おねだり


 どんな会話をしたのか,どうやって身元を伝えたのか全く覚えていないが,裏口でしばらく話をした後に母親が来た。

 

 母親はひたすら頭を下げていた。

 弁償します,と言っていた。

 私の責任です,と言っていた。

 力を込めていた目から,ぽろぽろと涙が流れるのを見た。


 自分が言ったことやその時の振る舞いは全く覚えていないのに,母親が何を言って,どんな態度だったかは昨日のように思い出せるから不思議だ。きっとこの時,自分の中でも何かが切れていた。




 「お菓子が欲しかったの?」


 帰り道に母親は顔を覗き込むようにして問いかけた。正弥はその顔を見ないようにそっぽを向いて,何も答えなかった。

 実際,正弥はお菓子が欲しかったわけではなかった。


「今度は,ばれないようにするよ」


 正弥のほっぺたに電流が走った。肩を強くつかまれた。


「どうしてそんなこと言うの! もう,どうしてそんな困らせることを言うの! ・・・・・・人様に迷惑をかけないの! あとは・・・・・・,勝手にしなさい」


 市営住宅が見えると母親は一人先に部屋へと向かった。いつもなら,母親が返ってくるには少し早い時間だ。

 正弥の頭にふと疑問が浮かんだ。


 そういえば,今日仕事はどうしたんだろう・・・・・・。まあ,どうでもいっか。


 正弥の頭の中はこれからのことを考えていた。



ーーー




 大して学もなく,何かに突出した才能があるわけでもない底辺にいる人間には世知辛い世の中だ。その日その日をなんとか食っていくために地道に働いては国に税金として吸い取られる。大金持ちには生きにくいと言われるが,車を持てば自動車税に数年に一回は車検,家を持てば固定資産税と,年度の始めに母親がため息をつきながら何かしらの通知にため息をついているのを見てからいろいろ調べた結果,庶民にもそれなりに負担はかかる。だれにとっても生きにくい世の中だ。

 部屋に戻って達也の顔を見ると,盗んだギフトカードでグローブを買ってやるとつい言いたくなってしまう。生まれた順番では兄貴ではあるが、頼りがいもないし思慮の欠片もない。そんな兄を支えてきたという自負はあったが,喜ぶ顔を見るのが好きだった。これじゃあどっちが兄貴かわかりゃしない。




 正弥,と達也は呼びかけた。仰向けになって天井を見つめながら話しかけているが,その目からは何かこれから大切な話をするための意思のようなものが読みとれた。達也はいつも,まじめな話をするときには人の目が見れない。


「お前さ,なんでコンビニで万引きなんてしたの?」

「そんなことかよ。それはお互い様だし,今更なんだっていうんだよ」

「おれが話をしているのは,小学生の頃の話だ」


 双子って不思議だと不意に思う。きっと自分が小学生の頃の悪い記憶を思い起こしていたタイミングで,達也も似たようなシーンを思い出していたのだろう。何か目には見えない糸のようなものでつながっていて,どこかで思考がリンクしているのかもしれない。


「ああ,なんか高校生がよくやってたから,俺もやってみようと思ったんだよ。簡単そうにやってたから楽勝って思ってたのに,すぐにばれたけどな」


 目をぱちくりさせて逡巡したのち,納得がいかないという風に首を振った。


「くそが付くほどまじめな正弥が物を取ったっていうんだから,びっくりしたよ。今日もさ,とりあえず食い物を目的にした万引きだっただろ。それなのに,正弥は食い物をまったくもって帰ってこなかった。何が目的だったんだ?」


 達也は天井に向けていた顔をこちらに傾けた。だが,その目の焦点はこちらの顔ではなく,斜め上の遠くのほうにあっていた。まるできまりが悪くてわざと目をそらす後輩のようだった。

 何がきっかけでそう思ったのかはわからない。ただ,話してもいいかなと思った。




「昔さ,グローブをねだったことがあったよな」

「グローブ?」


 黒目を左上に向けて,達也は考えた。そして「そういえば」と呟いた。


「なんかそういうこともあったな。確か買ってもらえなかったけど。今思えばなんであんなこと言ったんだろうな。家が苦しいのは知っていたのに。で,それがどうしたんだ?」


 不思議そうに達也は問いかけた。プリペイドカードをポケットから出して,眺めながら答えた。


「グローブ,買おうと思って。なんか,分かんねえけど不意に思ったんだよ。買えるだろ,ネットで」


 達也は口を開けたまま正弥を見つめた。そして,顔をくしゃくしゃにして笑い,ぷっと噴き出した。


「何言ってんだよ。そんなことしたら足がつくじゃねえか」


 そうか,と息を漏らした。そこまで頭が回らなかった。自分ではかなり用心深いほうだと思っていたが,達也に指摘されるようじゃあまだまだだな。プリペイドカードを手の中で遊ばせていると,達也は背中を向けて毛布をかけた。そろそろ休まないとな,と思って毛布にくるまっていると,達也の背中から「ありがとな」と闇の中に消え入りそうな,弱弱しい声が聞こえた。その声は弱いばかりではなく,少し震えているようにも聞こえた。

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