ホットミルクにとろかして

 これは夢だ。そうだ、夢。早く、早く目を覚まさなければ。



 夢の中、必死の思いでまぶたを開けると、目の前の視界はゆらゆらとぼやけていた。震える手で目を擦る。思った通り、手が少し濡れてしまった。

 どんな夢を見たのかは覚えていない。すっぽりと内容が抜け落ちているのだ。

 ただ、必死で夢から抜け出そうと足掻いていた記憶だけは残っている。あまり気持ちの良い夢ではないことは確かだ。


 街中が眠りに落ちる深夜。こんな風に自分の涙で目を覚ますというのは、特に珍しいことではなかった。



 

 普段から夢見は決していいほうでは無い。昔から、特に母がいなくなってから、このようなことがよくあった。

 だが、今日は特段に悪い日らしい。

 目からこぼれ落ちる涙は一向に止まる気配が無い。ポタポタと流れ落ちる水滴は、パジャマがわりのTシャツに染みを作っていた。

 泣こうと思って泣いているのではない。眠たいときに欠伸が出るように、眩しい光に目を細めるときのように。そんな風に、自然に涙がこぼれ落ちてくるのだ。


 こうなってしまえば、もう落ち着くまで涙を流し続けるしかない。時切漏れそうになる嗚咽を必死に抑え、静かに涙を零す。

 そうしていればきっとその内また眠気に襲われ、眠ったことにさえ気づかないまま朝が来るだろう。自分は、このまま朝を待つことしかできないのだ。



 

 暗闇の中、我慢できずに一つ嗚咽を漏らす。すると、寝ていたはずの恋人がゆっくりとこちらを向いた。まだ寝ぼけているようで、声には覇気がない。ああ、せっかく耐えていたのに。


「······泣いてるの?」

「んん······、ごめん。大丈夫、だから」


 謝罪を口にすれば、まるで小さな子どもをあやすかのように右手で頭を撫で始めた。左手は背中にまわされ、心地よいリズムを刻んでいる。


「大丈夫、大丈夫だよ」


 そう小さく囁きながら、ゆっくりと頭を撫で続ける。

 

 甘えるように恋人の胸に頭を埋めれば、壊れ物を扱うみたいにそっと抱きしめられた。自分より少し高めの体温。心臓の音が心地よい。


「······ごめ、ん」


「謝らないでよ」


「迷惑、かけてるから······」


「うん? 全然迷惑なんかじゃないよ」


 普段以上に優しく、落ち着いた声色。存在を確かめるかのように、もう一度深く頭を埋めた。


「怖い夢でも見た?」


「······多分。あまり、覚えてないけれど」


 抱きしめられると、また涙が溢れてきた。今日の涙腺は、いつも以上に弱く、脆いようだ。



 

 こうしていると、子供の時の頃を思い出す。あのとき泣いていたのは自分ではなく、妹の方だけれども。

 大きな瞳にたっぷりと涙を浮かべる妹の手を取りながら、必死の思いで慰めた。



 自分は、泣かなかった。誰かの前で泣くことができなかった。泣いたらいけないと思っていた。


 だから、夢のせいにして、深夜一人で涙を流していた。


 昔のこと、母のこと。禄に抵抗もできず、容赦なく頭の中が埋め尽くされていく。


 ああ、自分はきっと寂しいのだ。得体のしれない寂しさを埋めるべく、涙を流しているのかもしれない。




 いや、違う。これは得体のしれないものなんかではない。自分自身が一番知っているはずのものだ。今、ようやく気づくことができた。


 これは、昔の自分のものだ。あの時誰かの前で流すはずだった涙。一人で抱え込んでいた寂しさ、怖さ。全部、全部自分のものだ。


 


 ああ、夢の内容を思い出した。一人で涙を流していた過去の自分の夢だ。


 ずっと昔からあったのに。結局一人で抱え込むから、また繰り返す。もっと、早く気がつくべきだった。





「眼、真っ赤になっちゃったね。腫れるといけないから少し冷やしてきたら?」

 

 10分ほど経過した頃。ようやく涙が止まり始めた。

 恋人の言葉に素直に従い、洗面所へと向かう。

 鏡を見ると眼は充血しており、少し腫れぼったくなっていた。タオルを絞り眼にあてる。冷たさが心地よい。

 5分ほど冷やしたところでベッドへと戻ると、テーブルの上にマグカップが2つ置かれていた。先程まではなかったはずなのに。


「ホットミルク作ったんだけど、どうかな?」

 

 色違いのマグカップからは湯気が揺らめいていた。

 テーブルの前に座りホットミルクを一口飲むと、再び視界が滲んできた。これは安心からか、寂しさからか。きっと前者なのだろう。

 

 とろりとした甘さが喉を通っていく。蜂蜜 も入れてあるのだろうか。少し甘さが強いが、今の自分にとっては丁度いい。


「眠れそう?」


「ああ、ありがとう」


 心配そうな恋人に笑みを浮かべながらそう答えれば、安心したように微笑んだ。最後の一滴を飲みほし、マグカップを洗ってから、恋人の待つベッドへと入り込む。



 「昔の自分の夢を見た」と恋人に話すと、もしかして心配してるのかもねと笑われた。

 昔の自分に心配されるだなんて。可笑しな話に聞こえるが、その言葉は真っ直ぐと心の中に落ちてきた。



 形のない恐ろしさも、突然自分を襲う寂しさも、全部温かいホットミルクに溶かしてしまえばいい。

 

 ようやく、自分は安心できる居場所を見つけることができた。誰かの前で涙を流せるようになった。

 きっと、この涙は昔の自分が流すはずだったものなのだろう。



 これから先も、また泣きながら目を覚ますことがあるかもしれない。その時はまたホットミルクを飲みながら、過去の自分を受け入れよう。もう大丈夫だと、泣いてもいいんだと語りかけるために。

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