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さて、中学校へ入学した私は、小学校の頃から変わらぬ退屈な授業中にも、食事中にも、いつしか覚えた自瀆の最中にも、死を意識していた。美しい物の死には、磁石のように惹かれた。ある日、自瀆しながら、私はこんな妄想をした。

ある敗残兵が、食料を略奪しに街へと忍び込む。敗残兵と言えども、その胸は逞しく、日に焼けた健康的な腹筋からは、汗の雫が水飴のように滴っている。食料を漁る最中、ふとその兵士は気づく。闇の中、いくつかの丸い光が爛々と見えるのだ。兵士は、戦争で培った生物としての本能で感じ取った。野犬だ。兵士といえども、敗残兵。しかし、小銃を撃ち、音を出すこともはばかられ、結局兵士は、野犬が飛びかかってくるのを、抵抗せず、軍服を脱ぎ死を待った。野犬が飛びつき、褐色の肌に牙を刺す瞬間、彼は国家と戦友を想った。こんな死に方で、すまぬ。そう思うや否や、野犬の牙、そして爪は腹筋を切り裂き、赤く染まった舌は彼の血を味わうのだった…。

私は、その情景をくまなく想像し、欲情に身を滾らせた。彼の血が、肉の繊維1本1本が、彼の死への無抵抗さが、私に内なる性欲の炎を滾らせたのだ。別段、同性愛者だったわけではない。ただ、それほど死に惹かれていたのである。いわば初恋である。私の初恋の相手は、死であった。

私は、死の妄想をノートに絵として描いた。死の魔力、快楽、恐怖、恍惚さ、それら全てをノートに描いた。その絵を見ては、私は酷く興奮するのであった。

2年生になると、最早学校へ行くことの意味さえ、死の強大さの前では感じられなくなり、不登校となった。家にいる間、私は自分の死について妄想するようになった。三島のように、切腹でもしてみようか、いや、太宰のように、入水するのも美しいかもしれぬ。首吊り?論外だ。楽に死ねるのでは、意味が無いのだ。死に様は、絵画である。人生の極地を表す絵画だ。そこには、死ぬための意識も色濃く現れる。消して楽に死んではならない。そう思いながらも、やはり死を身近に感じたく、ついには2度3度首を軽く括ったのである。とはいえ、そこに美しさなど感じなかった。遠のく意識の中で、感じたのは、やはり首吊りは駄目だ。ということだけであった。

時折、教師が家へと訪ねてきた。曰く、「皆がまっている。」らしい。よくもまあそんな嘘をいけいけしゃあしゃあと抜かせるものだ。と、私はその言葉を聞いた瞬間侮蔑した。こういう人間は、死について深く考えないのだ。常に自分が正しいと思う事だけをやる。そんなモットーを抱えながら、偽善を押し付けるという妥協をするのだ。私は、普通を知ってから、自分の考えが世間とは相容れない物だと理解していたので、その教師とは適当に折り合いをつけ帰らせるのが常であった。今なら分かるのだ。私は、普通を知れて良かった。普通を知らなくては、異常はわからぬ。通常を知ってこそ、初めて美を知れるのだ。

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