パンケーキと猫
恋人と喧嘩をした。それはもうくだらない理由で。もう夜だというのに感情のまま部屋を飛び出してしまった。
きっかけは恋人のひとことだ。先週末、駅前で女性と歩いているのを見たらしい。そして、至極冷静な声で「浮気じゃないよね」と問いかけられた。その声には怒りも含まれていた。
普段から温和な恋人が怒ることなんて珍しい。怒っている姿など今まで一度も見た事がなかった。 そんな恋人が怒りを顕にしている。しかも、自分に対して。
それに、浮気を疑われたことがなによりも嫌だった。よりによって自分が浮気をするはずがないだろう。長年、母と妹を苦しませ続けた忌まわしきあれを。
恋人を怒らせてしまったことに対する戸惑いと、浮気を疑われたことに対する怒りや悲しみ。その2つの感情が全身を駆け巡り、そこには冷静さの一欠片も残っていなかった。そして、「あれは妹だ! 浮気なんてするはずないだろ!」と言い残し、感情のまま部屋を後にした。
星空の下ひとり夜道を歩く。外に出たのはいいが、行く宛てなどどこにもない。ついでにここの地理にも詳しくない。
どうしたものかと思っていると、近所に公園があるのを思い出した。ベンチが一脚と子供用の砂場が備えつけられた小さな公園だ。
こうして、今は公園のベンチに腰を落ち着かせている。そろそろ夏が近づいてきているため、夜と言ってもそこまで寒くないのが不幸中の幸いだった。
雲ひとつない空には、見事に丸い満月がひとつ。煌々と辺りを照らしており、夜だというのに公園は不思議な明るさを保っていた。周りは静まり返っており、時節木々が揺れる音だけが聞こえてくる。
夜風にあたり頭が冷えたのか、すでに怒りはおさまっていた。むしろ、なぜあそこまで自分はそこまで怒ってしまったのだろう。普段ならば、絶対にあのようなことはしないのに。
もう少し自分が冷静でいられたら。事情を説明して、笑い話で済んだかもしれない。部屋を飛び出す必要なんてひとつも無いのに。それすらも腹立たしく、自己嫌悪に陥りそうだ。
「浮気」という言葉は、自分にとってある種の呪いなのかもしれない。そうだ。きっとそうに違いない。そのせいで恋人とも喧嘩をしてしまった。いや、あれは喧嘩と言えるのだろうか。ただ一方的に自分が部屋を飛び出しただけなのに。
あの部屋を出てからどのくらい経ったのだろう。恋人は心配しているだろうか。それとも、こんな自分に呆れてしまっただろうか。部屋へ戻ろうにも、何とも気まずい。それに顔を見るのが怖かった。
もういっそ自分の家に帰ってしまおうか。そう思い公園の時計を確認すると、時刻は既に24時近い。もう終電も終わってしまっている。それに、着の身着のまま部屋を飛び出してしまったため、財布もスマートフォンも持っていない。
思考をめぐらせ、頭の中でひとり反省会繰り返す。
せめて財布だけでも持ってきていれば。
ああでもない、こうでもないと考えを重ねていると、突然猫の鳴き声が聞こえてきた。それも、自分のすぐ側で。
間違いない、近くにいる。そう確信して周りを見渡すと、1匹の猫が茂みの中から飛び出してきた。
猫はこちらに気がつくと、もう一度鳴き声をあげた。
黒猫だ。夜に溶け込み、おもわず見失ってしまいそうな見た目をしている。首輪はつけられていないが、野良猫なのだろうか。それにしては毛並みが綺麗すぎるし、人に慣れている。
大きな2つの瞳は黄金色に輝き、こちらをじっと見つめている。
「どうすればいいと思う」
俯きながら猫に呟くも、当然何も答えてくれない。キラキラと光る大きな瞳で相変わらずこちらを見つめている。
「謝りたい。でも、怖い」
ひとり、深夜の公園で猫に話しかけているこの姿。周りから見たら不審者そのものだろう。通報をされてもおかしくはない。
しかし、止まらない。自らの中に降り積もったなにかを噛み締めるべく、ポツポツと言葉をこぼし続けた。
「こんなこと初めてだから」
相変わらず猫はなんの反応も示さない。どこかに行くわけでもなく、静かにこちらを凝望したまま佇んでいる。
「家にも帰れないし、ほんと馬鹿みたいだ」
ああ、いっそ猫になりたい。
そう言いかけた瞬間、目の前の猫は鳴き声を上げてどこかへ走り去ってしまった。
そして、月明かりによって作られた自分の影にひとつの影が重なった。
とっさに視線をあげる。すると、そこにはよく見知った顔があった。走ってきたのだろうか。呼吸は荒く、そこはかとなく顔も赤い。もう一歩、自分の方へ近づいてくる。
「帰ろう」
そう言いながら、恋人はこちらに向かって手を伸ばした。
その表情はただただ優しかった。
アパートまでの道のりを並んで歩く。先程来た時の道と同じ道だが、今度はふたりで。頭上では相も変わらず月が光を放っている。
「居場所」
「うん?」
「どうして、ここにいるのが分かったんだ?」
「ああ。財布も携帯も置いてっただろ? だから、近くにいると思ってさ。とりあえず近所を探してたんだ。」
そこまで言い終えると、恋人はこちらを見て微笑んだ。
「そしたら、なにか話し声が聞こえたから」
話し声。おそらく、先程猫に話しかけていたときのことだろう。
あれを聞かれていたのか。今になって自分の行いを激しく後悔した。自分の頬に身体中の熱が集まってくるのを感じる。
「でも、見つかってよかった」
何かあったらどうしようって心配したんだからな、と言う声には、もう怒りも冷たさも孕んでいない。
「うん。ごめん、俺が悪かった。迷惑もかけたし、本当にごめん。」
「ああ、いや、こっちこそごめんね。疑ったりなんかして」
隣を歩く恋人は、申し訳なさそうな顔をしている。何か言おうと思ったのだが、うまい言葉が出てこない。それは向こうも同じなのだろう。そのまま暫しの間無言が続いた。どこか気まずい空気が襲ってくる。
そして、おずおずと恋人が口を開いた。
「仲直りってことでいいのかな?」
向こうがそれを望んでくれるのなら。
「許してくれるのなら、そうしたい」
「許すも何もないよ。うん、よし。これで仲直り」
ようやく緊張が解けてきた。段々といつも通りの空気が醸し出される。気が抜けたように、互いに顔を見合わせて笑った。
家に帰るやいなや、恋人は戸棚をごそごそとあさり始めた。そこからなにかを取り出したかと思うと、続いて冷蔵庫から卵や牛乳を持ち出した。
何をしているのかと聞いても教えてくれない。「座って待ってて」との声に従いテレビの前でぼんやりしていると、キッチンから甘い匂いが漂ってきた。
数分後、お皿を2枚持った恋人が現れた。そこに乗せられているのは1枚のパンケーキ。隣にはご丁寧に苺が添えられている。こんがりと焼かれたパンケーキの形は、猫の顔にそっくりだ。
「これ、仲直りの印」
目の前に皿を置きながら続ける。
「猫、好きだろ?この間猫の形したシリコン型を見つけてさ。いつか使おうと思って買っておいたんだ」
「そうなのか。」
「うん。気に入ってくれた?」
「ああ。凄くよくできている。」
「喜んでくれて嬉しいよ。じゃあ、食べようか」
「待って」
まだお礼を言えていない。探してくれたことも、公園にいた自分を見つけてくれたことも、パンケーキのことも。
「あの、ありがとう」
「うん。どういたしまして」
そう言いながら微笑む恋人の顔は、いつも通り優しかった。
その笑顔を見るだけで心が満たされるような気がする。いや、実際に満たされているのだろう。
深夜12時のパンケーキ。夜はまだ始まったばかりだ。
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