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さて、あの美しい死体は、いくら時が過ぎ去ろうとも、私の頭からは去ろうとしなかった。大きく開けた、あの口の鮮やかな血色。そこから小さく覗いた、白く輝く鋭い歯。あの可愛らしい毛皮に張り付いた、貪欲な血液。燃えるような血液。そして、あの血液よりも勢いと、決意を感じさせた、燃えるようなあの瞳。その全てが、まるで初めて見る女性の裸体のように、私の記憶にこびり付いた。夜寝る時でさえ、猫の馨しい血の香りを覚えられるようだった。そういう時、私はいつもこんな空想をした。あの燃えるような血液の霧の中を進んでいる。鼻腔を血に染めながら、しばらく歩き続けると、目の前に何かが横たわっている。猫である。私は屈み、燃えるような瞳と目を合わせながら、炎に濡れた毛皮に手を伸ばす…。

その猫の死体は、小学校の卒業式の途中でさえ、私を支配していた。

卒業証書授与。

私は、しばらく無心で順番を待っていたのだが、ふと壇上を見た時、例の皮肉屋が卒業証書を授与されていた。私は、彼が証書を貰った時、ほんの少しだけ口角を上げたことに気づいた。どこか違和感を感じ、彼が貰った卒業証書をよく見ると、なんとあの猫であった。つまり、証書の代わりに、猫の死体を授与していたのである。もちろんこれは単なる空想である。実際は、単なる卒業証書であり、猫の死体が渡せることなど、無いのであった。私の小学校高学年時代は、殆ど、あの猫に支配された。かの猫に生きて出会ったのは、僅か1日である。だが、かの猫は死んで尚、私の人生に多大な影響を与え、支配した。単なる死体が、私という存在を、私の時間を、燃やした。先程の空想を、卒業証書が猫に見えた空想をした時、これまでの出来事が走馬灯のように脳を駆けた。幼稚園での屈辱。普通を知った屈辱。絵を辞めた屈辱。一緒くたにされた屈辱。屈辱。屈辱。屈辱。私は、ここで初めて、人生の目標が出来た。

あの猫を、描いてやろう。それも、抽象的にだ。生命と死体の美しさを、見事対比させた絵を描いてやる。なんなら絵でなくてもいい。あの美しさを、俺なりに表現するのだ。

私の卒業証書が授与された。私は、思わず、先程の皮肉屋と同じようにニヤリとしてしまった。なぜなら、こんな紙切れとあの猫の死体では、どうにも価値が違いすぎて、おかしかったからである。今までこんな物に価値を感じていた自分も、現在感じている周りも、全部おかしかったからである。このとき私は、美に取り憑かれたのだった。それは滅茶滅茶な快感である。今まで積み上げてきたものを、根本から全て燃やし尽くそうと、今まさに構えている時のような快感である。美に取り憑かれ、私の心は弾けていた。背徳感と楽しさに揺られ、叩かれ、殴り、殴られ。結局、最後に残ったのは、あの猫を再現する。その決意だけであった。


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