ドーナツの向こう側

 うちの母はあまり料理をする人ではなかった。

 幼いころ、主に食卓を彩っていたのはスーパーの総菜やレトルト食品の数々だ。母の手料理を食べた記憶などはあまりない。その理由は年を重ねるうちに何となくわかってきた。



「お母さんは不安定なんだ。心が疲れているんだよ。だから、助けてやってくれないか」


 小学生のころ、祖父が口にしていた言葉だ。

 思い起こすと母はよく沈んだ表情をしていた。元気がなく、気分が落ち込んでいるような顔。そうかと思えば急に元気になったり、ぼんやり窓の外を見つめたり。時々、薄暗い部屋でひとり静かに泣いている日もあった。


 きっと、答えはここにあるのだろう。母は料理を作らなかったのではなく、作ることができなかった。今となってはもう答え合わせをすることも叶わない。



 そんな母が唯一作ってくれたお菓子がドーナツだ。自分はまだ小学生だった。あの日のことは今でも覚えている。


「ドーナツが食べたい!」と駄々をこねたのは、三歳年下の妹だ。

 

 手には一冊の本が握られていた。聞くと、山盛りのドーナツが登場する本を読んだらしい。


「せっかくなら作ろうか!」と提案したのは母。


 あの日は普段より調子が良かったのだろう。本棚から埃のかぶったレシピ本を取り出し、材料を揃えるために3人へスーパーへと向かった。


 ドーナツを揚げる音はどこか雨の音に似ている気がする。鼻歌を歌いながらドーナツを作る母の傍らに立ち、その音を妹と二人で聞いていた。

 


 油の熱気と甘い匂いが台所を包み込む。あまり現実味のない、夢のような時間。でも何故だか懐かしい。遠い昔、まだ妹が生まれる前。そのくらい小さなときに同じようなことがあった気がする。


 いつもより元気な母と楽しそうな妹の姿。ゆっくりと時間が流れていく。いっそ、このまま時が止まってしまえばいいのにと思っていた。



 完成したドーナツは、少し形の崩れたものや焦げたものが交っていた。

 でもそれが美味しかった。スーパーやドーナツショップで買ったものよりも、ずっと。今考えると、ほとんどホットケーキと同じ味だったのかもしれない。

 

 豪快にかぶりつく妹を横目に、自分はドーナツを少しずつちぎりながら大切に食べた。母はドーナツには手を付けず、そんな光景を嬉しそうに見ていた。


 「お母さんは食べないの?」と尋ねると、「いいのよ」と静かに微笑んだ。母は食が細い面もあったため、当時はそのせいかと思っていた。きっとあまりお腹が空いていないのだろう。そう考えていた。



「うーん、お母さんもよく分からないの」

 母は困ったように顔に手を当てた。

「えー、そうなの?」

「そうなの。だから、今度作る時までに調べておくわね」

「また作ってくれる?」

 確か、自分はこう言った。

「ええ」

「絶対よ!」

 弾むような妹の声。

「もちろん、約束しましょう」


 3人で交わした約束。けれど、結局その約束は遠い彼方へと葬り去られてしまった。



 ドーナツに空けられた穴の理由も、出来合いが並ぶ食卓の意味も、今ならもう分かる。そして、あの時母がドーナツを食べなかった理由も。


 今目の前にいるのは、母親でも妹でもない。まして、ここはあの時の家でもない。

 ここいるのは自分より背が高く、甘いものに目がない恋人で、そんな恋人の部屋に自分はいる。


 目の前のテーブルにあるのは、皿に盛られたドーナツ。プレーン、抹茶、生クリーム入り。恋人は笑顔でドーナツに目を向けている。キラキラした目で見つめる姿は、まるで子供の様だ。


 独特の甘い香りが部屋を包み込む。

 きっと、母もこんな気持ちだったのだろう。

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