初夏

 目が覚めると、いつもの見知った白い天井が視界に映し出された。


 頭上を揺らめくクリーム色のカーテンからは、朝の光が差し込んでくる。この季節は朝であっても少々日差しが強い。カーテンから溢れる眩しい光に、思わず目を細める。


 薄目のまま手元にあるデジタル時計を見ると、時刻は午前5時半を示していた。いつもの時間に比べると、随分と早く起きてしまったらしい。


 こんな時間に起きてしまったにもかかわらず、今朝の目覚めはいつになく良いようだ。

 倦怠感もなく頭もスッキリしており、どんな夢を見ていたのかすら覚えていない。

 いつもこうだったら良いのに。そんなことを思いながら、ひとつため息をおとす。


 ふと横を見ると、眠りについた恋人の顔がすぐ目の前にあった。この距離の近さにももう慣れたものだ。

 元々1人用のシングルベッド。成人済みの男性が2人で寝るためには手狭だが、この窮屈さは案外嫌いではない。


 このまま二度寝をしてしまおうか。ぼんやりとそう考えたが、そこまで眠たいわけでもない。それに、せっかくの良い目覚めをわざわざ失くすことは気が引ける。


 それならば、今からすることは一つしかない。まだ夢の中にいる恋人を起こさぬよう、そっとベッドを抜け出した。



 少し薄暗いキッチンは、蛇口から零れる水の音が静かに響いていた。ドアの向こうでは、夏のはじまりを告げるかのような蝉の声が聞こえてくる。そういえば、昨晩の天気予報でそろそろ梅雨が明けるだろうと告げられていた。夏はもうすぐそこだ。


 そんな蝉の声を物ともせず、キッチンは静まり返り、ひんやりとした空気をまとっていた。

 戸棚からグラスをひとつ取り出し、ゆっくりと蛇口を捻る。グラスへと注がれる水を見ながらぼんやりと蝉の声を聞いていると、何となく夢の中にいるような気分になった。



 紛れもなくここは現実だ。間違いない。けれども、この部屋と外の世界との間で、ひとつの線が引かれているような。そのような考えがふと頭を過ぎる。まるで、この部屋が自分にとって都合の良い夢で創られた世界のように思えてくるのだ。


 それほどまでに、この部屋で過ごす時間が幸せなのか。

 それとも、無意識のうちに疎外感を感じているのか。


 それは自分でもわからない。ただ確かなのは、この部屋は自分にとって非常に居心地が良い場所であるいうことだ。



 水を飲み干し、グラスを洗って再び部屋へと戻る。喉の渇きは、まだ少し残ったままだ。



 恋人がまだ眠っているのを確認し、自分のカバンから本を取り出す。昨日買ったばかりの小説だ。ちなみにジャンルはミステリー。レザー革のブックカバーは、高校時代からの相棒である。


朝が弱い恋人より先に、自分の目が覚めることは珍しくない。そのため恋人が起きるまでの時間は、このように大抵本を読みながら過ごしている。ベッドを背もたれの代わりにしながら本を開けば、いつもの時間の始まりだ。

 

 蝉の声はもう聞こえない。再び静けさが訪れる。



 読み始めてから約3分。プロローグを読み終え、次のページを開こうとしたその瞬間。



「おはよう」



 背後から突然声をかけられ、どくん、と心臓が飛び跳ねた。

 後ろを振り向くと、いつの間にか起きたらしい恋人の顔があった。ベッドに座り、背後からこちらを覗き込んでいる。


「ごめん、起こしたか」


「ううん、大丈夫だよ」


 恋人は眠たそうに目を擦り、背中を壁に預けながらベッドの上に座り直す。


「それ、この間も読んでいた本?ゼミの課題とか言ってたよね」


 のろのろと手元にある本を指さす。


「いや、それは昨日の朝に読み終えた。これは完全に趣味の本だ。」


 ふーん、と言いながらベッドから降り、ひとつ大きな伸びをした。


 「またミステリー?」「当たりだ。」「へえ、感想聞かせてね。」


 そんな会話を軽く交しながら、キッチンの方へと消えていく恋人を横目に、再び本に目線を落とす。



 数分後、恋人は部屋に戻ってくるやいや、楽しそうにこんなことを言い出した。


「ね、散歩に行かない?」


 その言葉に、一瞬心が揺れる。


「ああ、ごめんね。本が読みたいなら邪魔しないよ」


「いや、それは大丈夫だ」


 問題はそこではない。本を横に置き顔を上げると、目の前に立ち尽くしたままの恋人と目が合った。


「まだ6時前だ。いつもは寝てる時間だろ。無理して俺に付き合わなくていいんだぞ?」


 そう聞けば、にっこりと笑いながら答えを返してきた。


「大丈夫。今朝はなんだか目覚めがいいみたい」


 無理して付き合わせたら申し訳ないと思ったのだが、そのようなことはなさそうだ。

 本を閉じ、カバンへとしまい込む。散歩に行くのなら早い方がいいだろう。


「いいよ。じゃあ、行こうか」



 準備を終え玄関のドアを開けると、力強い蝉の大合唱が耳に入ってきた。太陽の眩しい光に、少しだけ目が眩む。

 頭上を見上げると澄んだ空はどこまでも続いており、所々薄い雲が広がっていた。時節吹いてくる風は少しだけ生暖かい。


 鍵を閉めたことを確認し、駅とは反対方向の道を進む。

 こんな時間だからか、それとも田舎道だからか。周辺を歩いている人は全くいない。聞こえてくるのは蝉の声と、時々隣を走る車の音だけだ。


 太陽の眩しい光がコンクリートの地面を照らしつける。朝だからこのくらいの気温だが、昼にはもっと熱くなるだろう。そろそろ半袖を出さなくては。ぼんやりとそんなことを考えながら2人で散歩を続ける。




「そういえばさ、実家から来週くらいにサクランボを送るって連絡がきたんだよね。母方のお爺さんの実家が山形でさ。今年は大量みたいで、実家だけじゃ食べきれないみたいなんだ」


 サクランボ、嫌いじゃないよね?


 その問いにうんと頷けば、恋人の顔に笑みが浮かんだ。


「よかった。たくさん送るからお友達にも分けなさいって言われてたんだ」


「そうなのか」


「うん、今年は豊作だったみたい。そのまま食べるのもおいしいけど、お菓子もいいな。パイとかどうだろう」


「いいな。作れるのか?」


「作ったことはないなあ。けど、実家にいたころ姉さんがよく作ってたんだ。今度作り方聞いてみるよ」


 懐かしいなあ。美味しいんだよね、あれ。


 それから思い出話に花を咲かせながら歩いていると、ふと隣を歩く足音が止まった。どうしたものかと思いながら、自分もその場に立ち止まる。


「ねえ」


 隣を見ると、やけに真剣な表情をしている恋人がこちらを見つめてきた。2つの大きな瞳が、自分の顔を映し出している。


「手、つないでもいい?」


 そう言われ、言葉に詰まる。一瞬だけ生まれた静寂は、すぐに蝉の声によって消し去られた。


「だめかな」


 少しだけ困ったような、どこか寂しそうな表情を浮かべながら。

 ああ、そんな顔をされてしまえば断れるものも断れない。それに、断る理由なんて見つからない。


 そんな恋人の姿を見ながら、自分も小さく笑う。どこかぽっかりと空いた大きな溝を塞ぐような。そんな気持ちが、心を満たす。

 さっきよりも歩く速度がゆっくりだ。この時間を噛み締めるよう、一歩ずつ足を進める。頬が熱いのは、きっと太陽のせいじゃない。


「ところで、なんで突然散歩なんて言い出したんだ?」


 そう、恋人に尋ねる。恋人はしばらく考え込むような表情をしたあと、こう返してきた。


「蝉の声がね、聞こえてきて」


「蝉?」


「うん。キッチンに行ったら物凄く大きな声で鳴いててさ。近くの木にでもとまってたのかな」


 ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「そしたら、何かもう夏なんだなって思って」


 目を細めながらまっすぐと空を見上げる。陽の光を浴びた恋人の姿は、眩しかった。



「あれ、答えになってないかな。ごめんね」


 恋人が小さく微笑んだ。


「いや、分かるよ」



 見上げると、家を出た時よりも青々とした空が遠い向こうまで続いていた。所々に浮かんでいた雲は、今はもうひとつもない。

 繋いだ手をもう一度しっかり握り返す。自分よりも少し大きな手。喉の乾きは、もうどこかへ行ってしまった。


 蝉は休む間もなく鳴き続けている。ああ、今日も良い天気になりそうだ。

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