第2話 莉理を幸せにしたい 〈莉理視点〉
体がびくっとしてふと目覚める。
部屋は真っ暗で、カーテンの隙間から見える空も暗く、まだ夜が深いことが分かる。
慧からLINEが来たらすぐわかるようにスマホを握りしめたまま寝たのに、何も通知がない画面を確認し、私はため息をついた。
慧は早々に寝落ちたまま、起きずに寝ているようだった。
──昨日は一度も「愛してる」を言ってくれなかったってこと、分かってないんだろうな。
──ううん、最近は慧からはほとんど言ってくれない。私がねだったらめんどくさそうに言ってくれるだけ。
LINEのトーク画面を「愛してる」で検索すると溢れるほどに出てくるけれど、圧倒的に私からが多かった。
分かってる。始まりは慧からだったけど、すぐに気持ちの大きさは逆転して、今や私は駄々っ子のように慧の愛を欲しがるばかりだってこと。
慧と初めて話したのは、半年前の4月の同期会だった。
本社からエースとの前評判も高く送り込まれ、営業部でも花形の販売企画担当に初めて配属された女子。評判に違わず、まだ支社ではほとんど触れる人がいない新しいデータプログラムのエヴァンジェリストの資格を持ち、鮮やかに操って販売状況を分析し、次の打ち手をまとめているらしい。
きっと来年度にはスピード昇格間違いなしと噂されている。
背が高くて痩せていて、肩までのばさっとしたボブ。
シャツにパンツ、マニッシュなローファーが定番スタイルで、メイクは最低限なのにポイントを押さえているからきちんとした印象を与える。
洗練されていて、やはり東京の人なんだなと思った。
──全国採用のエース。地域限定採用の私には、遠い人。
でも、4月下旬の同期会にひょっこりと慧は現れ、トイレから戻ってきたタイミングで席が近くなり、会話を交わしたのが最初だった。
何か話さなきゃと緊張していると、別の子が「この子は経営企画部の高橋さん」と私を紹介してくれた。
「経企なんだ。じゃあ、一つ上のフロアですね。私、営業部の」
「太田慧さん。有名だから知ってます」
そっか、と少し笑って慧はビールを喉に流し込んだ。
「経企ってどんな雰囲気です? 忙しそう」
「営業部に比べたら全然です。事業計画策定時期にちょっと残業あるくらいで」
「そうなんだ。てか、同期なんだしタメで話そう?」
「じゃあ、太田さん、次なに飲む?」
「慧でいいよ。モスコにする」
目を細めて私を見てそう言った慧。
内心、(名前呼び! 本社の凄い人と友達になっちゃった)というミーハーな気持ちが湧いてたけれど、私は悟られないよう穏やかに微笑んで言った。
「じゃあ私のことも莉理で。私はまたビールにしよっと」
その時慧が意外そうな顔で私を見たことを覚えてる。
「可愛いカクテルでも飲むと思った? 私はビールビールビールそして最後にまたビールなんだよ」
と言うと、慧は声を上げて笑い、「おもしろ」と呟いたのだった。
あの時はまさか、それから一か月くらいで慧に告白され、そして自分も恋に落ちるなんて予想もしなかった。
だって私は、2年付き合っていた同じ部の別担当に彼氏がいたから。
彼は、本社から異動してきた2年上の先輩だった。
年度末の忙しい時期に一緒に残業するうちに自然と恋愛関係になった。
3年で異動するのが恒例なので、彼の北海道任期も今年が最終年度。
彼と結婚したら彼が本社に戻るタイミングで仕事も辞める予定だった。彼がそうしたらいいと言っていたし、私もそれが地方採用の「最高の勝ち組」だと思っていた。
でもなにか、おかしいなと感じていた。
二人で東京へ遊びに行っても、彼の実家や友人に紹介されることがなかったこと。
彼が本社への出張の時、いつも連絡が途絶えがちになること。
彼がSNSは今やってないからといって私と繋がろうとしなかったこと。
──直感が告げようとするものを、私は直視しないようにしていた。
だって一緒にいる時はとても優しくて、彼を信じることができたから。
慧とは少しずつ、仕事でもやり取りをすることが増えていった。
私が運営を務める毎月の経営会議に掛ける資料も慧は手がけていたし、会議で発表することも多かった。会議後の事務方打ち上げにも慧はよく参加し、私たちはどんどん仲良くなっていった。
そんなある日、私は本社へ異動していった元経企社員がSNSにアップした「北海道飲み会」の写真の中に、本社へ出張中の彼が見知らぬ女の肩に腕を回しているのを偶然見つけたのだ。
たくさんのコメントの中に、「写っちゃいけないカップルがいるw」「ヤバ」というものも。その投稿はしばらくして削除されたけれど、その前に私は震えながら、でもどこか冷静にスクショを撮っていた。
見たくないはずなのに彼の友人関係のSNSを掘り起こし、どんどん彼とその女との証拠を見つけ出していった。点々と感じていた違和感がつながっていく。
それらの証拠を出張から帰った彼と夕食に行った時にぶつけると、ふっと笑いながら、一言、「お前って怖い女だな」とつぶやいた。
「うまくやれてると思ったんだけどなあ。安田のせいだな」とも。
「うまくやれてるって?」
彼はため息をついて、めんどくさいな、と漏らした後に話し出した。
「もともと東京で長年付き合っている同い年の彼女がいて、でもマンネリになってたし、北海道に転勤が決まっても結婚って話にはならなかったんだ。別れもしなかったけど。
こっち来て、お前と出会って年下で従順で可愛いなと思ったよ。北海道の女の子は素朴で男を立てるって聞いてたけど本当だったんだなって。
でも向こうとは連絡取ってたし、出張行く時には会ってたりしたよ」
「何それ……結婚しようとか言ってたくせに……私は浮気相手だったの?」
「別にそういう訳でもないよ。お前と結婚してもいいかなと思ったのは本当だし。
でも彼女とは学生時代からで俺から別れることは難しい。親にも紹介しているし。あとはお前がどうするかだよ、こんな俺と付き合っていきたいかどうか」
しゃあしゃあと言ってのける彼のことがとても信じられなかった。
──彼は、私から別れるはずないと高をくくっている。
ショックで泣いたけれど、私たちの関係は支社内でも割と知られていたし、私にとって「本社から来た彼と付き合っている」というステータスはなかなか捨てられるものでもなかった。
それに、彼は彼女とはマンネリだと言っていたではないか。
彼が支社にいるうちにもっと頑張って尽くして、彼に結婚相手として選んでもらえたらいいんじゃないか。
そう思って頑張ろうと朝を迎えても、職場には彼がいて仕事も集中できずミスを起こすし、この職場にも、他の部署でも、実は全て知られている人たちがいて、私のことを「あいつの北海道妻」なんて哀れんでいるのかもしれないと思うといたたまれなかった。
夕方、社内へ発信する事務連絡の日付を間違え、上司に叱られ、支店などから問い合わせの電話を受けているうちにたまらない気持ちになり、廊下に出て人気のないところを探し階段室に向かうと、ちょうど慧が階段を上がってくるところだった。
「あ、莉理! ちょうど会いに行こうと思っていたの──」
と言って慧は私の顔を見て、言葉を切った。
「え、何の用かな、来週の経営会議資料のこととか?」
いつも通りに笑顔で言ったはずだった。
慧にこんなもめ事が知られても恥ずかしいだけだったし、悟られたくなかった。
それなのに。
「何があったの」
──慧、あなたはすぐに気づいたね。
「今日は朝から莉理らしくないミスがあったし、さっきの事務連見て、なんかあったなと確信したの。私に話して」
慧は私の肩に手を置いて囁くようにそう言った。
「何でもないよ」
涙が溢れそうになり顔を背けるけれど、その顔をさらに慧が覗き込んでくる。
「やめて、見られたくないよ」
声が震えてしまう。
「佐々木さんのこと? そうなんでしょ?」
彼の名前を聞いてこらえきれずに涙が出てきた私を、慧は抱きしめた。
「ちょっと佐々木さんについて変な噂聞いたから、心配してた」
──なんだ、慧は知ってたんだ。
仕事以外に趣味なんて無さそうな慧にだけは知られたくなかったという苦い思いと共に、なぜか慧が知っているという安堵感を覚えた。知ってなお、私を情けない女と叱るでもなくこうして抱きしめてくれているということに。
「もっと頑張って結婚相手として佐々木さんに選んでもらえたらいいのかなと思って」
「莉理に佐々木さんはふさわしくない。頑張る方向が違う」
「でも私なんてこの先、佐々木さんほどの人と結婚できるチャンスなんてきっとないよ」
「結婚が全てじゃないよ。
莉理が幸せかどうかでしょ。
ずっと浮気を疑いながらする結婚生活なんてしても意味がないよ。
私は、私は、──私が、莉理を幸せにしたい」
──今、なんて。
びっくりして慧の顔を見ようと身じろぎした私を、慧はもっと強い力で抱きしめた。
「私、莉理が好き。私が莉理を幸せにする。私のところに来て」
あの時のことを思い出すと、今でも胸がきゅっとなる。
普段冷静でドライな慧が、ものすごい熱を私にぶつけたこと。
合理的な考えでどんどん業務をさばいていくのに、頑として女の私のことを離さなかったこと。
でも、もしかして慧はあの時の私への熱を、もう失ったのだろうか。
それが心配で、慧の気持ちを確かめたくて、どんどん増やしていったルール。
私は慧がこんなに好きなのに。
幸せにするって言ったくせに。
バカ慧。
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