第3話 僕たちは、手に入れる前には戻れない

人生の波は上手くできている。何でも上手くいく時と、何もかも上手く行かない時が交互に訪れる。せめて心電図のように、マイナスには動かないでくれという願いとは裏腹だ。


京菜との生活はあっけなく終わった。「友人としか感じられなくなってしまって」と告げられ、友達に戻りたいと言われた。一度付き合った男女が"友達"に戻ろうとすることが僕にはすごく滑稽に思えた。お互いを友達よりも知ってしまったお互いは、もうその域には戻れやしないだろう。だから、せめて友達に戻りたいなんて残酷なことは言わずに、「別れたい」だけを告げて欲しかった。


という気持ちは伝えられないまま、いつも明るかった京菜の色のなくなった申し訳さそうな声に「次会った時も元気でな!」と強がるだけで精一杯だった。


部屋のシーリングライトを消し、ベッドフレームの間接照明だけを灯す。通販で買ったお気に入りのスピーカーを携帯に接続して、音楽をかけながら物思いにふける。こういう時は決まって、フワフワとしたメロウな曲を聴きたくなるものだ。心なしか音に乗って、スピーカーのそばに鎮座するお気に入りのルームフレグランスの香りまで僕に届けてくれているようだ。


どのような形の別れであれ、関係のあった人がいなくなるのが僕は寂しかった。なぜ一度自分の人生に入ってきてから、再び無くなってしまうと、0には戻れないのだろうか。一緒に行ったあの桜道やうちに来て使っていた歯ブラシ、オススメだと聞かせてくれた英字の長い名前のバンドが作った音楽、二人で一緒に寝ていたベッド。それらは僕たちが出会う前とは何も変わっていないはずなのに。触れるだけで声や匂いがリフレインする。


そんな寂しさから逃げたいのに、それを離したくない自分がいた。



いつもは「自分がいなければ世界は回らない」と思っているはずなのに、日々は僕の気持ちとは関係なく進んでいく。彼女に振られてから、調子のよかった仕事の波も徐々に崩れてきた。自分の在り方を疑ってしまうと、人生の様々な場面で支障をきたす。結局自分が世界を回していると思えるぐらい調子がいい時に感じる幻想なんだと思い知らされていた。そんな日々に疲れていた帰り道、あの商店街で僕はあの真っ黒な「ソラ」と出会ったのだ。


日差しが入らない。今日は曇りだ。

探るように手を伸ばし、ベッドに置いてあるメガネをかける。時計は朝8時を指していた。僕の脇には丸まった真っ黒な塊があるが、ビーズのような目はほとんど開いていない状態で、モゾっと動き出した。「颯太、おはよ〜早いよ。今日は何かあるのか?」とあくびをしながら問いかけてくるコイツは、本当に犬なのかと疑うほど、人間らしい振る舞いをする。もしかしたら前世はおじさんだったのかもしれないと想像すると、なんだか笑えてくる。


「今日は日中に掃除と今週分の買い物をして、夜から大学の時のバイトの友達と会ってくるよ。ソラも来る?」

「もちろん」

彼はいつも僕のいく先に着いてくる。スーパーだろうがレストランだろうが、コンビニだろうが、友人の家だろうが関係ない。僕以外には見えないことを良いことに、自由奔放に生きている。自分を"こうあるべき"と固めてしまう僕からすると、その自由さは、欲しくてもどうやって手に入れれば良いかわからないものだった。

ソラから目を逸らした時、羨ましさが息から滲んだ。


久しぶりに会うけど、居酒屋だし綺麗な格好はしなくていいかと割り切り、グレーのコーチジャケットと、黒いスキニーにスニーカーをセットして準備完了。「行ってきます」と小さな声で家に別れを告げ、ドアを開くとともに今日を動かし始めた。




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