鍵の音
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
今日もいつもと同じ朝である。このやり取りだけで、私は妻と娘のために頑張って行ける気がする。毎日変わらない日々。代わり映えのない退屈な日々と言われるかもしれない、しかし私にはその一つ一つが愛おしい。今日は、バレンタイン。妻からはもう5年ほど贈り物はもらっていない。その点については、妻とも気兼ねしない関係を築き始めたと言うことなのだろうか。少し寂しく思う。娘が幼稚園のゆうたくんにチョコを作っていた。世の父親はよく嫉妬するものらしいが、私には微笑ましくて愛おしい。
「おはようございます」
今日もこの一声から仕事が始まる。コンピュータサイエンスの会社に勤めている。ま、カッコつけずにいうとプログラミング系だ。大学時代必死で勉強していて良かった。私は同世代の人に比べ大分良い収入を貰っている、それは私が営業職についたからだろう。大学時代自分の才能は技術職じゃないと、諦めたからだろうか、大学時代の知識と人付き合いを使って幅広い会社に営業をかけられているからだろうか。
私と妻との出会いは大学のサークルである。その頃の私は、妻のように明るく豊かな心を持った輝かしい太陽のような女性と一緒になれるなどと思わなかった。
何かを変えたくて入ったテニスサークルは、ただの飲みサーだった。毎週一回みんなで行きつけの居酒屋に行くだけ。最初は全然混ざれなかった私も頑張って通い続け、3ヶ月も居ればマイメンだ。
妻は、周りの人とは明らかに様子がおかしい私に声をかけてくれた。最初はモジモジしている私に何気ない挨拶や会話をしてくれた、誰にでも分け隔てない彼女の心に日に日に私は惹かれていった。彼女も溌剌とした学生達の中で、やけに浮いている私に興味を持ち、彼女が告白をする形で3回生になってから付き合い始めたのだ。
大学を卒業と同時に結婚をし、それとほぼ同時に妻が出産した。今の時代を考えると早過ぎる妊娠と結婚だったと思う。私はたまに思うのだ、まだ始まったばかりの彼女の人生を私が潰してしまったのではないかと。それでも彼女は、妊娠が発覚した時とても嬉しそうに報告してくれた。一人の子供の親になることに不安を隠せなかった僕に優しく「お腹の子供と一緒に私達も学生から親に成長しよう」彼女はそう言ってくれた。私はあの時、一生を彼女と添い遂げよう、何があっても彼女を守り抜くと誓ったのだ。
いつもと同じ帰り道。から、外れて初めて通る道。妻が今週からホットヨガに通い始めた。金曜日の夕方5時から始まり女子会をして解散だ。妻の話だと、汗を流すために銭湯に行ってそれから軽い食事をファミレスでするらしい。通り慣れていないこの道もいつかはいつもの通りになるのだろう。
「すいません」
「はーい」
元気な挨拶で若い保育園の先生が駆けて来た。
「横山みゆの父です」
「お待ちしておりました」
「すいません、少し遅くなってしまいました」
「いえ、大丈夫ですよ。みゆちゃーん」
呼ばれると同時にみゆが駆け寄ってくる。先ほどの先生と違い辿々しい足つきだ。
「パパおかえり」
「うん、ただいま。先生今日も一日ありがとうございました」
「ありがとうございました!」
私の言葉にみゆも輪唱して返した。
「いえ、こちらこそありがとうございました」
笑顔の温かい方だ。妻とはまた違う暖かさを持っている。妻のものが燦々と輝く太陽のような無鉄砲さに対し、暖かく包み込むような冬の鎌倉の様な微笑みだ。
「お父さんよろしければこれをどうぞ」
そう言ってどうみても手作りの袋を渡された。
「これは、、、」
「今日はバレンタインなので、親御さん皆さんに配っているんです」
「ありがとうございます。そうですか、、、大変ですねぇ」
「そんなことないですよ、やっぱり大人になってもいいものです」
いつ以来だろう。少し温かく微炭酸の様な刺激を感じた。しかし、妻の手前、後でみゆにあげよう。
「では、さようなら」
「はい、さようなら」
「ばいばい」
「うん、みゆちゃんバイバイ」
帰路の途中少しの寂しさを感じた。妻からも貰いたいと言う気持ちが湧いたのだ。しかし、無理だろう。妻も忙しくしているみたいだ。
「パパ」
「どうした?」
「それはうわきになるの?」
「うぉ、誰から聞いた?」
「前、ママが見てたドラマで言ってた」
「そうか。みゆ、このチョコはお前にあげようと思っていたんだ」
「本当!」
「ああ、本当さ」
そう言いながら、帰り道を歩いた。いつもと違う道から帰り、いつもとは違い自分で鍵を開けた。久しぶりに聴いた解錠の音を聞いていると、新しい日々が開けていく様に感じた。
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