万引き少年


 これといった趣味も特技もない正弥と違って,達也は好奇心旺盛で誰とでも仲良く輪の中心にいる存在だった。体力テストの結果だけで見ると運動神経は正弥の方が少し上のようにも思えたが,内気で人と交わることが好きではない正弥にとって団体競技は苦痛以外の何でもない。

 一方,達也はとにかくチーム競技が好きで,勝ち負けよりもみんなで協力して何かに取り組むということが大好きだった。

 そんな達也が,野球チームに入りたいといったのは小学校四年生の時だ。学校で練習している野球クラブを見て,自分も入れてくれと遠慮もなしに飛び込んだのだが,遊びではないからチームに加入していないと練習には参加できないということだった。そのチームには同級生の達也の友達もおり,達也の加入を心待ちにしている雰囲気もあった。

 ただ,達也の野球チーム入団の夢は生まれ育った家庭環境が許さなかった。

 物心がついた頃から父親がおらず,母の手ひとつで育てられた二人兄弟は裕福というにはほど遠い環境で育ってきた。市営住宅を借りて住んだ部屋は育ち盛りの双子がいる三人で生活するには少々狭いし,壁は薄汚れてひび割れているところすらあった。

 母親はというと,朝から夕方まではパートに出て,夜は接待を伴う飲食店で働いていた。だから,食べるものに特に困ったり給食だけが飢えをしのぐ唯一の手段という訳ではなかったが,食事は腹いっぱい食べさせてくれるものの娯楽や趣味にお金を使うことはほとんど許されなかった。

 そんな環境で育ったため,幼心にも我が家が恵まれた方ではないということは薄々感じていた。だから,二人とも何かをせがんで困らせるようなことは無かったし,学校でどうしても必要なお金が関わってくることに遠慮すら覚えるほどであった。

 それでも,野球チームに入りたいと達也が言ったのだから相当心惹かれるものがあったのだろう。正直,正弥には理解が出来なかったし,みんなと仲良く身体を汚してまでボールを追いかけて何が楽しいのだと思っていたが,達也の願いが叶うなら嬉しかった。

 母親がどのような返答をするのか気になり,じっと顔を見詰めていたが,うつむいていたためどんな表情だったのかははっきりとは見えなかった。少し間が開いたかと思うと,そこには真由に深い皺を寄せて八の字が逆立ちしたような眉毛で達也を見下ろす顔があった。まるで般若だった。


「あんた,何を言っているの? よくもそんなことが言えたわね」


 パート終わりの母親はそれだけのことを達也に向かって吐き捨てるように言うと,夕飯の準備をしてまた夜の仕事へと出かけていった。

 お腹が空いたら温めて食べなさい,と子どもの顔を見ずに玄関に向かっていった母親の背中に,達也は蚊が鳴いたような声でごめんなさい,と呟いた。

 おれはなんてわがままでばかなんだ,と達也が晩御飯を食べながら呟いた。正弥はそれを聞こえていなかったふりをしてやり過ごした。達也の希望が叶わなかったとはいえ,いつもと変わらない日常の本の一コマだった。でも,そのコマが誰かを変えるのには十分だったことは今振り返れば痛いほどわかる。事実,達也は変わった。あれほど大好きだった団体競技も休憩時間はおろか,体育の授業ですらエスケープするようになり,勉強にも全く身が入らなくなった。

 今でこそそれなりに明るく話せるようになったが,あの日以来,達也は人間の入れ物に電池が入っているような生き物になってしまった。




ーーー





 初めて万引きをしたのは小学校四年生の時だった。

 変わり果てた達也を見ていられなかった。変わらせたのは,この恵まれない家庭環境だということは考えるまでもなかった。


 お金がないなら,生み出すしかない。


 もちろん,小学四年生を雇ってくれるところなどあるはずもなく,汗水流した勤労の対価として報奨を得ることなど不可能に等しかった。正弥には,物を盗むしかなかった。それを実行に移すのにそうためらいはなかった。

 最初はコンビニでお菓子を盗んだ。お菓子が欲しかったわけではない。嫌いではないが,嗜好品を我慢するぐらいの忍耐力は持ち合わせている。

 以前,高校生がコンビニでお菓子を万引きしているのを見たことがある。ここはカメラに映らないから,と会話していたのが耳に入り,どういうことだろうと様子を伺っているときょろきょろしていた高校生の一人がガムをポケットに入れた瞬間を見た。それから店内を物色する風に一周した後で,堂々と扉から出ていった。何か悪いものを見た。それに対して何もできなかった。そんな罪悪感にしばらく苛まれていたから,そのシーンは映画の有名なワンシーンのように鮮やかにまぶたの裏に映し出された。

 あれだけ簡単にできていたのだから,自分にも出来るはずだ。そう思ってたかをくくっていた。でも,現実は甘くなかった。

 高校生がやっていたことを思い出して,全く同じ場所で隙でも無いブラックガムをポケットに入れた。簡単だ。あとは店内を一周して店を出るだけ。心臓は少しだけ高鳴っていたが,無理やり落ち着かせるようにゆっくりと店内を歩いた。そして,出口に向かった。自動ドアが開いて外の風を頬に受けた時,待ちなさい,と後ろから腕を掴まれた。

 振り返ると,コンビニの服を着たおじさんが口を固く結んで立っていた。こっちに来なさい,と腕をつかまれ,子どもにとっては大きすぎる歩幅で裏へと連れていかれた。

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