第10話 帰還

この香り…。


その人は、いつもいい香りがした。

男の俺がそんな香りを持つわけもなく、だからと言ってどの女性にも共通するものではない。


香水なのかと思ったが、他に似た香りに出会ったことがない。

その正体を聞くことも考えたが、それではいつもそのにおいを感じていたことを、本人に知られてしまう…。


だから、未だになんの香りなのか、知らない。




――― まぶたが重すぎる。


かすかに揺らされている身体から、車中にいることと、仰向けに寝かされていることぐらいは、わかった。

瞼の向こう側で、時折ほのかな明かりが通り過ぎるのも感じていた。

このまま、目を開けずに再び眠りについていいはずなのに、

自分を包む柔らかなぬくもりと、かすかに鼻をくすぐる香りの正体が見たくて、無理矢理に目を開ける。


「…起きたのかえ?」


頭上から降り注ぐ声の主は、その香りの人で。


帰ってきたときには、すぐにでも聞きたいことが山ほどあったのに。

仕事が終わったら…と躊躇ちゅうちょするうち、状況がそれを許さず。

今やっと、…この人の顔をゆっくり見られるはずなのに。

俺の口からは全く違う言葉が出てくる。


「…だ、ざい。…は?」


思ったほどの声が出ない。

…あいつに「てめぇが拠点まで連れていけ」と言っておいたはず。


「アレが律儀にお前をおぶって帰ってくるわけがなかろう?見事に地面に放り出されておったわ」


んぁ????

あんの腐れ青鯖あおさばがぁ!


…と叫びたいのに、声帯が追い付かない。

無駄な怒りの形相と、手足を少々ばたつかせる程度になってしまう。


「これ。ろくに声も出んのに無駄に体力を消耗するでない。お前はわっちの膝でおとなしく丸まっておればいいんじゃ」


額を押さえつけてくる手は少しひんやりとしていて、なのに柔らかく心地いい。

薄暗がりで、その表情は良く追えないけれど。その声は、俺の耳に優しく響く。


「…汚濁おぢょくを使えば、体は動かんじゃろ。しかも4年ぶり。…ちゃんと送って行ってやるから、ゆっくり休みや」


その、猫にするように、髪をなでるのをやめてくれ。

と言いたかったが。…おそらく、この人は自分がそんなことをしていることにも気づいていない。


「留守にし過ぎて、悪かった」


対向車のライトが一瞬だけ照らしたのは、見たことのない悲しげな顔。


「あねさん」

「ん?」


まだ、言えてなかった。


「おかえりなさい」


姐さんは、空いてる手で俺の左手を握って、答えた。


「ただいま」


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