オゴペグ

foxhanger

第1話

 ――以下は「オゴペグ」という「言語」が、人類社会に与えた影響についてのあらましである——。


(202X年 サンパウロ発)

 ブラジル厚生省の派遣した混成チームが、国立先住民保護財団(FUNAI)の許可を得てアマゾン川流域に居住する未接触種族(イゾラド)のある部族と密林で接触したのは、年が明けてすぐのことである。目的は2020年から世界中に蔓延していた新型コロナウイルス感染症——COVID-19のワクチン接種のためである。

「オゴペグ」と自らを呼ぶかれらは、いまだ文明社会と接触していなかったと推測された。接触に伴う悪影響や不測の事態を避けるため、医療関係者以外にも、文化人類学者や言語学者などを加えた混成チームが結成された。

以下は、そのとき部族に接触した医師、セイジ・タカツキが記した、オゴペグについてのレポートである。


 オゴペグはアマゾン川の支流、ネグラカヤ川の流域に定住する原住民である。100人に満たない集団で、天然の洞窟や木の洞に居住し、新石器時代そのままの素朴な生活をしている。

 かれらの出で立ちは極めてシンプルで、男女とも最小限に布を纏っただけ、他の部族のように羽根飾りやボディペインティングで装飾することもしない。

 道具は石器や木工品を主に使用し、文明の産物と思われるものは、ほとんど使用されていない。原始的な農耕が行われているが、併行して狩猟採集で食料を調達しているようだ。

 周囲の部族と工芸品などを交換することがあるが、交流は活発ではない。しかし敵対的というわけでもなく、かれらは基本的に、極めて友好的だ。

しかし、目的であるCOVID-19ワクチン接種を試みたが、結果は失敗だった。それどころか、一切の近代医療を拒否し、カメラ、スマートフォンなどの文明の産物に興味を示さなかった。

 特筆すべきは、かれらの使う言語だった。地球上に存在するいかなる言葉とも似ていないもので、類縁関係は不明だった。語彙は乏しく、数詞がなく、「計算」という概念もない。また、「すべての」とか「それぞれの」「あらゆる」などの数量詞も存在しない。それだけでなく、左右の概念もない、色を表す単語もない。「こんにちは」や「ご機嫌いかが」、「ありがとう」といった「交感的な」言語使用もない。さらに「神話」も存在しないようだった。

 極限までにシンプルなオゴペグの言葉は、発音も文法もきわめて簡単。いくつかの単語を習得すれば、オゴペグとの意思疎通は可能だった。

 チームの何人かがオゴペグ語を習得した。はじめのうちは目的が果たせずにギスギスした雰囲気もあったが、一行はあっという間に和やかな雰囲気になった。

 所期の目的を果たせずにミッションを終了することになったが、一行は何故か、明るい雰囲気だった。


(タカツキの日記より)

 ×月×日

 子供にオゴペグ語を教えてみた。子供はあっという間にいくつかの単語を覚え、学校でも子供はオゴペグのことを級友に話したそうだ。

 このところ息子が、学校でうまくいっていないらしいことを聞いて、気になっていたのだ。不登校にもなりかけていたが、仕事が忙しくて構ってあげられない自分に忸怩たる思いがあった。せめて話題でも提供できれば……。


 ×月×日

 息子は、意外にもこのところ学校が楽しいという。

「どうした?」

「いじめが、なくなったんだよ。クラスの雰囲気が和やかになったって」

 オゴペグを教えると、クラスから問題行為がなくなったという。犯罪に走る子供の数も減った。学校は、平和になった。


 ×月×日

 深夜、家に強盗が押し入った。治安の悪いこの街では珍しくもないことだった。寝室から飛び出たら、銃を構えた男と鉢合わせて、とっさにオゴペグで語りかけた。

「――!」

 強盗は武器を捨て、何も奪わずに出ていった。



(オゴペグチームに参加した言語学者ギルバート教授と医師タカツキとの、ネットを通しての対話)

「久しぶりだね」

「どうですか、オゴペグについて、何か分かりましたか」

「うむ……際だった特徴と言えば、オゴペグの言葉には、再帰構造がないんだ」

「再帰構造?」

「たとえば、こんな文章」

 そういって、ギルバート教授はカメラの前で机に載っているコップを持ち上げた。

「これはコップで持っているわたしは三六歳研究者で今朝の朝食はコーヒーとトーストにマーガリンと苺ジャムを塗ったときに使ったスプーンは台所の棚にしまってあって……とまあ、こんな風に、語尾にどんどん言葉を継ぎ足すことによって、理論的には無限に長い文章を作ることが出来る。『ことば』による概念の創造が可能になり、人間の言語を小鳥のさえずりや猿などの単純なコミュニケーションと区別する。

 しかし、だ。

 オゴペグにはこの構造がないんだよ。さらに、オゴペグには現在形しかない。過去も未来もない」

「われわれが使っているあまたの言語とオゴペグは、本質的に違う、というのか」

「そうかも知れない」


(202X年 動画サイトより)

 アメリカ人の動画配信者が、アマゾン川流域のジャングルに分け入り、オゴペグに接触した。

 かれらとのコミュニケーションははかばかしくなかったが、それでも動画を撮影することには成功した。動画は編集され、ネットにアップされた。世界のひとびとははじめて、オゴペグの響きを耳にすることになった。


 オゴペグ接触チームに所属していた、タカツキやギルバート教授以外の大半が、年末までに職を辞していたことが明らかになった。


 数ヶ月後――。


(コロンビア、ボゴタ発BC電)

「無敗のチャンピオン引退」

 ボクシングの世界チャンピオン、マヌエル・ベラスケスが無敗のまま現役を退くことを表明しました。ベラスケスはかつて攻撃的、挑発的な言動で知られたが、記者会見では穏やかな表情でこう語りました。

「オゴペグに会って、わたしは変わった。もう憎しみのない者を殴ることはない」


(チリ、サンチャゴ発TVニュースより)

「異変? サッカー場閑古鳥」

 南米と言えばサッカー。ワールドカップの予選大会もたけなわ、普段なら人々がこぞって熱狂するはず……なのですが、しかし今年は、いささか状況が違っています。

 こちら、昨日行われたチリ対コロンビア戦の模様です。ご覧下さい、客席は疎らにしか埋まっていません。ちなみに、これが例年の状況です(超満員、歓声に満ちるスタジアムが映る)

 ピッチの選手もやりにくそうに見えます。なんでもこの町では先月ぐらいから、サッカーに興味をなくすひとびとが増えているとか。果たして、何が起こっているのでしょうか……?


(ネットに投稿された動画より)

 みなさん、オゴペグ語を覚えましょう。きわめて簡単で、大人でも子供でもどこの国のひとでもすぐにマスターできる言葉です。

「おはよう」「こんにちは」そんな意味の言葉はオゴペグにはありません。わざわざ「ことば」にして気持ちを伝える必要なんか、ないんです。オゴペグをしゃべれば、誰とでも仲間なのです。


(ネットニュースより)

 世界中で話題になっている「オゴペグ」。動画投稿サイトのアクセスランキングの1位から5位まで、オゴペグ関連の動画で占拠されています。

 新しいムーブメントとしての「オゴペグ」果たしてどこまでいくでしょうか。


(ストックホルム発ネットニュース)

 現在、子供たちのあいだで、オゴペグ語で会話するのが流行しています。オゴペグ語を習得すると、問題行動の減少などが見られるとの研究もあります。

 市当局は初等教育のカリキュラムにオゴペグ語を加えることについて、検討を始めているとのことです。


(ワシントン発 DNNニュース)

 現在ワシントンDCでは、全米から集まったマイノリティのパレードが行われています。広場を埋め尽くした様々な人種、階層のひとびとがオゴペグで会話しており、オゴペグのネットワークがひとびとをつなげているようです。数年前「分断」が問題になっていた頃の、デモ行進の殺気立った模様がウソのような和やかさです。


(サンパウロ発 現地新聞のネット記事より)

「リオ 三ヶ月殺人事件ゼロ」

 かつて治安の悪さで知られたリオデジャネイロは、三ヶ月以上殺人事件ゼロの記録を更新中です。銃器の売り上げは激減し、廃業する銃砲店が相次いでいるそうです。


(日本 ネットニュース)

 オゴペグ専用のSNSが解説され、ユーザーが1億人を突破しました。「炎上」のような事態が起こらないため快適だというユーザーの感想です。


(南米某国、現地新聞のネット記事より)

「武装ゲリラ解散」

 南米でジャングル地帯を本拠地に武装闘争を繰り広げていたゲリラ組織が、解散を表明、当局に投降しました。

「武装闘争の時代ではない。これからは平和に暮らそう」

 同時に長年にわたって独裁的な権力を振るってきた政権が退陣を表明しました。

警察組織が解体したのが要因で、近々この国では建国以来初の、民主的な選挙が行われることになる見通し。


 どうやら「オゴペグ」を習得すると、人間の攻撃性が減退し、話者同士は「一体感」に包まれててしまうようだった。「平和をもたらす言語」として「オゴペグ」を拡げる運動が、世界各国で興った。ひとびとはこの波を歓迎しいるようだ。

 しかし影響は、それだけではなかった。


(某国ニュース)

「銀行が破綻」

 世界各国で銀行の破綻が相次いでいます。預金が引き出され、金融商品が売れなくなりました。預金を引き出し、享楽的に使ってしまうのが原因と思われています。引き出したものには、「オゴペグ」の話者が多いという情報もあり、現在詳細を調べています。


(某国ニュースサイト)

「サボタージュ?」

 軍隊では、兵士が突然除隊してしまう現象が多発していると言います。一種のサボタージュとも言えますが、上層部にまで及んでいる模様で、対策に頭を痛めています。この現象は「オゴペグ」が世界的流行になってから増加の一途を辿っているようです。


(日本のニュースサイトより)

「無気力な人間 増える」

 会社に出勤せず、一日中引きこもっているひとびとが都会で増えています。交通機関はストップし、商店は開かれず、都市機能は各所で不全を来しています。


(フランスのニュースサイトより)

 一流企業のエリートサラリーマンが退職、家族で田舎に移住して農業に従事するといいます。

 現在この国の田舎には、オゴペグ話者のコミューンが各所に出来ています。無農薬、無化学肥料の自然農法で畑を耕し、都会を捨て、農村部に移動しています。

 現在のところ、住民との諍いなどはないようです。


(日本、MHKニュースより)

「老人が末期医療を拒否」

 入院している高齢者が、延命に伴う様々な治療を拒否してそのまま寿命を終えるケースが増えています。家族も「無理な延命はしないでいい」と依頼するケースが多くなっています。


 オゴペグ話者がある一定の段階に達すると、「不自然なもの」を遠ざけるようになるようだ。現代医療や加工食品も拒否するようになり、栄養状態は悪化、体力のない幼児や老人から、次々と死に至ることになる。


(タカツキとギルバート教授とのネットでの対話)

「オゴペグは、世界を変えつつある。しかし……ぼくはもう、オゴペグは使っていない。ギルバート、きみはオゴペグを積極的に使おうとしていなかったな。オゴペグの危険性を知っていたのか」

「ごらん」

 ギルバート教授は動画を映した。オゴペグ話者のコミューンのようだ。みんな身なりを釜業、纏っている服はぼろぼろ。朽ち果てた残骸のような家に暮らしている。

「まるで、原始人の暮らしじゃないか」

「そうだ。オゴペグ話者は、生産活動にも消費生活にも一切の興味をなくし、食べるものも極端に質素。毎日ただ無気力にぶらぶらするだけだ。明日のことを考えない。昨日のことを思い出して、くよくよしない。「現在」だけを刹那的に生きているのだ……」

 ギルバート教授は画像を変えた。

 布で覆われたものが、土の上に直に置いてある。それがいくつも無造作に置かれているのだ。

 遺体だ。葬儀という行為に無関心になったように、ただ放置してある。腐乱して骨が露出しているものもある。

 タカツキは絶句した。

「なんてことだ。オゴペグ話者は『死』にも無関心になってしまうのか」

「無関心ではない。悲しみはある。しかし、何をしようともせず、それをただ『運命』と受けとめているだけなのだ」

 タカツキは何も言えなかった。

「さらに……これを見てくれ」

 ギルバート教授はタブレットに画像を映した。

 fMRIで撮影した脳内の画像である。

「左側が非オゴペグ話者、右がオゴペグ話者なのだが……ここに注目したまえ」

「……違っています」

「脳内の言語をつかさどる中枢が、オゴペグ習得以前と以後では変化している。おそらく、人間がこの言語に感染すると、脳の形質が不可逆的に変化してしまうんだ。人間が、いままでの人間でなくなってしまう」

 ギルバート教授は話を続ける。

「人類に『意識』が誕生したのは、中世以降だという説を知っているか。 それまでの人類は、現代に生きるわれわれとは全く違った「世界」に生きていたという説だ。「自我」に悩まされることがなく、「神の声」が聞こえ、妖精や妖怪のような存在を感じていた。脳の左右が統合されていず、右脳の言語野で作られた『ことば』を左脳で『神の声』として聞いていたからだ。

 脳の仕組みが変わり、神の声が聞こえなくなると、それに代わって、人間の意識は発達し、言語を使って『レトリック』『比喩』を使いこなすことが出来るようになり、パーソナルな心の空間が現れる。そして、その空間を『物語』として再構成し、みずからを客観的に見ることが可能になったのだ。

現在のわれわれが依拠しているもの、たとえば『物語』『科学』そして『現実』は、その過程で誕生したのだ。かつての人類は『物語』や 『科学』のような過程を辿らず、より強固な『真実の世界』に生きていた。『ことば』や『物語』としてまとまる前の『原神話』の世界。

それが失われたから、人間は『神話』『物語』『科学』のようなものを作り出した。それらがオゴペグ話者には不要になるんだ」

かれらには、われわれのような「自我」がないんだよ。オゴペグに脳が最適化されると、自他、そして『自然』との一体感に恍惚となり『不満』『不安』という感覚が、消えてしまう。『意識』自体が変容して、話者以外とのコミュニケーションが出来なくなってしまう」

「まさか、そんなことが……」

(通話終了)


 オゴペグが世に蔓延してから、タカツキの勤務する病院には、ほとんど患者が来なくなった。オゴペグ話者には、医療を拒否するものが相次いでいる。体調が悪くても医者にはかからず、近代医療の世話にはなろうとしない。あまつさえ、クスリもめっきり手に入らなくなったのだ。

 それが患者の望みなら、その通りにするのが医師の努めなのか。

 この状況で、病人に治療を施そうというのは、ひとびとの「意思」に反する、ある種のテロリズム、とも言えるものなんだろうか。

「これが最後だ……」

 タカツキの妻子もオゴペグ話者になって、彼の元を去っていた。病院の医師はもはやタカツキひとりだけだ。

「ギルバートは、この事態を予測していたのか」


 これ以上オゴペグを放置すべきだろうか。

 オゴペグが人格を変容させてしまうことが知れ渡り、一部ではパニックが起きたところもあったが、すぐに沈静化した。鎮圧する側にもオゴペグが蔓延し、ひとびとは皆オゴペグに従うようになったからだ。

 オゴペグの伝染性は圧倒的だった。もはやネットがなくても、世界中に蔓延するのは時間の問題だった。


(アメリカ ネットニュースより)

「警察のない町」

 犯罪が激減し、不要になったという理由で、アメリカでは警察組織の解体が相次いでいる。ロサンゼルスでも、ロス市警が解散を決議する見通し。


(インド ネットニュースより)

「大学 閉鎖」

 ニューデリーでは大学の閉鎖が満場一致で可決された。入学希望者が激減し、教授も去っていった。もはや「オゴペグ」さえあれば、そんなものは必要ないと考えるものが多くなったからだ。

 

(タカツキとギルバート教授とのネットでの対話)

「なんということだ、この国は、新石器時代以前に戻りつつあるようだ……」

「遠からず、世界中もそうなる。みんなオゴペグのせい、なのか」

 ギルバート教授は頷いた。

「おそらく、オゴペグはマインドウイルスというやつだ」

「宗教、イデオロギー、流行現象、それらは生物学上のウイルスやコンピューターウイルスのように、ひとびとの『心』に感染して、広まっていく『概念』だ。オゴペグに至っては、それが脳のハードウェアにも影響を及ぼしているようになった。インフルエンザウイルスが鳥の体内で変異して人間に感染するように、オゴペグも『言語』でありながら、限られた話者のあいだで使われながら『進化』を続けていたのかもしれない。そして、外界に放たれるや『免疫』のないわれわれに一気に感染したのだ。 現在起きている現象は、まさに言語的パンデミックだよ」

(通話終了)


 オゴペグ話者の実態が明らかになるにつれ、オゴペグはひとびとを怠惰と人格破壊に導く「言語麻薬」とみなされるようになった。

 多くの国家はオゴペグを禁止し、動画サイトは、オゴペグ語コンテンツを削除した。いくつかの国家は話者に対するなりふり構わない弾圧に出た。

 しかし、時すでに遅かった。

 一年後には、人類の半数以上がオゴペグを常用するようになっていたのだ。

やがて、オゴペグを第一言語とする、オゴペグネイティブが誕生すると、世界の風景は一変していた。ひとびとは田舎に移住し、都市は捨てられ、貨幣経済は破綻した。少数が残った都会では、空き地のあちらこちらに畑が作られた。近代的ではない、粗放な農法だ。

 かれらはろくに作物の世話もせず、近代農法から見ればごくわずかな収穫を得るだけだ。

 オゴペグはもはや、人類の唯一の「ことば」になった。だれも過去を悔やむことはない。未来を不安に思うことはない。世界の人口は激減したが、「人口ピラミッド」は年少者が多く年長者が少ない、通常の形に戻った。

 もはや科学文明は滅亡を約束されていた。その代わり、争いはない。誤解もない。ただ生まれて死ぬだけの「生き物」に戻るのだ……。


(タカツキとギルバートとのネット会議での会話)

「さて、ネット回線もずいぶん不安定になったな」

「ああ、こうして話せるのも最後かも知れない……しかし、まだ腑に落ちないことがあるんだ」

 タカツキはいった。

「オゴペグが何故かくも猖獗を極めたのか。ひとびとがなすすべもなく染まっていって、従来の言語を捨てていったのか」

 ギルバート教授は言った。

「それについてだが、わたしは、全く別の仮説を立てているのだ。オゴペグこそ、そもそもの『人類の言語』だったのではないだろうか」

「?」

「これまでわれわれが使っていた『ことば』、分節言語のほうが『不自然な』、『人工的』なものであるということだ」

「そんなことがあるのか?」

 タカツキは問うた。

「分節言語は、地球上に存在する他の生物の『ことば』とはまったく異質なものだ。鳥のさえずりも『言語』と言える構造を持っているが、ヒトのように分節構造はない。ネアンデルタール人も、分節言語を使っていないという。分節言語はホモ・サピエンスになって突然登場した、という説もあるのだ、それに」

 ギルバートは言葉を切った。

「分節言語――われわれのあいだで使われていた『ことば』は、あまりにも不完全だと思わないか。多義的で不安定、直接的に表現してもディスコミュニケーションに陥り、そのためレトリックに頼り、そのレトリックがさらに分断を助長する。

『物語』などという、うろんな手段に頼らざるを得ない。科学文明が発達してマスメディア、ネットと情報伝達手段は増えたが、かえって分断と不寛容は蔓延した。そのていたらくが、ついこの間までわれわれが直面していた混乱なのだ。オゴペグがその問題を一気に『解決』した、とも言える」

 そしてギルバート教授が口ににしたことは、驚嘆すべき仮説だった。

「うむ。そしてわたしは、別の可能性を考えてみたんだ。われわれが使っていた『ことば』は、数万年前に何者かが、当時のホモ・サピエンスに植えつけていったものではないか」

「なんだって」

「現代言語学の泰斗、チョムスキーは文節構造こそ言語の本質と唱え、生成文法理論を確立させた。その理論はプログラミング言語の発展に貢献したが、肝心の人間の言語の発生を完全に解明することは出来なかった。それはずっと謎だったが。今なら分かるような気がするよ。おそらく、因果関係が逆だったのだ。われわれの『ことば』は生成文法理論をもとにデザインされているから、プログラミング言語に応用できたのだ。はじめから『不自然』で『人工的』なものだったのだ」

「だれが、そんなことを」

「分からんな……しかし、真の言語——オゴペグが世界に広まったのも、ある種の『自然の摂理』かも知れんな。チンパンジーとボノボはヒトに最も近い霊長類だが、その生態は正反対だ。チンパンジーには子殺しや群れ同士の闘争が記録されているが、ボノボにはそれらの現象が報告されていない。オゴペグとは、脳の構造をチンパンジー的なものからボノボ的なものに変化させることが出来るのかも知れない」

「ならば、われわれは、動物に帰るのか?」

「違うな……地球に生まれて育った真の『人間』オゴペグになるのさ。そしてほんらいの、生態系の一部に帰って、全く違った形の『知恵』を身につける……われわれも、そろそろ、無駄な抵抗をやめようじゃないか」

(通話終了)



 その頃。

 火星軌道と木星軌道の中間付近の軌道。

 小惑星に偽装した地球外文明の探査機は、密かに人類文明をモニターしていた。こんな送信を本星に向かって送っていたが、どのような返答があったか、そもそも届いたかどうか、いっさいは不明である――。


「惑星現住生物による文明が崩壊の道を辿り始めたようだ。

5万年前、『わたしたち』はこの惑星で、ある種族に分節言語の種を植え付けた。かれらは高い知能を有していたが、石器や火の使用など初歩的な段階にとどまり、文明を発達させるにはいたらなかった。それは言語の問題だった。分節構造を持たない言語は、自らを『客観視』することができないのだ。

『わたしたち』の介入によって、種族は分節言語を使用するようになった。複雑な思考が出来るようになり、文明は飛躍的に発達した。火の使用からはじまった自然への介入は栽培農業、やがて工業に発展した。科学文明は高度に発展し、いよいよ『わたしたち』を迎え入れる準備が整ったようだった。

 しかし、言語が上書きされてしまった。辺境で細々と生き残っていたネイティブな言語が復活し、伝染していった。かれらの脳はそれに最適化されてしまった。科学文明は崩壊し、もはや復興は望めないだろう。

『わたしたち』の試みは、失敗したようだ。この惑星を諦めて他の星系、惑星に移るべきだろうか。

 それとも、相応しい生物がこの惑星にふたたび発生するかも知れない。そのときまで待つべきだろうか、数億年も待てば、答えは出るだろう――」



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