緑雨

 ポツン、と手のひらに一粒の雫が落ちてきた。慌てて上を見上げると、先ほどまで青々と晴れていた空は灰色の雲に覆われて真っ暗になっている。静かにぽつりぽつりと落ちてきた粒は、段々と大きく強いものに変わってきた。

 全く、今日はついてない。まさか雨が降るだなんて。


 なぜ今日に限って天気予報を見るのを忘れてしまったのだろう。頼みの綱だった折りたたみ傘も、昨日使ったまま干しっぱなしになっている。折り畳み傘は二本所持しておくべきだった。近いうちに買っておかなければ。


 しかし、今はこんな風に反省会をしている場合ではない。雨は段々と強さを増し、既に衣服の半分が湿ってきてしまった。

急がなければ。今朝の自分を少し恨みつつ、目的地へと向かうため小走りを始めた。



 やっとの思いで目的地にたどり着いたときには、既に全身はびしょ濡れだった。髪の毛からはポタポタと水がこぼれ落ちてくる。

身体に張り付く衣服の心地悪さと全身を蝕む寒気に耐え、震えた手でインターホンを押す。すると、すぐに軽快な声と共にドアノブを捻る音が聞こえてきた。扉を開けて出迎えてくれた恋人は、この姿を見ると目を丸くさせていた。


「あれ、傘なかったの?」

「忘れた。今日に限って。ごめん、タオル貸してくれるか?」

「そうなんだ、めずらしいね。待ってて、すぐ用意するから」


「よかったらシャワー浴びて。このままじゃ風邪ひいちゃうよ」


 ここは素直にお言葉に甘えることにしよう。受け取ったタオルで頭を拭きながらお礼を言うと、「気にしないで。お風呂も今つくっているから」と微笑み返された。



 普段ならばシャワーで済ますところだが、わざわざ湯船にお湯をはってくれたのだ。身体もまだ暖め切れていない。せっかくなのだからと湯船に浸かると、シャワーとはまた別の温かさが身体を包み込んできた。寒さで強ばっていた身体は溶け、少しずつ手足の痺れもほどけていく。



 外では絶え間なく雨が降っているのだろう。雨が窓を叩きつける音が聞こえてくる。

 そういえば、あの日もこのような天気だった。


 

 入学してから一カ月。授業が終わるとともに、外では雨が降り始めた。

 完全に予想外の雨だった。きっとただの通り雨だ、少し待てばやむだろう。そう思い辺りを見渡すと、同じ考えなのだろう、多くの人は授業が終わった後でも講義室を出ようとしなかった。


 その中に、どこか見覚えのある人物が一人。よくよく見れば、その人物は中学校時代の部活のチームメイトだった。高い身長に、少しタレ目がちなひとみ。きっと、そうだ。向こうも気がついたらしく、「久しぶり!」と声をかけてきた。


 同じ部活とはいえ、普段一緒にいる友人は互いに別だった。大人数の部活だったこともあり、関わる機会は数える程度くらいだっただろう。そのため特に深い交流はなく、仲の良い友達という関係でもなかった。ただ単に同じ部活の同級生。その他大勢の中の一人。進学先の高校すら知らなかった。


 雨が止むのを待つ間、ぽつぽつと話を重ねた。高校はどこへ行ったのか、サークルはどこへ入るのか、バイトは始めるのか。

 何年も会っていない相手だ。しかもそこまで仲の良い関係でもない。そのため、少し気まずい空気になると思っていた。

 だが、それは杞憂だったらしい。案外気が合うのだろうか、思っていた以上に話は弾んだ。そして雨が上がる頃に「これからもよろしく」と、連絡先を交換したのだ。


 

 その日から、ただのチームメイトから仲の良いといえる友人という関係になった。一緒に食事に行ったり、遊びに行ったり、甘いものを食べるために行列に並んだりもした。それから 何ヶ月か経ったとき、自分の気持ちに気が付いた。そしてまた一年が過ぎようとしていた時、今の関係を築くことができた。



 なんだか懐かしい。しばらく昔を思い返していると、すっかり体が温まった。用意されていた服を着て部屋に戻ると、机の上に紅茶のカップが二つ。恐らく淹れたてなのだろう。カップからは湯気が立ち上っている。本当に、今日は恋人の優しさが一層身に染みる日だ。


 今日は厄日だと思っていたのだが、案外そうでは無いのかもしれない。キッチンには、お茶請けなのだろうエクレアを大切そうに箱から取り出す恋人がいる。自然と自分の頬が緩んでいることに気がついた。



 好きだという気持ちはあの頃のままだ。けれども、日に日にその想いは増していく。

 相手に対する想いが募ることの嬉しさは、友達のままではおそらく分からなかっただろう。むしろ、想いが大きくなるほど苦しかった。


 一緒にいるという点は以前と同じだ。だけれど、あの頃と比べて変化したものは確かにある。


「雨、夜まで続くって。今日は泊まっていく?」


  窓を見ると、雨は先程以上の強さで降り続いていた。雲は更に厚くなり、空は一層暗さを増している。雨の音にまじり、時節雷鳴まで聞こえる。遠くでは雷が鳴っているのだろう。


 今のうちなら傘を借りれば帰ることができるかもしれない。「迷惑になるから」と、昔の自分ならそうしていただろう。

だけど、今はもう。


「泊まってく」


 土砂降りの雨も、たまにならいいかもしれない。

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