悪いのは君じゃなくてそいつだ」
「…聞いてたのね」
メイは弱々しく微笑む。
セシルは案外おしゃべりらしい。
「確かに…あいつのおかげでこれほど焦っていなければ、協会から逃げ出したりしなかったかも。…ううん、それは違う。きっと同じ選択をしたわ」
ぼんやりと天井を見上げる。
裸電球が小さな満月のように見えた。
「全部、自己満足なの。使命を果たすとか運命を破壊するとか、本当は全部どうだっていい。ただ私がこの世界から解放されたいだけ。オオカミだって…私の身勝手な逃亡劇に巻き込まれる犠牲者なのかもしれない」
思わず弱音を吐き出したあとで、メイはまた酷く後悔した。
感情の溢れるまま話すのはここに来て二度目だ。
この酒場の空気のせいだろうか。
自分の弱さのせいだろうか。
それとも…
「…それじゃ駄目なのか?」
ルヴァンは静かに尋ねた。
「自分のためでも、何でも…結果として、運命を…そいつらがやってきたことを正せるなら、いいんじゃないのか」
陰になって彼の表情はよく見えない。
だがその言葉には迷いがないようだった。
「きっとそいつだって、解放を望んでる。互いのためにも決着をつけてやるのが一番いい。…そのあとは、君が好きなように生きれば」
「いいえ、生きられないわ」
メイは顔を強張らせて言った。
「そいつを殺したら私も死ぬ。それでやっと終わるの。…どちらにせよ、役目を果たした私がこれ以上生きている意味なんてないもの」
ルヴァンがこちらを見ているのを感じた。
彼は何か言いたげに何度か口を開いたが、やがて諦めたように視線を外す。
「……悪い」
零すように彼は言った。
メイは慌てる。
「違うの、責めるつもりはなかった。その…話を聞いてくれて、ありがとう」
しかしその言葉にも彼は悲しげな視線を向ける。
(どうして?)
何もかも知っているかのような、だけど何もかも諦めてしまったかのような瞳。
この青年は自分の運命に何の関わりもないはずなのに。
メイはやはり彼を見ていると落ち着かない気持ちになった。
「…それじゃあ、行くから」
_____何かが、胸を過ぎる。
前に会った時と同じ。
でもそれは決して開けてはいけない心の扉。
封印した記憶の中に眠るもの。
(思い出したとしてどうなるの。『あの頃』は戻ってこない。幼い私は、母さんと一緒に死んだのだから)
もしその中に彼がいたのだとしても。
生きた亡霊である自分には、関係のないことだ。
メイは足早にその場を離れた。
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