◇1-2:異彩を放つ影
祈祷師とはなにか。
それを説明するには、まず建国聖話から始まる。
この地は自然豊かで神聖な魔力に包まれた精霊達の楽園だった。その存在に気付いた周辺の諸国はその恩恵と膨大な魔力を独占しようと争いを繰り広げ、戦禍は海に阻まれたこの地へも及んだ。時には魔術で精霊を使役させて争いを加速させた。
精霊は愛した楽園が人間の手により日に日に荒んでいく現状に嘆き、人間が踏み込めない魔獣の住処となっていた崖上の森へと身を隠す。
それでも人間たちの争いは留まることを知らずに勢いを増していく。精霊が人間を遠ざけたことで、より希少な力となったからだ。
そんな折、この地を訪れた神官はあたりを見渡し愕然とした。精霊の楽園と呼ばれたのは過去の話、目の前に広がるは焼け野原と戦の傷痕だけだった。嘆き悲しむ精霊たちの感情が神官には手に取るようにわかり、共に悲しみ、そして祈った。
その祈りはこの地に眠る聖霊王を呼び起こし、聖霊王の加護の元、争う人々の欲望と憎悪を一掃した。そして、神官は加護とともに与えられた聖霊を映すことのできる瞳を信仰の象徴とし、聖霊王と共に精霊と人間が共存する国を創造した。
後に聖女ラティラーシアと呼ばれるその神官が聖霊を映す時には、深い青紫に淡いオレンジが溶け込んだ明け方の空の瞳に数多の星が瞬いていたという。
ここまでが古より伝わるこの国の成り立ち。
そして時を経た今、聖女ラティラーシアの瞳を受け継ぐ王族がこのラティラーク王国を治め、聖霊王は聖女の意志を継ぐ祈祷師に聖霊の加護を与え、人々を幸福へと導くと言い伝えられている。
(私が祈祷師、か……)
バルコニーで夜風にあたりながら、殿下の誘いに対する応えを探す。
果たして私に祈祷師の役目が務まるだろうか。頭をよぎるのは幼いころに一度だけ会った祈祷師様だ。
陽が射す中、聖石が散りばめられた純白のローブと腰まで届く白銀の髪が光を纏いながら靡くさまは、聖霊がそこにいるかのように感じるほど神々しく神秘的で、十数年が経った今でも脳裏に焼き付いている。
その時に祈祷師様と会話をしたのか、そもそもどのような状況で会ったのかさえも覚えていないのだが、たった一度、それもたった一瞬の記憶が、聖霊はこの地にいるのだと、聖霊に祈りを捧げたら届くのだと心に深く刻まれている。
私が祈祷師になったとしても、そうはなれないだろう。私の中の『祈祷師様』は圧倒的な存在感を放っていて、その差は計り知れない。
――それでも、私に資格があるのなら応えはひとつしかない。
(家に帰ったらお父様に伝えましょう。それに、殿下との面会の機会をつくってもらわないといけないわ)
思考の渦から抜け出すと、途端に夜風が肌寒く感じた。
露出した両腕をさすり、そろそろホールへと戻ろうかと踵を返すと、一人の男性が給仕を伴ってこちらへと歩を進めていることに気づく。
会場から漏れる照明の灯りで星のように煌めく金髪と、それとは反対に夜闇に溶け込む紫紺の瞳をもったスラリとした体躯のその人は、殿下の次に女性の間で話題にのぼるオルコット侯爵家の長子であり、魔導騎士団副団長を務めている有名人だった。
「休憩にと思ったのですが先客がいたのですね。よろしければ少しの間ご一緒してもよろしいでしょうか」
男性にしては透き通った響きの、それでいて甘さの含んだ声が通る。誰もが思わず頷いてしまうだろう相手からの誘いであったが、なぜか先程とは違った肌寒さを感じた。
「そろそろホールへ戻ろうと思っていたところですので、私のことはお気になさらず」
「そうおっしゃらずに。こうして会えたのも何かの縁です。急ぎの用がなければ、ぜひ話し相手になっていただきたい」
隣の給仕が手にしていたものを受け取ってワイングラスをサイドテーブルに置いた後、彼はストールを広げて肩に掛けてくれる。
「ご挨拶が遅れましたが、私はセシル・オルコットと申します。ご令嬢のお名前を伺っても?」
紳士らしく丁寧に腰を折る彼に、私も微笑みながら淑女の礼で返した。
「リディア・クロズリーと申します。オルコット様のご活躍は父からもよく聞いております。お会いできて光栄ですわ」
「クロズリー伯爵が私の話を? それは少しお恥ずかしいですね」
照れた様子で苦笑いをしつつサイドテーブルに置いたグラスの一つを手渡される。
冷えた手のひらにじんわりと熱が伝わる。注がれたワインからは仄かに湯気が立ち上っていた。
漂ってくる香りだけでも甘いだろうことが想像できる。
「こちらはホットワインです。先ほども一杯いただいたのですが、後味が甘くて女性好みだと思いますよ」
「ありがとうございます。少し肌寒く感じたところでしたので、お気遣いに感謝いたします」
グラスを重ね鳴らして乾杯した後に口にすると、喉から体が温まった。後味もしっとりとした甘さが苦味より勝って飲みやすい。
無意識のうちに欲がでてしまい二口目へと口付けた途端、感想を言うべきところだったと後悔が襲ってくる。
「お気に召したようでなによりです」
にっこりと女性受けのする笑みを向けられてしまい、後悔を潜ませて淑やかに微笑むことにした。
彼はこれを既に一杯飲んだと言っていた。こんなに甘い飲み物を成人男性が何杯も飲みたいと思うのだろうか。
余程の甘党であれば納得するが、人気者の彼のことだ。瞬く間にご令嬢達によって噂が広がるだろうし、そんな話は一度も聞いたことがない。
それに、用意された女性用のストールとワイングラスが二つ。
給仕は彼によって窓際まで後退させられている。バルコニーと会場を繋ぐ大きな窓は解放されているが繊細な刺繍を施されたレースカーテンで仕切られているため、会場内にいる者からは人影は見えても誰がいるかまでは判別できず、また、会場内から鳴り渡る音楽によって、給仕にも私達の会話は聞こえていないだろう。
殿下との会話の直後にこれまで全く面識がなかった魔導騎士団副団長と二人きりになるなんて、偶然と呼ぶにはあまりにも出来すぎている。この状況が彼によってつくりだされたとしか思えない。
祈祷師になるか否か正式に決まる前にこちらに出向いた目的は単なる言付けか、はたまた別の目的か。
「ええ、とても。けれど殿方には苦手と感じる方が多いのではないですか」
「私の周りでは好む者も多いですよ。疲れた日や今日のように厄介な出来事がおきた時、には特にね」
そう言い放つ彼は微笑みを浮かべながらも目を細めてこちらを値踏みしている。
(これは牽制……なのかしら)
既に私が聖霊の加護持ちと殿下から聞いていて、祈祷師になることは厄介な事だと言いたいんだろうか。
(祈祷師になることを辞退しろと遠回しに言っている?)
それならば、と言葉を選ぶ。
「あら、私は今日のような特別な日にぴったりなワインだと思いました。一杯では物足りないから、帰ったら父とも頂こうかしら」
「ご令嬢にとっての良き日が、伯爵にとっても同じとは限りませんよ。私と同じように胃を痛めてるかもしれません」
「父は私の意志を尊重すると言って自由にさせてくれていますから。幸いなことに制約もありませんし」
もしも婚約者がいたら。
私の意志では決めれないだろう。家同士の利益を生む政略結婚を破棄するとなると当主同士の決定になるし、破談金を惜しまず払える余裕なんて伯爵家にはないのだ。
父は恋愛結婚だったせいか政略結婚をさせる予定はないらしく、かといって私は十九歳になったというのに婚約者が決まっていないことに焦り始めていた。最近では政略結婚の方が安心できるのにと不満を漏らしていたが、今ではこんなにも有難いことはない。
祈祷師になるということは貴族令嬢としての身分を捨てるということなのだ。
「ご令嬢の年頃ならば憧れの男性の一人や二人いらっしゃるでしょう? 私は顔が広い方ですので仲を取り持つことも可能ですし、なんだったら私の弟をご紹介しますよ」
「まあ。貴方の弟君をご紹介してくださるなんて、とても魅力的なお話だわ」
顔の前で手を合わせ、さも嬉しそうに目を細めてほほ笑んでみせる。
そうだろうと満足げにワインを飲み干してから口を開きかけた彼のタイミングを見計らって、ですが、とわざと声を被せた。
「今となっては少し物足りないのが残念でなりません。どうぞ、望んでいる他のご令嬢方にそのお誘いをなさって? 断るような物好きはクロズリー家くらいでしょうから」
ふふふっと自虐的に笑い、話はこれで終わりだと断ち切るために私も残り僅かのワインを気持ちよく飲み干した。
そうしている間、横に立つ彼が何かを発する様子はなくて。
目上の人に対して強く言い過ぎただろうかと売り言葉に買い言葉となって口から吐いた言葉に若干の反省をし始めた時、漏れ聞こえる軽快な音楽に紛れた微かなため息が耳を掠める。
勢いに任せて顔を向けたい気持ちを何とか堪えて視線を斜め上と向けると、皺のよった眉間に指をあてて固く目をつぶった険しい顔がそこにあった。次いで、今度はわざと私に聞かせるように深く息を吸い、大きく長い溜息を吐き出した。
(この方はとても紳士的で女性に優しいと評判の、あのセシル・オルコット様よね?)
まず自分の目と耳を疑った。けれど、どこからどう見ても、見間違いでも聞き間違いでもない。胸元を飾るオルコット侯爵家の紋章とくすみのない艶やかな金髪がなによりの証拠だった。
彼の開いた瞼から現れた、鋭く威圧する瞳が私に狙いを定める。
途端に息が吸えなくなり、心臓が動くのを止めた。
「君は遠回しに言っても引き下がらないようだね」
口元は弧を描いているのに、目が据わっている。音もなく伸びてきた手から逃れるために一歩後ずさる。頭で考えるよりも早く体が危険信号を出していた。
けれど、彼にとってはどうってことはない一歩だ。
肩を捕まれ前へとバランスを崩される。
足が縺れて崩れ落ちる体をもう片方の手で支えられるが、同時に耳元に口を寄せられ、思考が追い付いてくれない。
「祈祷師は国に幸福を与へ、己を不幸に導く」
息遣いと共に直に響く、ずしりと身動きさえもできなくなる重低音に思考がぐらぐら揺さぶられる。
「――君は、この国の生贄になることを自ら選ぶのか?」
(耳を傾けてはだめ)
これは自分の意思なのか、体が勝手に拒絶しているのか。わからない。わからないけれど、彼の言葉に拒絶反応がでる。信じたくない。これは私を祈祷師にさせないための嘘だ。
(――でも、本当に?)
祈祷師はその存在故に公開されている情報は少ない。顔も名前も、人数さえも。祈祷師は“名前のある個人”ではなく“祈祷師様”なのだ。それは聖霊の加護を悪用しようとする者から身を守るため、狙われる危険を避けるためにも必要なこと。
祈祷師が不幸になるだなんて、国に幸福を与えるための生贄だなんて、そんなことあり得ない。
あり得ないと思うのに、直に響いた声は頭から離れず、なかなか消えてくれない。
酔ってしまったようですね、と少し離れた位置に立つ給仕に不審がられないように体を支えて起き上がらせてくれるも、渦を巻く思考のなかでは言葉がでてこない。
目の前の彼が怖い。
人の気持ちを一瞬で塗り替えようとする彼がとてつもなく恐ろしい。
振りかかる恐怖に徐々に呼吸が浅くなり、酸素が脳に回らなくなる。
(聖霊様……! 私は疑いたくない、信じていたいの)
ギュッと目を閉じて咄嗟に祈る。
あの日見た祈祷師様が私の信仰の象徴なのだ。大切にしていた記憶を奪われたくない。
そんな私に呼応するかのように脳裏で光が瞬いた気がした。同時に、捨て去ったはずの幼い頃の想いが浮上する。
途端にストンと答えがでて、思わず笑みが漏れた。
(捨て切れてなかったのね。私は思ってたよりも諦めが悪いのかもしれないわ)
夢を、憧れを諦めた気になっていた。けれど、こんなにも胸の奥に巣くっていたことにようやく気づかされた。
「立てますか?」
呼びかけられた声で現実へと引き戻され、今の今まで彼に支えられていたことに慌てて離れる。
「オルコット様、感謝いたしますわ」
暗い宵の瞳を見返す。
きっと、私は心から微笑んでいるはずだ。
「それでも私は望みます。幸福と不幸の尺度は人それぞれですもの。貴方の話が真実であれ、必ず不幸になるとは限らないわ」
「……そう」
少しの沈黙のあと、空を見上げた彼がついた溜息は先ほどとは違い諦めを含んだもので、すぐに人当たりの良い笑みに変わった。
「酔わせてしまったお詫びに給仕に水を持ってこさせましょう。伯爵も呼んでおくので、休んでいてください」
有難い申し出にお礼を述べて形式的な別れの挨拶を済ませる。
流石に彼とともにホールへ戻ろうなんて思えないし、そもそも人の溢れるホールに今の状態で戻るのは無理だ。
彼と給仕がバルコニーから姿を消すまで見送った後、窓際にあるベンチに腰掛けて背中を預ける。
途端、一気に緊張の糸が途切れた。
(もう今日は帰ろう……)
祝賀会の終了はまだまだ先だけれど、これ以上はもう気がもたなかった。
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